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新緑の頃、再び -鍵を守護する者②-

自分が選ぶ道

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「付いてなくていいのか?」
公園の裏へ出ると、四季が振り向き美都に訊ねた。
いつもであれば対象者が友人の場合、目を覚ますまで傍にいる事が多いのだが今日は休日で校外だ。美都は肩を竦めた。
「今日は特に会う予定じゃなかったから。わたしがいたらびっくりしちゃうでしょ?」
その答えに四季はなるほどという顔をする。本当は傍にいたいところだが逆に不審に思われかねない。不幸中の幸いだったのはまだ昼間だった事だ。これが夕暮れだったら必ず離れることはないがこの時間なら人通りも多いし大丈夫だろう。
「またお前が先だったな」
「わたしのほうが近かったしね。わざわざありがと。四季も部活から帰ったばっかりだったのに」
「いや、それは大丈夫だ。お前は?  またこれから戻るんだろ?」
宿り魔の気配を追って飛び出すように常盤家を出てきた。昼食を作っていた円佳から「冷めないうちに帰ってこい」とお達しが来ている。多加江の作った菓子を食べていたおかげで動けたが程よくお腹も空いてきた。四季の質問に頷くと把握したように彼も身体の向きを変えた。
「じゃあ俺はせっかくだしすみれさんとこ寄ってってみるわ」
「え?  じゃあわたしも行くよ」
四季の言葉に思わず賛同する。彼は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「だめ?  邪魔?」
「いいけど絶対会えるかわかんないぞ」
「それはわかってるけど……今日はなんか会えそうな気がする」
「なんだそれ」
美都の受け答えに軽く笑むと四季は教会に向かって歩き出した。美都も彼の後に続く。
「お腹空いてないの?」
「空いてる。帰ったら適当になんか作る」
四季と同じ部活である和真と会話してからそう時間は経っていなかったため、彼は帰宅後何も食べていないのではないかと思ったら案の定だった。空腹状態で良く動けたものだ。やはり鍛え方が違うのかと感心してしまう。
四季とは数日前にちゃんと話し合ったことで、以前よりも気楽に話せるようになった。今まで互いに遠慮がちだったため同居して1ヶ月にしてようやく進歩したなと思う。それに彼は意外と気遣ってくれる。今もさりげなく自分の歩幅に合わせてくれているようだ。
「あっ」
「何?」
「ピアノの音が聴こえるなーと思って」
不意に顔を上げた美都を、四季が不思議そうに見る。久々に聴くピアノの音に顔が綻ぶ。『愛の夢』だ。高階に曲名を教えてもらってから初めて生音を聴いた。この音に導かれて教会へ立ち寄ったのだ。だから自分の今日の予感は当たっている気がする。
上機嫌に歩く美都を横目に、四季がおもむろに口を開いた。
「好きなんだな、ピアノ」
「うん。自分じゃ弾けないけど、高階先生に貸してもらったCDがすごく素敵で」
「……ふーん」
専門的にピアノを習ったことがないため弾くことは出来ないがピアノの音は好きだ。高階から借りたCDを聴いて気になる曲も増えた。連休明けに礼を伝えなければ。
そう笑顔で答える美都に対して四季は複雑そうに相槌を打った。見れば眉間にしわが寄っている。その様に思わず首を傾げた。
「どしたの?」
「なんでもない。ほら着いたぞ」
他愛ない会話をしているとあっという間に教会に着いた。四季に促され建物へ近づく。今日は祝日だが扉が開いているのが確認できた。木製の重い扉から顔を覗かせる。
「こんにちはー……」
控えめに入室の挨拶をする。相変わらず空気が澄んでいるのか自分の声が反響して聞こえた。前方で人の動く影が見えて目線を向ける。
「あら、こんにちは美都さん。四季さんも一緒なんですね」
二人の名前を親しげに呼んだのは菫だった。遅れて入ってきた四季も名前を呼ばれて彼女に会釈をする。彼女に会うとノスタルジックな想いになるのは場所にも理由がありそうだ。ここの教会はそんな雰囲気がある。
菫は微笑んで二人を迎え入れた。
「今日はどうしましたか?」
まるで診療所の医師のように用件を伺う菫に苦笑する。あながち今の例えは間違いではない。菫の方へ歩きながら用向きを口にする。
「えっと……この間の話の続きを──」
