上 下
12 / 159

辻風

しおりを挟む


大通りから外れたこの道は街灯が無いと物寂しい、閑静な住宅街にある道路だ。まだこの時間は帰宅者が多く通り過ぎるため安全だが、もう少し夜も更けると女性の一人歩きは危険だろう。だが美都はなぜかこの道に辿りついた。
凛には彼女の家に向かう道中、散々質問攻めにあった。
今日まで十分な説明をしてこなかった分致し方なかったが彼女の中で納得していない部分もやはり有るらしい。
特に四季との同居については度々引き合いに出される程だった。心配性な凛にとってはらしいと言えばらしいのだが、こればっかりは美都にもどうすることも出来ない。幸いにも弥生の存在を知ってもらえたので渋々了承してもらえたようなものだ。
別れ際、凛からは再度念押しのように口酸っぱく言われた。
「親戚の家って聞いたから安心してたのに……」
「ごめんって。でも円佳さんも了解済みのことだから」
「だからって!  ……──私にも手伝えることがあれば何でも言ってね」
美都の返しに凛は口ごもったが、早々に切り替えて美都のために支援しようという気持ちを表した。
抑々いつも助けてもらっているのでこれ以上の支援などほとんどないのだがそれを言うと藪蛇になってしまいかねないので、美都は「ありがとう」と短く礼を伝え彼女を家に送り届けた。
凛を見送ったあと、美都は無意識に──否、意識はしていたのかもしれない──常盤家の方へ足を向けた。
常盤家の前の通りを緊張しながらゆっくり歩き、家の前で立ち止まった。
自分がもともと使っていた部屋には、当たり前だが灯りがついていない。それでも人の気配はするから恐らく円佳はいるのだろう。この時間だと司はまだ仕事だろうか。そんなことを考えながら常盤の家を見上げる。
懐かしさに胸が詰まる。
円佳からは帰ってくるなとは言われていない。だから今自分が戸を叩けば迎え入れてくれるだろう。
それでも。今度は俯いて手のひらをぎゅっと握りしめた。
それでも今は帰るときじゃない。絶対に甘えてしまうから。なら通りがからなければよかったのに、と数分前の自分を責めてみたがその想いよりも遥かに、自分ではどうしようも出来ないくらい足がここへ向かったのだ。
────ごめんね、円佳さん。
何かあれば連絡しなさいと言われている。「何か」ならたくさんあった。円佳と会っていないこの1週間のうちに事態は目まぐるしく変化した。
晩御飯を食べながら今日会ったことを話す。それが日課だった。
美都は首を横に振る。今思えば、自分にとって充分すぎる環境だったのだ。少しの間、懐かしい思い出に浸った後美都は顔をあげた。
会いたい気持ちを抑え、彼女は再び宵闇の中を歩きだした。しばらく会えないかもしれない。否、自分が会いに来なければ円佳が来ることはないだろう。
お互いの頑固さに呆れながらひとり苦笑していたところ、今度は本当に無意識にこの道に差し掛かった。もちろんこんな時間にピアノの音はしない。だから彼女的にいうならこれは「導かれた」のだろう。その意識に抗うことなく美都は歩を進める。
少しすると道の中腹部にこじんまりと佇む礼拝堂が見えた。こんな時間でも光が漏れている。
美都は引き寄せられるように足を向けた。
ギィっと唸る重たい木製の扉を開く。昼に感じたのとはまた違うしんとした空気が流れていた。
すると入ってすぐ前方で動く人影を捉えた。一番前に座っていた長椅子からゆっくり立ち上がる紺色のワンピースを纏った女性だ。
「こんな時間に、女の子一人だと危ないですよ」
そう声をかけて振り向いたのは、やはり菫だった。言葉は気遣うものだったがあくまでその表情は柔らかい。
彼女に会うのは二度目だ。それなのにどこか懐かしさを感じるのは何なのだろう。だがその理由を突き詰めようとは思はない。不快なものではないからだ。むしろ安心すると言って良い。
美都は若干気後れしながらも菫のいる方へ歩を進める。菫も制することはせず、ただ受け入れるように美都の足取りを覗った。
「何か、迷っておられるのですか」
「……わかりません。でもここにたどり着いたということは、そういうことなんでしょうか」
菫のいる場所まで歩を進め立ち止まった美都は、彼女からの質問に俯きながら応える。
