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それは紫陽花の花に似て-鍵を守護する者③-

揺れ動く現実

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全校で部活の無い日だったと気づいたのは、午後の授業が始まってからだった。だから愛理は今日を選んだのかと、そう思った。委員会ごとの会議が行われるため、どの部活も一律休みとなる。委員会といっても役割は様々だ。文化委員であれば各組の文化活動や秋に行われる文化祭について、美化委員であれば校内および学区内の美化活動。音楽委員である美都は主に合唱コンクールについてだった。そういえばそろそろ各組で選曲が始まる頃だなと思い出していた。
委員会が終われば各自解散だ。部活動もないため用のない者は即帰宅するものも多い。外は雨のためやることも無い上にもう少ししたらいよいよ期末考査なのだ。学生生活は行事が多く目まぐるしい。
美都も委員会を終え帰ろうとしたところだった。見知った声に呼ばれふと足を留めた。
「高階先生!」
「すみません、呼び止めてしまって。少しだけお時間ありますか?」
なんだろうと思いながらも特にこの後用も入っていないため彼の言葉に頷いた。高階とは4限目の授業後に話をしていたところだった。すれ違う同じ委員の生徒たちが彼に会釈をして通り過ぎる。そして彼が何かに気付いたようだ。
「荷物は教室ですね?  でしたらその後で構いませんので職員室に寄ってもらえませんか?  渡したいものがあるので」
「わかりました!  すぐ行きますね」
一旦会釈をし、美都も教室へと急ぐ。渡したいもの、といえば恐らくCDのことだろう。また新しいクラシック曲のCDを貸してくれるに違いない。心を弾ませながら足を進めた。ちょうど各委員会が終わる頃だったのかすれ違う友人たちと挨拶を交わす。普段であればそのまま部活に直行するので妙な感じだ。通り過ぎる教室も生徒たちはまばらになって来ていた。早く帰宅できる日はなかなか無いので生徒たちも心なしか気持ちが弾んでいるようだった。
長い廊下を歩き、7組の教室へたどり着く。
「──!」
教室に入った瞬間、少し先で動く人影に息を呑んだ。7組もほとんど生徒は残っていない。だからそこに佇む生徒が目立つのは否応なしだった。
平然を装い、自分の席へ向かう。荷物を持って立ち去るだけだ。
「……帰るのか?」
「もう委員会も終わったしね。部活も無いし帰るよ」
窓際にいた四季が美都に問いかけた。鞄を手に取り彼の問いに答える。敢えて彼の方を見ないようにして。
四季はこの後、愛理と話があるはずだ。だからまだ教室に留まっているのだろう。美都は早々に教室から出て行こうと扉へ向かった。
「──少しだけ待てないか。話がある」
背後からする声に一度心音が大きく跳ねた。話、とはなんだろう。修学旅行で言っていたことだろうか。その話を聞くにしても、愛理と二人で話をした後になるはずだ。
「これから別件でしょ?  話なら家で聞くから。じゃあね」
美都は一瞬だけ後方に顔を傾けると四季の言葉を待たないまま教室を後にした。自分で言った通りだ。話なら家でも聞ける。だから今は二人の時間を優先すべきだと考えた。
小走りで廊下を過ぎる。呼び止められては困るから。いち早くその場から離れたかった。それに職員室で高階が待っている。ならば急ぐのは当たり前だ。2階に続く階段を昇り職員室へ向かおうとしていたところ、正面から名前を呼ばれた。顔を上げて声の主を確認するとちょうど委員会を終えた衣奈が降りて来ているところだった。階段の踊り場で立ち止まる。
「急いでた?  大丈夫?」
「ちょっとくらいなら平気だよ。どうかした?」
高階を待たせているが少しくらいならと衣奈の言葉に応じた。呼び止められた理由を問いかけると彼女は眉を下げて難しそうな表情を見せる。驚いて首を傾げると衣奈はポツリとその理由を話してくれた。
「美都ちゃんからあの後何も話がないから……その──上手くいかなかったのかなって」