言った後にそういえば四季は何用で訪ねたのかと不思議に思って振り向く。彼と目が合うと把握したように頷いた。彼も訊きたいことは同じらしい。改めて菫の方に向き直った。
「わかりました。あなたがたの疑問にお答えしましょう」
菫はそれぞれの近くにある椅子へ腰掛けるように勧める。美都はそれに従い木製の長椅子の端に腰を下ろし、四季は手振りで遠慮の意を示しその場で佇んだ。
美都は息を吐いて菫を見上げる。相変わらず背筋がシャンと伸びていて出で立ちが美しい。そんなことを思いながら口を開いた。
「キツネ面を被った女の子に会いました」
「なるほど……。その少女が何か?」
「……彼女には、宿り魔と同じ刻印がありました」
言いづらそうに美都が遭遇した少女について説明をしていく。以前、この場所で菫に聞いた情報を脳内に浮かべながら。
「菫さんが言っていた”人間に憑いた宿り魔”とは、彼女にも当てはまりますか?」
美都の質問に、菫はその表情に影を落とす。何かを考えるようにしばらく沈黙した後、後方にいる四季に声を掛けた。
「四季さんはどうお考えですか?」
話を振られた四季は彼女同様一呼吸考えた後ゆっくりと口を開いた。
「キツネ面の少女はどう見ても人間でした。それでも彼女に刻印があるということは、彼女自身に宿り魔が憑いているってことなんじゃないですか?」
普段より比較的丁寧に、四季がこの間自分にも話してくれた内容を復唱した。
菫は四季の考えを聞くと顔を伏せ、無言で頷く。やはり彼の予想は当たっていた。宿り魔が憑くのは無機物だけではないということだ。
「その通りです。宿り魔は人間にも寄生します。それほどにあれらは力をつけているのです」
背筋にゾクリと悪寒が走る。予想が的中しただけにその意味を考えると一層恐ろしく感じる。弥生たちの代では現れなかったということは、力をつけたのは近年ということなのだろうか。続けて四季が疑問を呈した。
「宿り魔の気配がしないのはなぜです?」
「気配を操っているのでしょう。その少女は自分に宿り魔が憑いていることを承知なはずです。ならば日常生活を滞りなく過ごすために、自在に気配を使っているはずです」
そんなことがあり得るのかと、菫の言葉に目を見開いた。だがそうであるならば以前ここで遭遇した来訪者にも納得がいく。最近の宿り魔に似た気配が度々感じられたのもそのせいか。
キツネ面の少女がなぜそうするのかはわからない。自分たちをからかって遊んでいるかのようだ。
美都はぐっと喉を引きしぼるとずっと考えていたことを口にした。
「彼女に憑いた宿り魔を退魔するには……──やはり武器を向けるしかないんでしょうか……?」
伏し目がちにポツリと呟く。菫は美都の言葉を受けると彼女を静かに見つめた。
「──怖いですか?」
「……はい」
菫の質問に、否定することなく応じる。たとえ宿り魔にしか通用しない剣だとしても、武器を手にすることは責任を負うことだ。間違って彼女を傷つけることがあったらと考えると足が竦む。
苦い顔をしたまま俯いていると足元に影が出来た。そして自分の頬に温かい指が触れる。その温もりに思わず顔を上げると菫が眉を下げて微笑んでいた。
「人間を攻撃することが恐ろしいと思うのは当然の摂理です。あなたもまた人の子ですから」
「……でも、それじゃあダメなんですよね?」
「──あなたは優しい。その心を決して忘れないでください」
「……?」
答えになっていない菫の言葉に首を傾げた。四季は二人の会話を静かに見守っている。彼には覚悟がある。人に武器を向ける覚悟が。自分にはまだ、無い。後ろめたい気持ちが強くなる。
菫が美都を見つめたまま言葉を続けた。
「今はまだ、直接退魔する方法しかないでしょう。あなたがたが手にしている武器は宿り魔にしか反応しません。それでも優しいあなたにはそれが恐ろしいのでしょうね」
美都は無言で頷く。先ほど自分が考えていたことを見透かすように菫は説明をなぞった。
「美都さん、私が以前言った言葉を覚えていますか?」
「え……?」
そう問われて美都ははたと目を見開いた。どの言葉だろうかと記憶を遡る。
「力を如何に使うか、ということです。その答えは今も自分の中にありますか?」
菫は優しく微笑む。力を何に使うか、如何に使うか。前回彼女が美都に伝えた言葉だ。
あの時はただ、力が怖かった。今度はその力によって誰かを傷つけてしまう気がして怖いのだ。
力は、ただ力で。大切な人を守りたいという想いこそ自分の信念だ。
「……はい」
