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新緑の頃、再び -鍵を守護する者②-

旋律の影に

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案の定、4限目は騒がしくなった。主に女子生徒からの歓声で、だ。
「今日から皆さんの音楽を担当することになりました、高階律たかしなりつです。急な変更となりましたが、よろしくお願いします」
そう簡潔に自己紹介を済ますと、彼はゆっくり丁寧にお辞儀をした。
一つ一つの所作が洗練されている。容姿だけでなくその動きの美しさに見惚れてしまう。
爪は短く切られており、清潔感がある。そう言ったこまごまとしたところも目を惹く理由の一つなのだろう。
生徒たちからも簡単に自己紹介をすることとなった。基本的には名前だけだ。
高階は名簿を見ながら顔と名前を確認していく。女子生徒たちは落ち着かない様子でいつもよりも溌剌とした声で名乗っていった。
当然美都にも順番が回ってきて前の女子生徒が着席するのを確認して立ち上がり名前を言う。
名乗りはじめのときに名簿を見ていたため気付かなかったのか、改めて美都の顔を確認すると高階は一瞬何かを思ったように目を見開いてそれから間もなくニコリと微笑んだ。
(わ……)
春の陽射しのような温かい笑みに思わず顔を赤らめる。
確かに同級生が騒ぐのも無理はない。ほぼ初対面に近い自分でも心を掴まれてしまいそうだ。
その上授業の質も悪くなく、それまで面白く感じていなかった男子生徒をも納得させる程だった。
授業が終わるとあっという間に女子生徒に取り囲まれ質問攻めにあっていた。そう言う姿を見ると別に委員と言う名の口実もいらない気がするなあと、波が引くまで遠目から見ることにした。
零れてきた内容を整理すると、歳は26、昨年新任でこの第一中学に来たらしい。大学ではピアノを専攻していたが特にピアニストを目指していたというわけではないとのことだ。
次の授業が無い4限目ということでしばらく待つな、と確信して他の生徒より1歩引いて成り行きを見守った。ようやく落ち着いた頃、委員として挨拶に向かうことが出来そうだと見て彼の元へ向かう。
もう一人の音楽委員の生徒は給食当番のため早めに教室に戻らねばならず、やむを得ず美都ひとりとなった。
グランドピアノの横に立っている高階と対面する。
「このクラスの音楽委員です。よろしくお願いします」
「お待たせしてすみません。君は……あのとき楽譜を拾ってくれた子、ですよね」
「!  はい、そうです」
「その節はありがとうございました。えっと……月代さんですね。よろしくお願いします」
あんな一瞬のことを憶えていてくれたのかと感心する。
何せ1ヶ月程前のことだ。何百人といる生徒の顔と名前を一致させるのだけでも大変だろうに、あの数秒のことを記憶しているとは思わなかったのだ。
自己紹介のとき目を見開いたのはそのことだったのだろう。何にせよ憶えていてもらえて嬉しく感じる。
「次の持ち物は教科書だけで大丈夫ですか?」
担当教師に持参物を訊きクラスに連絡することが委員の役割だ。
美都がそう訊ねると高階は頷いて口を開いた。
「そうですね。それでお願いします」
「わかりました」
そう言って業務的な会釈をし、踵を返した。
椅子に置いたままにしていた教科書と筆記用具を取りに行く間、高階がピアノの前に座ったのが横目で確認出来た。
何か弾くのだろうか。だとしたら邪魔にならないように早く去らなければ。
なるべく音を立てないようにと思いながら扉へ向かう。そのとき。
背後からピアノの旋律が溢れだした。その旋律に足止めを食らう。気付いたときには振り返っていた。
「この曲……!  ──っ」
無意識に声が出た。その声の大きさに自分で驚いて慌てて口を塞ぐ。
ピアノの音は8小節もいかないうちに終わった。高階が美都の声に反応して手を止めたからだ。
そして彼もまた驚いたように椅子に座ったまま身体を捻り美都を見た。
「す──……すみません……!  突然大きな声を出して……」
