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もう一人の守護者

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弥生の家から出て10分程経過した。
遊びたそうな那茅の表情に後ろ髪を引かれながらも美都は次の目的のため弥生に示された方へ向かった。
とは言うが、美都が今佇んでいる場所は櫻家を出て数歩も離れていない。右隣の家の玄関扉の前だ。
(うーん……)
美都が玄関前で唸っている理由は、先程弥生から受けた説明にあった。
『────……一緒に暮らす?』
一番重要なことだと前置きがあったため自分の聞き違いが無いように、弥生から説明されたことを改めて口に出した。
それは思いもよらないことであった為でもある。
『やっぱり驚くわよね』
『は……い』
つい先程、敬語を外すように言われたことも瞬間に忘れるくらいには状況が呑み込めなかった。弥生からそれに関しての趣旨が伝えられる。
『守護者はお互いをサポートし合えるように、不都合が無い限りは共同生活をすることになっているの』
昨日から驚く事の連続だったのでだいぶ慣れてきたと思っていたが、さすがに突然のことすぎて理解が追い付かない。
『えっと……つまり、これから、もう一人の……その……守護者の子と一緒に暮らすってこと……?』
『えぇ。私のときも突然だったから美都ちゃんの気持ちは良くわかるわ』
当時の事を思い出すように、弥生も頬に手を当て息を吐く。
もしかして円佳が言っていたのはこの事だったのだろうか。
『とりあえず挨拶してきたらどうかしら?  お隣だし』
『え、隣?』
『そうなの。だから困ったことがあれば何でも聞いてね』
一連の説明を聞いてなんとなくは受け入れてきたが、これに関してはなかなかに大事なのではないか?  と思った。
居を移し、他人との共同生活を始めるということだ。面食らって当然だろう。その仕組みに関しては弥生も良くわかっていないようだった。
ひとまず弥生の提案を受け、状況を整理すべく一旦櫻家を後にしたのだ。
疑問を抱えながら、今後住むことになる家の前で立ち往生していた。弥生からは「もしかしたらどこかで会ってるかも」と言われている。それが余計に緊張するのだ。
(会ってる……?  知り合いなのかな……)
いずれにせよこれから一緒に暮らす人間だ。第一印象にかかってくる。美都は大きく深呼吸をする。
さんざん悩んだ挙句、半ば自棄になってインターフォンを押した。
弥生のときと同様、扉の向こうから足音が聞こえてくるのと呼応するように心臓が早鐘を打つ。
緊張と不安、そしてほんの少し楽しみな気持ち。この事態に翻弄されながらも心の隅で新しいことにわくわくしている自分がいる事に否めない。
果たして初めましてなのかそうでないのか。どちらにも対応できるように第一声の言葉を用意する。
足音が止まった。緊張で顔が強張っているように感じる。ドアノブが廻るのを確認し背筋を伸ばした。
ギィッという重たい音と共に扉が開く。
「……、…………向陽、くん?」
「!  昨日の──……」
知覚した瞬間得た情報から頭を回転させ、思い当たった人物の名を口に出した。
外開きの扉を無造作に開き身体を覗かせた一人の少年──向陽四季こうようしきは、美都を確認すると小さく呟いた。
辛うじて名前を思い出すことはできたが少年の呟きは美都の耳に入っていない。なぜならば。
(────待って……)
完全に思考が停止した。想定の範疇を超えていた。否、自分が想定していなかったのが悪いのか。
会ったことというか見たことはある。いやそれよりもまず驚くべきは。
(男の子────!?)