弱々しく彼女の質問に答えると菫はまた柔らかい笑みを美都に向けた。それはさも慈愛に満ちた表情で。
「あなたの優しさこそ力です。この先きっとその力が必要になるでしょう」
「わたしの……?」
相変わらず菫の言い回しは難しい。小首を傾げて聖母にも似た彼女に瞬きを送る。
「四季さん」
不意に菫が四季の名を呼んだ。それまで沈黙を貫いていた四季がその声に応じるように彼女へ向き合って姿勢を正す。
「あなたには恐らく覚悟がおありでしょう。しかし、だからと言ってあなた一人に背負わせることではありません」
「……?」
四季もまた菫の言葉の意味を図りかねているようだ。美都が出来ないなら自分がやるしかないと思っているはずだ。それを否定されて怪訝な表情を浮かべている。
「あなたたちは二人で一つの鍵を守る守護者です。その立場に優劣はありません。どの場面においても対等です」
その言葉には俄かに聞き覚えがあった。確か弥生も同じようなことを言っていたはずだ。守護者同士はあくまで対等な立場なのだと。
菫は二人を互いに見ながら静かに言葉を続けた。
「──『私にできてあなたにはできないこともあり、あなたにできて私にはできないこともあります。だから、ともに力を合わせれば、素晴らしいことができるのです』……──この言葉をどうか胸に留めておいてください」
何かの一節を朗々と紡ぐ。菫の声は透き通っていて耳に心地よい。四季はまた何も言わずただ彼女を見つめているようだった。
菫は美都の前に手を差し出す。長袖のワンピースから見える手首は細く白い。透き通るような肌に思わず見とれそうになりながら、美都はその手を取って立ち上がった。そして彼女はいつも通りの優しい笑みを浮かべて呟いた。
「あなたが選ぶ道を信じてください。そうすれば自ずと開けてくるはずです」
「わたしが選ぶ、道……?」
そう訊き返すと菫は無言で頷いた。不思議だ。やはり彼女の言葉には力があるように感じる。胸の奥にあるわだかまりを拭ってくれるような。
菫の瞳に己の姿が映る。彼女はそれに気づいたかのようにゆっくり瞬きをした。そして初めて出逢った日と同じように美都の手を包み込む。
不安な気持ちが薄れていく。手から伝染した熱が心まで温めてくれるようだ。その温もりが、なんだかもどかしくもある。
しばらくそうした後、今度はその手を美都の頬に移動させる。しなやかな動きを目で追いながら再び彼女と視線を交わすと、菫は一段と表情を柔らかくし美都に伝えた。
「あなたはあなたであれば良いのです。そこに間違いはありません」
傾き始めた陽がステンドグラス越しに差し込み礼拝堂内を照らした。





ギィという鈍い音がする木製の扉を閉め、二人は教会の外に出た。この中にいるとつい時間を忘れてしまう感じがする。美都はほう、と息をついた。
あの後四季は、瑛久たちと話をしていた時に話題に出ていた『気の流れが滞る要因』について菫に聞いていた。すっかり忘れていたがそういえばその問題もあったのだと思い出した。さすがに彼はしっかりしている。
宿り魔に似た気配がここ最近度々感じられるのはキツネ面の少女が原因だということはわかった。しかし宿り魔の発生源については不明のままだった。四季はそれについて詳しく聞きたかったようだ。
菫はそれに関して、「宿り魔のたねがどこかで生み出されているのは確かです」と静かに言った後、それがどこかまでは自分にも判らないと首を横に振った。菫は言及こそしなかったが「生み出されている」と言うことには恐らく人の手を介しているのを意味しているのだろう。胚が自生するものでないとしたらそういう理論になる。
一通り質疑応答を繰り返した後、四季も納得したような表情を見せ菫にお礼を伝えた。そして二人揃って菫が見送る中、礼拝堂を後にしたのだ。
美都は菫の言葉を脳内で反芻する。自分の胸の前に手を置いた。彼女の言うことは不思議とスッと自分の内側に入ってくるのだ。
(わたしにできてあなたにはできないこと、あなたにできてわたしにできないこと、か──)
なんだろう、と考える。
四季は、できることがたくさんあるように思う。比べて自分はどうだろう。
人には得手不得手があると言ったのは自分だ。それに甘んじるつもりはないが引け目がないわけでもない。何もかも中途半端な自分に嫌気がさすこともある。
菫は自分の優しさこそが力だと言っていた。それが今後必要になるとも。しかし自分自身、彼女の言葉の意味を図りかねている。
(わたしが選ぶ道……)