面食らって目を見開いた。衣奈には修学旅行中に相談していたことがあった。気になる人との関わり方について。あの時随分彼女に励ましてもらった。衣奈はそのことを気にしているのだろう。彼女からは進展があったら報告して欲しいと伝えられていた。だが実際進展はしていない。むしろ後退したように思える。
美都は首を横に振る。上手くいかなかったのでは無い。結局自分が途中で諦めてしまったのだから。
「衣奈ちゃんの言ってたことは正しかったよ。ただね……色々重なっちゃったの。わたしがそれに対応できなかっただけ」
怖がらずに一歩踏み出せば自ずと見えてくるものがあるはずだと。彼女がそう言っていた。確かにそうだった。しかし自分の思いだけではままならないこともあるのだと知ってしまった。アドバイスをしてくれた衣奈に申し訳なくて少しだけ目を伏せる。
「それでいいの?  美都ちゃんは……どう思ってるの?」
その問いに顔を歪ませる。何度も繰り返されてきたこの質問に。
「……わからない」
どう思っているのかなんて。答えは出ていない。出せていない。出したくない。否、今出してはダメだ。知らない方がいいことだってある。気付く前に終わらせなければ自分が辛くなるだけだ。胸の中の靄はあの時からずっと取れないままだ。
「美都ちゃん……」
衣奈が心配そうな声で自分の名を呼ぶ。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「大丈夫だよ。ありがと、衣奈ちゃん。じゃあわたし行くね!」
パッと顔をあげ衣奈にお礼を伝えた後、すぐさま手を振り彼女の横を通り過ぎた。逃げるようにして階段を駆け昇る。ここ数日自分の感情が揺れ動いていることは知っていた。だから隠しておきたい。自分自身の中に閉じ込めておきたい。そうすればいつも通りに過ごせるから。
足早に職員室へ向かう。すぐに行くと言ったのに高階を待たせてしまった。申し訳ない気持ちで職員室の扉を開く。入室の挨拶をし顔を覗かせると彼はすぐに自分の存在に気付いてくれたようで、立ち上がってこちらへ向かってきた。そのため職員室には入らずに彼の動向を伺いつつ廊下で待つことにした。
「すみません、遅くなってしまって……」
「構いませんよ。こちらこそわざわざありがとうございます」
いつものように優しく微笑む姿に安心する。高階と話をしていると心が穏やかになるのだ。
彼は手に持っていたCDのケースを美都へ差し出した。その仕種を確認し彼からCDを受け取る。
「これ……この間お借りしたもの、ですよね?」
ジャケットに見覚えがあった。彼に一番最初に借りたCDだ。クラシックのピアノ曲が複数収録されている。念の為確認するように訊くと高階は頷いて答えた。
「えぇ。月代さんさえよければもらって頂けないかと思いまして」
「え!?  で、でも……!」
驚いて高階を見上げる。彼の申し出は嬉しいがCD1枚の価格は弁えていた。決して安いものでは無い。それに相当彼も聞き込んでいるものでは無いかと思ったのだ。
「実は似たようなCDを何枚も持っているんです。それは奏者にこだわりのないものですし、月代さんに気に入って頂けたようですし。好きだと言って下さる方の元へ置いて頂くのが一番かと思いまして」
ふわりと柔らかく高階が笑む。自分に気を遣わせないためだろうか。目を見開いて彼を見た後、再びCDの背面を確認する。『愛の夢』、『月の光』と自分の好きな曲が詰まったCDだ。何度でも聞きたかったため素直に嬉しい。だが突然のことでまだ動揺を隠しきれていない。
「ほ……本当に、いいんですか?」
「はい。僕のお下がりで申し訳ありませんが」
「そんな……!」
そう言って肩を竦める高階に対して、美都は首を横に振る。嬉しさを噛み締めるように両手でCDを握り締めた。
「嬉しいです。……ありがとうございます!」
喜びで顔を綻ばせた。これから大切に聴こう。
高階は美都の表情を見て安堵したように息を吐いた。
「あまり無理なさらないでくださいね」
「……?」
「先程話したときに、何かを抱えているようでしたので」
ハッと目を見開く。高階はやはり周りを良く見ている。自分の些細な変化にも気付いてしまう程に。ちゃんと隠せたつもりだったのにな、と思い苦笑した。