「迷いが解らないということも、一種の迷いです」
まるで言葉遊びのような菫の言葉に美都は思わず顔を上げる。すると彼女は微笑んで、美都を近くの長椅子に座るよう誘導した。
ちょうど長椅子が立ち並ぶ中央あたり、美都が最初に指輪を見つけた場所の近くで2人は礼拝堂のその木製椅子に腰かけ肩を並べた。
美都が行儀よく腿の上に重ねた手には金色の指輪が光っている。
「力を得たのですね」
「──はい。なんでもわかるんですね」
美都の手に収まる指輪を見つめて菫が言う。何も説明せずとも理解した彼女に驚き、感嘆した。
菫は小さく頭を振る。
「なんでもはわかりません。現に私は、美都さんが迷っていることがわからないでしょう?」
諭すように話す言葉は優しい。
確かに、と思いながらも菫にはどこか見透かされているような気がしている。察知能力に優れているのだろう。
自分の指に収まった指輪を左手で玩んでいると菫が続けて美都に問いかけた。
「……宿り魔が恐ろしいですか」
その問いに美都は答えず、眉間にしわを寄せた。
何も言わない彼女に、菫はもう一つの可能性を示す。
「それでは──ちからが?」
今度は目を細め、息を吐く。やはり彼女には見通す能力があるのだと思う。
美都はやっと顔をあげた。それでも目線は菫を捉えることはせず宙を泳がせる。
「たぶん、両方……なんだと思います」
確定できないのは、恐らくこれが迷いだからだろう。
美都は自分の考えをぽつりぽつりと語り始める。
「私……全然守護者になれなくて。宿り魔が怖くて足が竦んで。本当に私が守護者なのかなって思ってたんです」
弥生にも話したことだ。自分が酷く臆病で、得体の知れない化け物と対峙することに足が竦んだ。
二度目に遭遇した時に覚醒出来なかったことが、今でも自己嫌悪感を助長させる。あの時に覚醒出来ていれば、凛が苦しまずに済んだのかもしれない。美都は顔をしかめた。
「でもいざ力を手にしたら、それはそれで怖いなって思っちゃったんです。おかしいですよね。誰かを守れる力なのに、それを怖いだなんて。わたしが……それを望んだのに」
指輪が嵌っている右手のひらを自分の方に向け、握ったり開いたりする。
数時間前にはこの指輪が剣に変わった。その剣を自分が持っていたのを確かに覚えている。
正直自分でも矛盾していると思う。守護者になる前は早く力が欲しいと思っていたのに、実際手にしたその力に畏怖さえ感じる。
この感情を上手く言い表すことが出来ない。
「その力を怖いと思うのは当然のことです。実際にそれは、守護者として選ばれた者しか扱うことができない不思議な力です」
隣で美都の話を静かに聞いていた菫がゆっくりと言葉を口にし始めた。
「今は宿り魔を退けるためのものですが、元々それは鍵の所有者を守るための力。鍵無くしてその力を手にすることは出来ません」
鍵、という言葉に反応して思わず顔を上げる。
そうだ。それが不思議だったのだ。全ては鍵に繋がっている。それなのに鍵と呼ばれるもの自体が曖昧なのだ。
鍵は世界を司るもの。世界の均衡を保つものだと説明された。
美都にはそれがいまいち理解出来ていない。なぜそれが存在するのか、という疑問は抑々間違っているのだろうか。
「鍵の力は強大です。本来ならばそれは人が手にして良いものではない、絶対不可侵のものです」
「じゃあ、なんでそれが人の中にあるんですか」
「──だからこそ、だったのです」
菫に向かって投げかけた疑問に、彼女が鋭く応える。
「人間の中にあれば、手を出す事が絶対に出来ない。それは心のカケラも同じ事。──心のカケラを見ましたか?」
「……はい」
今度は菫が美都に問いかける。その問いかけに美都は彼女たちの心のカケラを思い出した。
それぞれ色も形も違うものだ。宝石の様にキラキラと輝く物質。あまりにも軽くてすぐに壊れてしまいそうな心許ないものだった。
「心のカケラという物質は、私たち人間は知覚出来ず手にすることも赦されません。だからその中に封じたのです。手出しが出来ないように」
菫の話はループしているようにも聞こえる。
だがそれは恐らくそれこそが話の核だからなのだろう。
実際に次に彼女から放たれた言葉でこの話が進んだ。