恥ずかしさで顔を赤らめ俯いた。更に演奏の手を止めてしまった申し訳なさで気後れする。
自分でも自身に驚く行動だ。
しかし高階は気分を害するでもなく、ただ先程と同じ空気感で美都へ言葉をかけた。
「いえ、構いませんよ。それよりもこの曲がどうかしたんですか?」
柔らかい口調に安心してそっと顔を上げる。
高階の質問に答えるべく美都はおどおどと口を開いた。
「あ……えっと……。この曲、わたしの家の近くでよく聴くんですけどずっと曲名がわからなくて……」
突き詰めて言えば今はそこには住んでいないのだが、わざわざ話をややこしくしないために敢えてそう言った。
いま高階が演奏していた曲は、あの教会付近でたびたび耳にする曲だったのだ。
美都の回答を聞いてなるほど、といった風に頷いた。
「この曲は、『愛の夢第3番』。作曲者はフランツ・リストです」
「あいの……、ゆめ──」
高階の言葉を小さく復唱する。頭の中で漢字を記した。旋律も美しいが曲名もそれに劣らない。今までずっと耳にしていた曲のタイトルをようやく知ることが出来て感慨深く息を吐いた。
高階は美都の反応を見るとふっと笑んでピアノに向き直った。
「リストだと、他にはこんな曲がありますね」
なんだろうと無意識にピアノの方へ吸い寄せられるように足が動く。
彼がそう言うと、細くて長い指が鍵盤を叩き始めた。
瞬間音に包まれる。少し暗い音がするものの躍動感のある曲だ。
先程聴いた『愛の夢』とは全く雰囲気が違う。
だがこれもどこかで耳にしたことがある曲だと思って記憶を辿る。
「コマーシャルの曲だ……!」
「正解です」
そうだ、よくテレビから流れてくる旋律だ。
思い出せたことが嬉しくなって表情を明るくする。
高階のしなやかな指の動きに感嘆し、それを真横で見つめた。彼はきりの良いところまで弾き終えると鍵盤から指を離し美都の方へ向き直った。
美都は思わず拍手する。
「すごい……!」
「ありがとうございます。この曲は『ラ・カンパネラ』。同じリストでも全然違いますよね」
高階の言う事に同意し頷いた。
確かに『愛の夢』の繊細で穏やかな印象に比べ、今の『ラ・カンパネラ』は重々しく旋律が響くようだった。
同じ作曲家でこんなにも作品の色が違うということに素直に驚いた。
「今の曲のように、クラシック曲は意外と自分たちの周りに溢れているんですよね」
「確かに……!  クラシックってもっと難しいんだと思ってました」
「そんなことはありませんよ。普段現代音楽に触れていると気付きにくいですが、親しみやすい曲も多いんです」
言われてみれば、普段から何気なくクラシックを耳にしているのかもしれない。
今まで然程気にしたことは無かったが、急に興味が湧いてきた。
「『愛の夢』は誰もが知っている、という曲ではありませんが耳に馴染みやすいですよね。僕も好きな曲です」
そう言いながらピアノを触る高階の表情は、授業中に比べ更に柔らかくなっていた。
よほど音楽が好きなのだろう。その姿を見るとこちらも自然と顔が綻ぶ。
「他にもお気に入りの曲とかあるんですか?」
「えぇ、もちろん。たくさんありますよ」
「今度よかったら教えてください。もっといろんな曲聞いてみたいです」
ようやく曲名が判った『愛の夢』の他にも、素敵な曲が見つかるかもしれない。それにあの教会の近くではそれ以外の曲も耳にすることがあった。クラシックなのかは判らないがどれも聴き心地の良い曲だ。もちろん、圧倒的に聴くことが多かったのは『愛の夢』だが。
美都がそう言うと高階は一瞬驚いたような表情を見せ、何かを考えるように顎に手を置いた。
何かおかしなことを言っただろうかと美都が小首を傾げると、高階は手を離しまた柔らかく微笑んだ。
「よかったら、クラシック曲のCDをお貸ししましょうか?」
「え、いいんですか!?」
突然の高階からの提案に思わず声を上げる。願ってもないことだ。
「教材という名目なら大丈夫でしょう。何曲か収録されているものがあるので次回お持ちしますね」
「わあ……!  ありがとうございます!」
思いも寄らぬ嬉しい出来事に表情が明るくなる。
今まであまり触れてこなかった分野なだけに新たな発見があるかもしれないと思うと楽しみになってきた。