「大丈夫ですよ。心配おかけしてすみません」
今日何度目の言葉だろう。それだけ自分本位になっている証拠だなと言いながら反省する。高階に笑顔を向けると彼は少しだけ眉を下げて微笑みを返してくれた。
「そのCDの中に『トロイメライ』という曲があります。作曲家はロベルト・シューマン。クララの夫です」
「!  クララの……」
ブラームスとクララの話を思い出す。『雨の歌』に隠された叶わなかったブラームスのクララへの想い。
「ロベルト・シューマンの曲は温和な雰囲気のものが多いです。『トロイメライ』の意味は夢。たぶん、月代さんも好きな曲調だと思いますよ」
一度耳にしているはずだが、以前は『愛の夢』『月の光』ばかり気にしていたため聴き流してしまっていたのかもしれない。話を聞いた後だとまた印象も変わってきそうだ。
「はい。もう一度ちゃんと聴いてみます」
高階の言葉に頷いた。そう言うと彼は続けざまに、
「この頃の作曲家たちの親交を知るともっと面白いですよ。興味があればまたお話ししますね」
と、笑みを浮かべて言った。さすがに音楽教師だけあって博識だなと思う。彼の言葉には雑じり気がない。だからつい耳を傾けてしまうし聞いていて心地良いと思うのだろう。今まで知らなかった音楽家の話でさえ興味が湧くほどに。彼につられて笑みが零れる。
「──……っ!」
瞬間、背筋に悪寒が走った。思わず目を見開いて振り返る。宿り魔の気配だ。グッと喉を引き締める。
「すみません先生!  わたし、教室に忘れ物をしたみたいなのでこれで失礼します」
「えぇ。気をつけて帰ってくださいね」
「はい!  先生も!」
一礼する前に確認した高階の表情は、一瞬驚いていたようにも見えた。いきなり慌て出せば当然の反応だ。だが彼は動じることなく自分の背中を見送ってくれた。彼の計らいに感謝する。
スポットの気配を頼りに足を運んだ。なんだろう、いつもより嫌な予感がするのは。それにこの方向は7組のある方だ。まさか、と心音が大きくなる。
走りながら首にかかっている指輪を取り出す。もしそうだったとしても四季がいる。なら大丈夫だと言い聞かせた。それでも不安な思いが拭えない。
粛々しゅくしゅく──紗衣加さいか!」
美都は周囲を確認しながら己の気配を消す言葉を結んだ。





呼び止めようとしたが彼女が教室から去る方が早かった。四季は窓際でひとりごちる。
別件、と口にするぐらいだ。誰と待ち合わせをしているのか恐らく彼女は知っているのだろう。いつにも無く空元気だったな、と彼女を見て思った。否、今日だけのことではない。修学旅行から帰ってから特にそう感じるようになった。空元気というよりもいつも通りに振舞っているのか。気付く者にしかわからないだろう。何かあったのかと訊いても何もないと答えが返ってきた。何もないはずは無い。だが理由がわからない限り自分ではどうしようもないのだ。
窓枠にもたれながらハァと溜め息を吐く。何もない、と答えるのは当たり前のことか。自分は彼女にとって何者でもない。同じ家に暮らしているだけの同級生。ただそれだけだ。そろそろ苦しくなってくる。この関係が続くのかと思うと目眩がしそうだ。
ガタッと教室の扉に手がかかる音がした。顔を上げて目線を遣る。自分を呼び出した人物が口を真一文字に結んで立っていた。
「……随分と待たせるんだな」
「まあ──ちょっと色々考えることがあってね」
愛理が目を伏せながら自分が言った皮肉に応じた。いつもよりも覇気が無い。昼間、何やら美都と話し込んでいたようだがそれが原因だろうかと首を傾げる。雨の音に紛れてはいたが、珍しく美都が取り乱していた声が聞こえた。野次馬も良くないと弁えていたため具体的な内容までは耳に入らなかったが。続くようなら和真が止めに入ろうとしていたところだった。
「……あたしはあんたのことが気に入らなかった。あたしがあの子から目を離したせいもあるけど、知らない間に現れてその上親戚だなんて言われて……何も知らない顔であの子の側にいるのが許せなかった」