「その絶対不可侵を破ったのが、あなたも見た宿り魔。私たちを脅かすもの。あれはこの世ならざるものです。問題は、──それを操るもの」
今までの話を聞いた上で、美都の頭の中で一つの可能性が駆け巡った。
だがこれは考えられない、否、考えたくないものだ。
菫はあくまで柔らかく伝えている。まるで口にすることを憚っているかのように。
美都はおそるおそるその考えを口に出した。
「まさか、宿り魔を操っているのは──……人間、なんですか……?」
だとしたら自分はゆくゆく人間と戦わなければならないという事なのだろうか。
美都の問いに目を細めた菫は、言いづらそうに口を開いた。
「正確には”人間に憑いた宿り魔”です。宿り魔はこの世界で力を付けつつある。──……少し伏せていてください」
「え?」
話の途中で何かを察知した菫は神妙な面持ちで美都に指示を出した。
一瞬何事かわからず戸惑ったが尋常では無さそうな雰囲気に、美都は指示通り椅子から降りて身を屈めた。
逆に菫は立ち上がり、通路へ赴く。
次の瞬間には入口のあの重い木製の扉が激しい音を立てて開く音がした。
その異常な音に驚いて思わず身を竦める。
「────ご用件をお伺いしましょう」
一方の菫はその音に全く動じていなかった。
それどころか恐らくは乱暴に扉を開いた人物と面識があるかのように語りかけた。
ただしその語気は柔らかいものではない。むしろ歓迎していないニュアンスが含まれているように感じる。
「再三申し上げている。──鍵の所有者を言え」
遠くから聞こえるその声に無言で反応する。確かに鍵の所有者と言った。
その声は低い。男性のようだ。伏せているため顔どころか背格好もわからないが。
高圧的に菫に問いただす。彼女の身が不安になり思わず視線を上げた。
しかし菫はその人物に対して決して物怖じすることなくただ一点だけを真直ぐと見つめている。
「存じ上げないとお伝えしています」
「だが目星はついているはずだ」
「知りません。知っていたところであなたに教えることはありません」
ピシャリと菫は来訪者に言い放つ。
今まで柔らかい雰囲気を纏っていた彼女とは打って変わって、強気な態度で応対する姿が垣間見えた。
物々しい雰囲気の中、不安げに成り行きを見守る。
菫の言葉を最後に、来訪者からは応答がない。何かを考えているのだろうか。
これまでの会話から察するに、菫と会話する人物は鍵の所有者を探している。
突き詰めて言えば、探しているのは鍵そのものだろう。
「──またいたずらに傷つく者を増やすことになるぞ」
先程よりも低い声で男が呟く。
美都はその低音にゾッとして心臓が絞まる想いだった。
今度は菫が黙る。
額にも手にも汗が滲んできた。暑くはない、むしろ逆だ。
美都は固唾を呑んで菫の出方を待つ。すると彼女が再びゆっくりと口を開いた。
「言ったはずです。鍵の持ち主を選ぶのは鍵の意志だと。そこに何人なんびとも介入はできません」
菫は頑なに押し問答を続ける。と言うよりもこれは回答の拒絶に近い。
来訪者も菫の一歩も引かない態度とこの膠着状態に甚だ飽きてきたようだ。
更に言葉を無くした後、音にならない程度の息を吐いた。
「遅かれ早かれ必ず判明することだ。その時のあなたの態度が見物だな」
そう言い残し、辻風に巻かれるように立ち去る音が聞こえた。
ようやく空気が循環し始めたように、4月のまだ涼しい風が礼拝堂に入る。
姿が消えるのをしばらく見届けた後、菫はゆっくりと歩き出し扉の方へ向かう。
美都もそれを合図にゆっくりと長い息を吐く。まるで呼吸を止めていたかのようだ。
まだ心臓が落ち着いていない。それ程までに今まで感じたことのない空気が圧し掛かっていた。
ギィという扉の閉まる音がして我に返ると、屈めていた身体を起こし菫を見つめた。
「今のは……?」
閉じた扉の前で菫が振り返る。彼女の顔色は変わりない。まるで先程のことも日常の様な受け答えだった。
事実初めてではないのだろう。来訪者は「再三」という言葉を遣っていた。
ならば茶飯事で無くとも度々ここを訪れているということになる。
「怖がらせてしまいましたね」
菫は苦笑し、眉を下げた。先程までの張りつめた表情ではなくいつもの柔らかい雰囲気に戻っていた。