確かに弥生の話の中で性別は明言されていなかった。されていなかったため気にしていなかったというよりも思い込みで同性だと勘違いしていたのだ。
衝撃のあまり硬直して動かない美都を不思議そうに眺めると一拍置いて少年が声を発する。
「……入れば?」
「────あ、は……はい」
少年の方はあまり動ぜずに、淡々とした口調で進行する。その声で一旦ハッと我に還ると少年の提案に流れで応じた。
気が引けるのは確かだが立ち話で片付く内容でもないだろう。遠慮がちに少年が開いてくれたドアへ進み玄関に足を踏みいれた。
靴を脱いでおずおずと少年の後に付いて行くと櫻家と同じようなリビングダイニングに到着した。間取りはほぼ変わらない。少しだけ生活感が見えるが室内は殺風景に近い。少年はいつからここで暮らしていたのだろうか。
「適当に座って」
「あ、はい」
所在無く立ち止まっていると少年が美都に座るよう促した。先程と同じようにダイニングテーブルへ回り込む。櫻家と違うのはテーブルの向きだ。櫻家がキッチンカウンターに垂直であったのに対してこちらは平行になっている。ひとまず手前の椅子を引き、キッチンに対して背を向けるように座った。
程なくして少年が粉末飲料のスティックを何本か持ってきてテーブルに置いた。
「どれがいい?」
「え?  えっと……じゃあこれで……」
バリエーションに富んだ種類の中から美都が選んだものを確認すると頷いて再びキッチンへ戻る。先程弥生に紅茶を振る舞ってもらったため違うものを選択した。
少年は意外と几帳面のようだ。会話はおろかほぼ初対面と言って良いほど、少年の情報が無い。
辛うじて憶えていたのは時期外れの転校生だったからだ。年が明けてすぐ、一番離れたクラスに転入してきた少年がいると話題になった。噂によるといろいろあって年齢はひとつ上らしいとのこと。物見遊山で教室を通りがかったとき彼を見た際に、その黒髪と赤茶色の瞳が印象的だったので憶えていたのだ。
まもなくマグカップを2つ手にして少年がテーブルに戻ってきた。甘い香りのするカフェオレが入ったカップが美都の前に1つ置かれる。
「俺の事知っているみたいだけど改めて。向陽四季だ。あんたは?」
もう1つのカップを美都の対面に置き、座りながら少年が口を開いた。
「あ、えっと……月代美都です。向陽くんと同じ第一中学で4月から3年生です」
「待った。なんで敬語?」
指示通りに始めた美都の自己紹介を、少年は怪訝な顔をして遮る。
年上に対して敬語になるのは当然なことだと考えていたのできょとんとしてその理由を伝えた。
「ひとつ上だって聞いてるので……」
「いいよそういうの。同学年なんだから変にかしこまられても困る。あと名前も」
「名前?」
「呼び捨てでいい。俺もそうするし、今後その方が楽だろ」
今後という単語を耳にして、この状況が間違いでないことを思い知る。彼はなぜ美都が自分を訪ねてやってきたか理解しているのだろう。
「同じ学校だったのか。ってことは昨日の女子も?」
「昨日?  ……どこかで会ったっけ?」
どこかですれ違ったのだろうかと記憶を手繰り寄せる。
昨日は確かに駅前の商店街で買い物をしていたが、そのあとは教会と公園にしか立ち寄っていない。商店街で春香とは会ったがもしかしてそのときだろうか。
「憶えてないか。まあスポットの中だったしな」
「スポット──?」
「宿り魔が対象者を狙う際に閉じ込める空間だ。外界から見れば変化は無い」
「!  あの反転した世界……!」
ブランコから歩き出した瞬間に切り替わった景色。まるで色が反転されたような空間だった。
四季は腕を組みながら思い出すように呟く。
「普通は対象者しか入れないから妙だと思ってたんだ。なるほどな」
合点がいったように美都の右手にはまった指輪を見る。四季が納得したのは守護者だからということだろう。
その視線に応じるように四季の手元を見ると彼の手にも美都と同じような指輪がはめられていた。右手中指にはまる、銀色に輝く青い溝が彫られた指輪だ。
(あれ……?)
そう言えば、とふと思い出した。昨日助けてくれた男の子もそんな指輪をしていた気がする。
(──ん?)
自分の顎に手を当てて既にパンクしそうな頭を回転させる。
弥生は、『もう一人の守護者と共同生活をする』ことになると言っていた。
もう一人の守護者とは四季のことだ。
まるで昨日あの場にいたかのように話す目の前の少年。つまり。
「昨日の男の子が向陽くん──!?」
「ようやくか。あと名前」
「だって!  えぇ?  昨日の恰好と違うから…!」
宿り魔から助けてくれた少年は、銀髪で翠色の目をしていた。髪ももう少し長かったはずだ。到底一致させるのは難しい。外見が全くの別人なのだ。
混乱する美都をよそに、四季が己の解釈を述べる。
「この状態だと俺らの周囲にいる人間が所有者だと勘違いされる可能性がある。そうなると関係無い人間に飛び火するだろ。だからわかんなかったならある意味正解だな」
「な……なるほど……?  でも、なんでその容姿なの…?」
「ランダムなんじゃないか?  よくわかんねぇけど。弥生さんもそうだったって言ってたし」
四季の述懐を必死に整理して自分を納得させる。弥生からはその説明を受けていないためまさしく寝耳に水だった。
彼の口ぶりからすると弥生と多少なりと親交があるようだ。
「……そうか。まだ守護者として覚醒してないのか」
「あ……うん、そうなの。昨日の今日だからまだ良くわかってなくて」