本当はまだよくわからない。信じることは責任を伴う。だからこそ怖い。
それでも。いつまでも迷っているわけにはいかない。そう思って顔を上げた。
「──……四季!」
ここの教会は一般道に出るまで少し距離がある。その間で前を歩いていた四季を呼び止めた。彼は美都の声に応じるよう振り向いた。
四季と視線を交わす。いざ向き合うとどう話そうか口籠もってしまう。彼は自分が喋り出すのを待ってくれているようだ。
「わたし……考えてみたの。さっき菫さんに話したこと」
言葉がまごつく。上手く説明出来るかわからない。それに自分の考えを伝えるのには勇気がいる。彼はどういう反応をするのだろうか。
グッと息を呑んで再び彼の瞳を見た。
「この間四季と話して、覚悟ってなんだろうって。わたしにはそれが出来るのかなって。わたしは──……」
思わず目を伏せる。四季はずっと静かに自分の話を聞いてくれている様子だった。
「……やっぱり、怖い。人に剣を向けることが。わたしには……その覚悟が出来ない」
キツネ面の少女を思い浮かべる。人間でありながら宿り魔が憑いている彼女を。
彼女に剣を向けることが出来なかった。今後対峙していくうちでもしかしたら変わるかもしれない。それでも今の心持ちでは難しい。それを素直に伝えた。
「甘い考えだってわかってるの。このままじゃ四季に負担を背負わせるってことも。でも……、やっぱり今は出来そうになくて……」
「……別に、いいんじゃないかそれで」
「え?」
沈黙を破り、四季が声を発した。驚いて目を見開く。彼は今、自分の言葉を肯定したように聞こえたからだ。目を瞬かせていると四季が言葉を続けた。
「俺はなんとなく、お前はそういうんじゃないかと思ってた。それがお前のいいところでもあるしな」
「でも……!  今のままじゃ全部四季に押し付けちゃうことになるんだよ?」
四季の言葉を上手く落とし込むことが出来ず、つい食い下がってしまった。彼はその場で溜め息を吐く。
「なんだよ。責められたいのか?」
「そうじゃない、けど……」
後ろめたさがあるのは事実だ。嫌な役割だけ彼に押し付けてしまっているようで。苦い顔のまま俯くしかなかった。
自分でもどんな言葉を期待していたのかわからない。でも非難されないことは逆に苦しくもある。自分だけが逃げているような気がして。
言葉を紡げずに顔を伏せていると、足元に置いた目線に四季の靴が映り込んだ。ハッと顔を上げると彼が目の前まで来ていた。
「逃げてるって思ってる?」
「……うん」
一瞬だけ四季と目を合わせるが、彼の質問の鋭さに居た堪れなくなりすぐに目を逸らす。
すると次の瞬間、目の前に影が出来たかと思えばそのすぐあと額に鈍痛が走った。
「ぃっ……!?」
予期せぬその刺激に驚いて両手で額を押さえる。どうやら四季が美都の額を指ではじいたようだった。威力的には強くなかったが不意打ちのことに動揺して目を丸くしていると彼が呆れたように呟いた。
「お前、菫さんに言われたろうが」
「──?」
ハァと息を吐いて美都の額を弾くために上げた手をそのまま彼女の頭に優しく乗せた。その仕種にまた驚いて彼を見つめる。
四季は一呼吸置いて言葉を紡ぎ始めた。
「お前に出来ないことを俺は出来るけど、俺に出来ないことをお前は出来る。考え方にしてもそうだ。俺はお前みたいな優しい考え方は出来ない。でもそれで間違いじゃないんだ」
「……?  どういうこと?」
「確かに今は、退魔するには武器をむけなくちゃいけない。でももしかしたら今後そうしなくてもいい方法が見つかるかもしれないだろ?  その時に必要なのは案外お前みたいな考え方ができる奴なんじゃないかって」
先程の菫の話を噛み砕いて説明してくれているようだ。それでも意図を汲み取ることが難しく美都は首を傾げる。
「わたしみたいな……?」
「俺はすぐ武器ちからに頼ろうとするからな。対してお前はちゃんと目の前のものを見て打開策を考えようとするだろ。まあ今は何も思いついてないかもしれないけど、ちゃんと答えを出した時点で逃げじゃないさ」
そう言ってふっと息を漏らして微笑む四季の顔はいつもより柔らかく感じた。
自分の考えを否定されると思っていた。甘い考えだと糾弾されると。守護者でありながら、人に憑いているとはいえ宿り魔を退魔出来ないなんて。それでも全くもってその通りなのでその言葉を受け入れる覚悟だってあった。しかし目の前に佇む少年は、自分の言葉を否定せずただ得心したかのように優しく包んでくれたのだ。そしてぽんぽん、と励ますように美都の頭に乗せた手を反復させた。