彼女に駆け寄りたくとも情けないことに身体が強張って足が動かない。
怖かったのは来訪者の圧だけではない。菫に何か危害が及ぶのではと気が気でなかった。
「大丈夫です。ここには結界を張ってありますから、私が許可しなければあの方は入れません」
まるで心を読まれたのではと思うくらい、美都の顔には不安の色が滲んでいたようだ。
菫は美都に近づきながら今起こった事象を説明する。
「あれは鍵を求める者。恐らくいずれあなたと対峙することになるでしょう」
やはりそうなのかと美都は目を見開いた。
先程の来訪者が高圧的に菫に問いただしていたのは紛れもなく鍵のことだった。
鍵の所有者は誰なのかと。その先の事は想像がつく。
美都は金魚の様に口をパクパクとさせた。訊きたいことは山ほどあるのに上手く言葉が出てこない。
何かに憚れているような、否、口に出したらそれを認めてしまうことになりそうで恐ろしいのだ。
それでも何とか絞り出した言葉で菫に問う。
「彼は……人間、なんですか……?」
その問いに菫は一瞬口を噤む。言い方を考えるようにゆっくりと美都を見た。
「──似て非なるものです。先程説明した言葉が一番近いでしょう」
菫の回答は曖昧だ。明言を避けているようにも聞こえる。
似て非なるものという言葉の意味を無意識に探していると、菫がふっと礼拝堂の前方を見た。
「この続きはまた後日にしましょう。今日はもう遅いですから」
彼女が見たのはステンドグラスの時計だった。
釣られて美都も振り返って確認する。時刻は午後8時を示していた。
確かにあまり遅くなっては迷惑がかかる。これ以上は言及もできない。
美都はゆっくり息を吐いて肩を落とした。ようやく緊張の糸が抜けたようだ。
その様子を見ながら横から菫が美都の名を呼んだ。
「力はただ力です。問題はそれを何に使うか、──如何に使うか。恐れることはありません、あなたはあなたの信念を貫いてください」
「信念──……」
彼女の言葉に、美都がぽつりと復唱する。
自分の信念は────大切な人を守りたいという想いだ。そこに間違いはない。
美都は右手を胸の高さまで上げると甲を自分の方へ向け、中指に収まっている指輪を見つめる。
まだ解らないことがたくさんある。悩んだり迷ったりする事もある。
しかしそれとは別に守りたいという気持ちは本物だ。
いつまでも怖がってはいられない。自分の意思で手にした以上、前に進むしかない。
そのまま手を返して強く握った。
何に使うか、如何に使うか。その言葉とともに握りしめた右手を胸に当てて顔をあげた。
「……──はい。やってみます」
美都からその言葉を聞くと、菫はまたふっと優しく微笑んだ。





「遅い」
「ご、ごめんなさい」
帰るなりリビングでテレビを見ていた四季にそう言われ、驚きながらも素直に謝った。
夜道で一人危険だと判断しての配慮の言葉かと思われたがその理由はすぐにわかった。
「待っててくれたの?」
ダイニングテーブルには手つかずの料理と食器が二人分並べられていた。
普段であれば個々で食事を摂るため既に彼は食べ終えたと思っていたのだが、恐らくすぐに戻ると見て待っていてくれたのだろう。
四季はリビングのソファーから立ち上がりキッチンへ歩いてきた。
「いいから手洗ってこい」
「あ、う、うん!」
美都は踵を返し、そのまま洗面所へ向かった。
洗面台の前につくなり指輪の存在を思い出す。
今までは絆創膏をしてごまかしていたが、もう外せるようになったのだろうかと試しに触れてみた。すると指輪は予想通りすんなり美都の中指から抜けた。落とさないよう大切に洗面台の脇に置く。
そう言えばと連想ゲームのようにもう一つ思い出したことがあった。絆創膏だ。
宿り魔との戦いで足を強く打ち、膝下に目立つ擦り傷が出来ていたはずだ。その傷の大きさを確認するため、上半身を折り曲げるように膝元を覗きこむ。
瞬間、パーカーのポケットに入れたままにしておいたスマートフォンがゴトッという音を立てて床に落ちた。
慌てて拾い上げ、傷が出来ていないか方々を確認する。幸いそう高くない位置からだったようで何事もなさそうだ。安堵した後再度画面を確認するといつの間にかメッセージが届いていたことに気が付いた。
(弥生ちゃん?)