美都の笑顔につられて高階も一層穏やかな笑みを浮かべた。
「君みたいな若い子がクラシックに興味を持ってくれると嬉しいですね」
高階のその言葉に美都は一瞬面食らって苦笑する。
確かに年下の自分が言う事ではないかもしれないが、彼は十分若い。年齢のことを言うならもちろんその通りだし何より見た目も若く見える。26歳であれば美都たちの年齢からすると一回りは違うのだが、それでも彼の外見には少年のような幼さが残っているように感じる。恐らくそれが生徒たちと距離が近い理由だろう。
「すみません、引き留めてしまいましたね」
「いえ!  こちらこそ急にすみません。ありがとうございました」
高階がふいに壁の方を見て美都に謝罪する。恐らく壁にかかっている時計を確認したのだろう。授業が終わってしばらく経っている。美都もようやくハッと気が付いた。
お礼を伝え会釈すると同じように彼も返してくれた。
今度こそ扉に手をかけ、退室の挨拶をして音楽室を後にした。
一連の流れで心が温かくなり思わず顔が綻ぶ。軽やかな足取りで教室までの歩を進めているとガラス張りの渡り廊下に差し掛かった辺りで、前から歩いてくる人影に見覚えがあり思わず立ち止まった。
「四季?」
彼のいるところは暗がりではっきりと顔はわからなかったが、声をかけると面食らったように息を吐いた。
とっくにお昼休憩が始まっている時間で、なぜ彼が一人歩いているのか不思議で思わず駆け寄った。
「どうしたの?」
「遅いから見て来いって言われたんだ」
四季にそう言われてはた、と気づいた。
確かに今しがた自分が思った通り、とうに給食の時間が始まっている。なのに一向に帰ってこない自分を誰かが気にしてくれたのだろう。
わざわざ様子を見に来てくれた四季に申し訳なく思いながら謝罪する。
「ご、ごめん……。でもなんで四季が?」
「……なんでだろうな」
そう言って遠い目をした後すぐさま踵を返し、教室の方へと歩き始めた。
クラスメイトの誰かに何かを言われたような反応だ。帰ったらこっそり春香に成り行きを訊いてみようと思い、彼の半歩後ろをついていく。
「なに話してたんだ?」
「えっと、クラシックのこと」
「へぇ、好きなのか?」
意外にも四季の方から話題を振ってくれたことに驚き、ありのままに答える。
そう言えば家ではあまりこういう話をしない。お互いまだ遠慮しているのか、過干渉を避けているのか、自分たちのことについて良く知らないところも多い。
何気ない会話もコミュニケーションとして必要なのかなと思いながら四季の質問に答える。
「あんまり詳しくはないの。そう話したら今度先生がCD貸してくれるって」
「……すごいな、お前って」
小さく相槌を打った後、感心したように呟いた。
何のことかわからず小首を傾げるとその気配に気づいたように、美都が疑問を投げる前に四季が続けた。
「誰とでも気兼ねなく話せるところ。よっぽど人当たりがいいんだな」
「それ凛にも言われたなあ。誰とでもってわけじゃあないんだけど」
ほぼ同意語を今朝凛に言われたことを思い出した。
確かに人見知りはしない方ではあると自負しているが、誰彼かまわず話せるとは思っていない。
うーんと美都が唸ると先を歩く四季が階段を下りながら口を開いた。
「実際お前の周りにはいつも誰かしらいるだろ。それって一種の才能だと思うよ」
「あー……まあそれで八方美人って言われちゃうこともあるんだけどね」
美都はそう言いながら苦い笑みを浮かべる。
直接的に言われたことはないが、やはりそう言う噂は耳に入りやすい。
もちろんその気は無い。しかし周りから見た評価というものはどうしても気になってしまう。普通に接している態度でそうとられてしまうとどう改善していいかもわからず悩んだこともあった。
自分で口にした事に思わず溜息を吐く。
「ほっとけばいいさ、そんな意見」
「え?」
「一部の奴らが好き勝手に言ってるだけだろ。そんなんで自分の良さを潰してどうする」
意気消沈していた美都を気遣ってか、四季がフォローするように自論を述べた。
彼の言葉に伏し目がちにしていた顔を上げる。