その優しさに心の奥に温かいものが広がる。言葉では言い表しようのない気持ちだ。
最近ずっとそうだ。少しだけ自覚はしている。それでも。
「……また四季に助けられちゃったなぁ」
眉を下げながらもその顔に笑みを零す。
四季は美都の表情を見ると虚を突かれたように目を丸くした。そして何か言いたげに口を開閉させた後、その瞳を細めポツリと呟いた。
「────お互い様だ」
優しく撫でるようにしていた手を、髪をなぞるようにゆっくりと頬のあたりへ動かす。四季の指が首筋に触れ、少しだけくすぐったかった。
「四季……?」
自分を落ち着かせるために置いていたであろう手が一向に離れず、美都は不思議に思って彼の名を呼び視線を上げた。そして次の瞬間にまたやってしまったという若干の後悔を感じることになる。
思わず目を合わせたその赤茶色の瞳が、真っ直ぐに自分を捉えていたからだ。この瞳はまずい。動けなくなると知っていたのに。
心音が一度だけ大きく跳ねた。だめだ。他人との距離を考えなければと思っていたはずだ。特に彼は人気があるのだから。あまり近づきすぎてはいけないと。
「!」
瞬間、ポケットに入れておいたスマートフォンが仰々しく鳴り響いた。その音に驚いて二人してハッとする。
彼の指が離れ、半ば助かったと思いながらスマートフォンを取り出して画面を表示させる。呼出音の主は円佳からだった。そうだった。宿り魔が出現したから慌てて飛び出してきたんだった。作ってもらった昼ご飯を放置してしまっていることを思い出し一気に血の気が引く。
「ごめん、わたし戻らなきゃ!」
「あぁ悪い、そうだったな」
四季にそう伝えて再びスマートフォンをポケットに仕舞う。ここからならそう時間はかからないがなんとなく走りたい気分だった。そうして手を口元に当てたまま目を逸らしている彼を横切ろうとした時。
「────美都」
不意に名前を呼ばれ、ハっと四季を見る。すると同じように彼も振り向いて自分に向き合った。
「夜、何食べたいか考えといて」
びっくりした。ただの献立の相談か。なんだか名前を呼ばれたのが久々な気がして構えてしまった。
「何でもいいの?」
「フルコースとかじゃないならな」
彼の発想が面白くてつい吹き出してしまいそうになる。なんだかんだ気遣ってくれるのだなあと頭が下がる思いだ。
「わかった。後で連絡するね」
じゃあまた夜に、と別れを告げ四季に背を向けると小走りで駆け出す。全く、走る前から心拍数が上がるなんて聞いたことがない。だからこの異常な鼓動の早さを走ることで誤魔化したかったのだ。顔が熱いのはきっと季節が夏に向かっているからで。そこに理由などないはずだ。そうでなかったら。
(病気かもしれないな、わたし)
とにかく今は常盤家に向かって足を動かすのみだ。円佳への言い訳も考えなければ。そう思いながら美都は雑念を振り払うように頭を小さく横に振って目的地を目指した。
一方取り残された四季の方にも思うところがあったらしく、美都の姿を見送った後一人大きく息を吐いた。
(あ……ぶなかった──!)
ただ彼女を鎮めようとして乗せた手だったはずだ。肩を落とす彼女を見て励ますつもりだったのに。首筋に触れた手を離したくないと思ってしまった。
(ったく……)
四季は前髪をかきあげ頭を抱えた。
人の気も知らないで。これだから無自覚ってのは厄介なんだ。無防備が過ぎる。
しかし反応的には悪くなかったはずだ。少なくとも以前のように嫌がられたりは──。
「…………」
保健室での出来事を思い返して苦い顔になる。地味に傷ついていた自分に顔をしかめざるを得ない。
眉間にしわを寄せたまま頭を横に振る。あの時とは状況が違う。もうちゃんと、わかったから。
(まあ焦らず……着実に、だな)
なんだかんだ一番彼女と時間を共有しているのは自分なのだ。今自分に必要なのは自制心。これだ。
四季は自分自身に言い聞かせると一つ頷いて歩き出した。ここから家まで少し距離がある。頭を冷やすにはちょうど良い。さて、夕飯の献立は彼女如何として問題は。
「昼飯どうするかな……」
そう独り言を呟いて四季はマンションへと歩を進めた。
このすぐ数日後に、『焦らず着実に』という構想が崩れるとも露知れず。


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