表示されるプレビュー画面の差出人は先程別れた弥生だった。
何か伝え残したことがあるのだろうかと不思議に思いそのままメッセージを確認する。
『もう帰ってきたかしら。今日はお疲れ様。長い一日だったわね』
一行目は自分のことを労う文章だ。こういった気遣いが身に沁みる。
文章はまだ続いており、美都はそのまま読み進めていく。
『渡した絆創膏の中に大きいサイズ入ってたって言ってたでしょ?  それって他の絆創膏と種類が違わなかった?』
確かに通常のものは色とりどりの鮮やかなものが多く、大きいサイズは一般的に薬局で見かけるようなものだった。
単純に大きいものはデザイン性に欠けるだけかと思っていたのだ。
しかし、美都はあとに続く文章を読み目を瞬かせた。
『もしそうなら、やっぱり入れたのは私じゃなくて美都ちゃんに絆創膏を渡した人間が入れたのよ、きっと。良く見てるわね四季くん』
最後までメッセージを読み終えて少しの間放心する。
スマートフォンを片手に、もう一方の手でスカートのポケットを探る。触感を頼りにそれを取り出す。今朝、彼に学校で渡された絆創膏の缶だ。
洗面台の横にある洗濯機の上にスマートフォンを置き、缶の蓋を開けた。
あの時は同級生に冷やかされながらだったのでしっかり確認していなかったが、確かに大きさによって種類が統一されていない。
弥生に言われるまで気が付かなかった。四季も弥生と同じように絆創膏を用意してくれていたのだ。
彼はきっと昨日美都が負傷した箇所を見ていたのだ。ちょうど良く弥生と考えが被ったので何も言わず入れてくれたのだろう。
その中から一枚取り出す。今日新たに出来た傷が隠れるサイズのものだ。
それを見ながら思わず感嘆する。弥生の言うように彼は良く見てくれている。
ずっと助けられっぱなしだ。口数はそれ程多くないが、事有るごとに気にかけてくれる。昨日も、今日も。
何も言わないのは照れ隠しなのだろうか。
(……?)
美都の中に今まで感じたことのない感情が生まれた。
彼の不器用な優しさに触れて、嬉しさと同時になんだか照れくささも感じる。
美都はこの感情を表現する言葉が何なのか考えていたときに一つの答えに行きついた。
(これが面映おもはゆい、……なのかな)
なんだか違うような気もするが他に言い換えるのも難しい。
美都は少し熱くなった頬を冷ますように首を横に振った。
そのまま洗面台に向かい、傷跡を水で灌いだ後取り出した絆創膏を貼ると手を洗ってキッチンの方へ歩き出した。
なんとなく四季の顔を見るのが気恥ずかしく思えたがそうも言っていられない。
キッチンへ戻ると温め直された料理が既にテーブルの上に用意されていた。まだ立ったまま作業している四季の方へ足を向ける。
「ほら」
そう言って彼が美都に杓文字を差し出した。
昨日と同じような光景なのに、心持ちは全然違う。
美都は杓文字を受け取ると伏し目がちだった顔をあげて真直ぐに彼を見た。
「四季……あの……ありがとう。その……色々と」
たどたどしくなったのは、やはり少し気恥ずかしさが残ってしまったからだ。それでもお礼を言わずにはいられない。
助けてもらったこと、絆創膏のこと、食事を待っていてくれたこと。色々にはたくさんの意味を込めた。
当の四季は面食らった表情を見せたがすぐに普段通りに戻った。
彼は何に対してのお礼なのはを追及する事はしなかった。ただ一瞬目線が足元へ行ったので恐らく一つの意味には気づいたのだろう。彼は面を少しだけ和らげた。
「どういたしまして。そういや、名前は決まったのか?」
「え?  あ、えーと……」
素直にお礼を受け取った四季が美都を横切りながらテーブルへ向かう途中、今度は彼女に対して問う。