苦い顔で一つ一つの言葉を噛み締めながら愛理が呟く。下ろしたままの手は強く握られていた。四季はその言葉に応じることなく無言で耳に流す。
側にいるのは、守護者として同じ家で暮らしているからだ。だが目の前の少女はそのことを知らない。伝えるつもりもない。これは守護者の使命だからだ。彼女が勘違いするのも無理はない。だが彼女にとってはそれさえも気に入らないのだろう。
「言ったわよね?  中途半端な気持ちで近づかないでって。中途半端さは美都を傷つける。──そう思ってた」
過去形で話す彼女の言葉に違和感を覚える。そう話すということは今は違うという意味か。だとしたら何か原因があるはずだと。問う前に愛理が言葉を続ける。
「あの子は──……何も言わないの。何も言わないことに慣れているから。知らないでしょ?  あの子が鈍感なのは他人と深く関わらないようにしてるからよ」
愛理は苦い笑みを浮かべながら美都のことを話していく。その眼差しはひどく優しい。本当の身内のように、まるで彼女の心を請け負っているかのようだ。言葉の端々から愛しさが感じられる。彼女にとって美都がどれだけ大切な存在であるかが。
「俺は確かにあいつの事は何も知らない。だけど、ただ親戚だからという理由で敵視するのは早急なんじゃないのか」
「どんな理由があるにしろ、いたずらにあの子に近付いて欲しくなかった。あの子は誰よりも繊細なの。いつか離れるくらいならこれ以上深入りしないで、って」
互いの境遇についてこれまで深く話したことはない。それは過干渉になるからだ。愛理の言葉から、おそらく美都には何か家庭の事情があるのだろうと察することが出来る。愛理が彼女を執拗に心配するのもそれが原因なのかもしれない。だが今はそれを訊ける状況ではない。それに訊くにしても本人からだろう。
「美都の最近の変化には気付いてる?」
「……なんとなくは」
「なんとなく、ね。まぁ気付いてるだけマシね。あの子は隠すことで自分を保ってる。本当に……どうしたもんかしらね」
言いながら愛理が大きく息を吐いた。やはり美都が最近空元気だったのは間違っていなかった。
「──それで、お前はどうしたいんだ?  ずっとあいつの保護者でもしてるつもりか」
「そんなわけないでしょ。だから見てたんじゃない。あんたがどう出るかを」
「!」
────そう言うことか。
ハッと目を見開く。今にしてようやく愛理の意図が読めた。彼女が執拗に邪魔をしてきたのは自分を試していたからか。自分が美都にとって信用に足る人間かどうか見極めたかったのだろう。修学旅行の帰りの電車で言っていたのはそのことか。
「……ねぇ、なんで言わないの?  誰に何を遠慮してるの?  中途半端じゃないなら──どうしてあの子を翻弄するようなことするのよ!」
一気に愛理の感情が昂ぶる。先程の考えが正しいのだとしたら当たり前の反応だ。もう少ししたら愛理はまた海外へ飛ばなければならない。大切な美都をおいて。側に居て見守ることが出来ないから、彼女は不安なのだ。
四季は苦虫を噛み潰したように顔を歪ませた。言わないのは────これからも美都と同じ家で暮らしていく上で障害を作りたくないからだ。だがそれを何と説明すればいい?  正直に伝えたところで納得するのだろうか。
その時、愛理のスカートのポケットからゴトッと大袈裟な音を立ててスマートフォンが滑り落ちた。ハッと彼女が目線を下に向ける。四季のいる場所からでは画面はよく見えない。しかし彼女が苦い顔でそれを見ているのはわかった。
「……もういい」
そう言って彼女が諦めの息を吐きながら、スマートフォンを拾うために屈む姿勢をとった。
背筋に悪寒が走ったのは、一瞬だった。四季は嫌な予感がして目を見開く。だがそれを察知したのがほんの数秒、遅かった。
「待て!」
制するより早く愛理がそれに触れる。四季がこの場面に立ち会うのは初めてだった。突如として、彼女が触れたスマートフォンが強い光を放つ。経験したことのない強い光に思わず目を眩ませた。
更にこの後、対処しようのない状況に陥るなどとは予測のしようが無かったのだ。



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