「そう言う人間は、大体自分が上手く立ち回れないからって他人を貶すんだ。気にしてたら思うツボだぞ。お前は向こう見ずくらいでちょうどいいんじゃないのか」
「これは……わたし褒められてるの?」
「褒めてるよ。要は気にするなってこと」
向こう見ずという言葉が果たして褒め言葉なのかどうかはさておき、四季は四季なりに励ましてくれているようだ。
元々確かに褒められていた。しかしその事に対してネガティブに持って行った自分を叱咤することもなく、再度気持ちを上げてくれる術にはこちらが感心してしまう。言葉遣いは素っ気なく聞こえるが、彼の主張は至極心に響く。なかなか他人に面と向かって言ってもらう機会がなかったため、彼の言葉は一層すんなり受け入れられた。
彼なりの褒め方が少し可笑しくて美都は顔を和ませた。
「うん、そうする。ありがとう、し──……!」
「!」
お礼を伝え、続けざまに四季の名前を呼ぼうとした瞬間、背筋に違和感が走った。
同じく前を歩いていた四季も何か感じ取ったようでちょうど足を付けた踊り場に立ち止まる。
一間無言の時間が出来たのは、お互いに一瞬この違和感の正体が何かを考えるところがあったからだろう。
スポットが出現すれば双方判る。だが、確実にスポットではない気配を2人は察知したのだ。
きょろきょろと辺りを見渡すが、特に変化は見られない。それに既に気配は消えていた。
「──気づいたか?」
「うん。なんだったんだろう……」
一呼吸置いたのち四季が静かに声を発した。
宿り魔が出現したわけではないようだ。しかし守護者が2人揃って異変を察知したのならそれに近い何かなのかもしれない。明言が出来ないだけに困惑する。
給食の時間の為、廊下に出ている生徒はほとんどいない。一番近くの教室ではいつも通り談笑が聞こえている。
やはり変化は見られない。だからこそ先程の違和感が不気味でもある。
「……前から思ってたけど、やっぱりこの学校は妙だな」
「そうなの?」
難しい顔をして腕を組んでいた四季がやっと口を開いた。
妙とはどういうことなのだろう。2年間通ってきたが特に不思議に思った事はなかった。だが四季は途中でこの学校に来たため、何か違う気配を感じ取ったようだ。
「校舎なのか土地なのかはっきりしたことは解らない。でも明らかに近隣の中学とは違う気が流れてる。それも、あまり良くないものだ」
四季が言うには、この第一中学の周りだけ流れる気が違うのだという。彼はそういった普通の人では勘付かない気に敏感なのだろう。
良くないもの、という言葉が引っ掛かって美都は思わず恐る恐る口に出した。
「それって、その……霊、的な……?」
美都の発言に四季は眉を顰めて息を吐いた。
素っ頓狂な質問をしているのは重々承知だが、得体の知れないものはやはり怖い。
もしそうであるならせめて心構えをするために予め知っておきたいのだ。
「当たらずしも遠からずだな。近いうちに弥生さんたちに訊いてみるか」
意外と質問の意図は外れていなかったらしい。四季が苦い表情を見せたのはさもありなんという意味だったのだろうか。
実は否定を期待していただけに、四季の曖昧な回答で余計に恐怖心が増してしまった。
先程の不気味な気配の正体も解明できていないだけに、本当にそう言う目に見えないものの仕業だったらどうしようと項垂れている美都と反対に、四季は至って冷静に彼女に言葉をかけた。
「とりあえずこの話はまた夜だ。ひとまず教室に戻るぞ」
「はあい……」
明らかに覇気の無い返事をしそのまま歩を進める四季に続く。
宿り魔のときもそうだったが得体の知れないものほど怖いものはない。ようやく宿り魔にも慣れてきたところなのにこれ以上の厄介は勘弁してほしいと心から願う。
我ながら気持ちの浮き沈みが激しいなと思うが、こればかりはどうしようもない。
なんとか楽しいことを考えてまた気分を上げよう。そうだ、連休のことも四季に訊かなければ。
なんにせよこれもまた帰ってからだなと考えたときには教室にたどり着いていた。
そして案の定、クラスメイトからの茶々が入ったのは言うまでもなかった。



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