彼が言うのは守護者の時の呼び名のことだろう。
次までに決まっていれば良いと言った次があっさり来てしまった。考えていなかったわけではないが、色々なことがありすぎて纏まっていないことは確かだ。
四季は自分の席につきながら、無言で美都の言葉を待った。
杓文字を持ちながら目線を上に泳がせる。その瞬間あるひとつの名前が脳裏に浮かんだ。
「……ともえ」
その名前を口に出す。
他のどんな名前よりもこれが一番適格だと自分で思う。
戦乱の世、凛々しく戦った一人の女性軍師・巴御前。彼女の様に、強く。宿り魔に怯まない自分になりたい。
カウンターの向こうで候補の名前を聞いて反芻していた四季が頷く。
「ともえ、か。もう一つは?」
はた、と言われて気付いた。
自分はこれでいいにしても四季にも必要なのだ。考えていなかったことをはぐらかすように今度は左右に目を泳がせるとふとその時の授業を思い出した。
あった。もう一つ候補の名前が。恐らく巴の対になるには相応しい名だ。だが。
彼が納得するだろうか。それでも言うしかない。
「し、…………しずか」
聞いた瞬間、四季が苦虫を噛み潰したような顔になった。
案の定といった反応だ。彼の眉間にはしわが寄ったままだ。
「だって!  頭文字まで言っちゃいそうなんだもん」
「そこは慣れろよ」
美都の必死の言い訳に、尤もな意見が返ってくる。
現に先の戦いで、何度も彼の名前を呼びそうになった。声に出なかったから良かったものの、口にしてしまったらごまかしようがない。ただし曲り間違って「し」まで出たとしてもまだ変更はきく。それも考慮して、ということだ。
四季は大きく深い息を吐く。
「だ、──だめ?」
「……早くよそってこい」
否定も肯定も無く、ただ炊飯器の前で立ったままでいる美都を促す。
手に持った杓文字で慌てて炊飯器からご飯をよそい、それを持って自分の席へ向かった。
四季は相変わらず難しい顔をしている。
顔色を窺うように席へ着くと、彼がもう一度浅く息を吐いた。
「わかったよ。巴御前と静御前な」
「!  ──うん!」
何も説明せずとも、四季は名前の意図に気づいていた。
同じ授業を受けているため当たり前と言えば当たり前であるが。
「どっちも女性の名前ってのは」
「……存じております」
「で、俺が静?」
「……はい」
意図を汲みとってもらって喜んだのも束の間、まるで尋問のような問いが続く。
四季は腕を組んでおり、更に対面のため取り調べという形に近い。
美都が目を泳がせながら身を竦めていると今度は笑い声が混じった軽い息が聞こえた。
「まあ任せたのは俺だしな。それでいいよ」
「ほんと?」
「今更他の候補が出てくるか?」
「出て……来ないね」
そうだろうという意味で四季が頷く。
美都にしてみれば出した候補が決め打ちだったのでそのまま決まって安心した想いともう少し色々考えられたかもしれないという反省の気持ちがあった。
それでも四季が納得して受け入れてくれたようで安心した。ほっと胸をなで下ろす。
「じゃ、改めて。これからよろしく」
先程まで組んでいた腕を解き、四季が正面の美都に言う。
その言葉をようやく落ち着いた気持ちで自分の中に落とし込むと、美都は微笑みを返した。
「──うん!」
強く頷く。それを見て四季もまた表情を和らげた。
冷めないうちに早く食べようと彼が促し、お互い箸を持った。
昨日までの緊張が嘘のように気持ちが軽い。食事中の他愛ない話にも花が咲く。
力を得て、名前が決まった。
守護者として、ようやくここから始まるのだ。
頼れるパートナーとともに。



しおりを挟む

処理中です...