美都の返答にふーんと相槌を打ちながら未だ口にしていなかったマグカップを手に取る。
「まああれに関しては習うより慣れろって感じだな」
四季が指す「あれ」とは守護者の役目のことだろう。
昨日の彼の姿は脳裏に焼き付いている。迷いなく宿り魔に向かっていく様はとても頼もしく思えた。
自分にあんなことができるのかまだ分からない。それでも弥生に言われたとおり、守護者である証の指輪がここにある限り昨日の様な事態がいつ起こってもおかしくないのだ。不意にマグカップを持つ手に力が入る。
それにしても、と思わず四季を見て所感を述べる。
「こ……四季って意外とフランクなんだね。話しやすいっていうか……」
名字で呼びそうになったのを寸でのところで先程注意されたのを思い出し、名前に変える。
こうして会話をしてみるとひとつ上であることを忘れてしまう程彼は親しみやすい。
学校での彼をまだよく知らないが、噂によると単独行動が多いと耳にしていたので意外だったのだ。
「あー……まあ敬遠されるのもわからんでもないし、すぐクラス変わるだろって思ってたからあんま気にしてなかったんだよな」
「そうだったんだ。話しやすい人で安心しちゃった」
「ならよかった」
四季は気さくに笑う。笑った顔は少し幼くも見えた。
「じゃあ美都」
飲み干したマグカップを置くと四季はおもむろに立ち上がった。
初めて名前で呼ばれた美都は一瞬その慣れない感じに肩をすくめ、彼を見上げた。
「飲み終わったら部屋案内するからついてきて」
「あ、うん……!」
呼応するように少しぬるくなったカフェオレを体内に流し込む。空になったマグカップをその場において四季の後ろについた。
四季はそれを確認すると部屋の奥の方へ向かって歩き出す。
「でもわたし何の準備もしてないよ?」
慣れないスリッパでぱたぱたと歩きながら美都が前を歩く四季に声をかける。
学校生活に必要なものはまだ常盤の家に置いたままだ。それどころか居を移すことなんて予想の範囲外だったためほとんど身一つしかない状態である。
「だろうな。まあ大丈夫だと思うけど」
四季が美都の心配そうな声に返答する。
果たしてどこにそんな根拠があるのか不明だったがすぐにその真意は判明した。
首を傾げているとリビングの横を抜け一番奥の部屋まで歩き扉を開いた。
「……!  これ……いつのまに……?」
「俺が気付いたときには既にこうだった」
案内された部屋には、生活に必要な一式が取り揃えられていた。これまで着ていた制服はもちろん、教科書に至るまできちんと整頓されている。さすがにベッドや棚は新しいもののようだ。一目見渡しただけでも生活には困らないことはわかる。
「SFだぁ……」
「フィクションじゃないけどな」
美都の呟きにすかさず鋭いつっこみが入る。
気を遣っているのか、四季は部屋から目線を逸らしている。つまりは今日からここで暮らせるということだ。
円佳がこの事を知っていたのだとしたら彼女の言葉も納得ができる。
おそらくはこれが「指輪の示す方」なのだろう。だとしたら異を唱えることは出来ない。
なにより事態が目まぐるしく動きすぎていて、既に「これはこうなのだ」と受け入れたほうが早い状況だ。
「早速だけど、いろいろ当番を決めていいか?」
ほうっと呆けていたところで、四季の声で現実に戻る。彼の対応を見ると、あらかじめこうなることを知っていたのだろう。普通、他人と同居生活が始まるとなると冷静にはいられないはずだ。加えて同居人は異性なのだ。
四季は既に身体の向きを変えリビングに戻る廊下を歩いていた。
先程と同じように彼の後をついて行く。
「料理はどれくらいできる?  得意な方?」
「えっと……苦手ではない……くらい」
「了解。なら食事当番は────……」
美都の煮え切らない回答を咀嚼して四季が良い具合に話を進める。
その他にもトントンと決まり事を作り、あっという間に共同生活のためのルールが出来上がった。
「……で、学校以外の予定はここに書き込む」
そう言いながら四季は手にしたホワイトボードに早速予定を書き込んでいた。冷蔵庫に貼り、お互いの情報共有に使うのだそうだ。
春休みは短い。それなりに予定が詰まっている。むしろイレギュラーなのは今日くらいだ。美都も明日から部活動が再開されることを思い出した。
彼が書き終えたら自分も、と思った瞬間壁に設置されているインターフォンからチャイムが鳴り響いた。
四季が一瞬だけモニターを確認すると把握したように玄関へ向かう。その迷いの無い所作に、美都は為すすべなくその場から様子を窺った。
すると小一時間前に聞いた声が耳に届いた。玄関へ目をやると四季が彼女を招き入れ、そのまま彼の後を歩いてこちらに向かってきた。
「弥生ちゃん!」
「こんにちは。どうかなーと思って様子を見に来たの。大丈夫そう?」
弥生が四季の後ろからひょっこり顔を覗かせた。
「うん。今いろいろ決めてたところ」
「ならよかった。四季くんはどう?  そろそろ慣れた?」
美都の返事を聞いて安心したように微笑むと弥生は後ろを振り向き今度は四季に訊ねる。
「ぼちぼちですね。まだ手探りです。いつも助けてもらってばかりですみません」
「全然よ。ようやく1ヶ月くらいだものね」
二人の会話から察するにやはりそれなりに親交はあるらしい。
弥生の言葉で彼がどのくらいの間、ここで生活してきたかが判明した。転校して間もないくらいの時期だ。
弥生は美都と四季、それぞれ視線を合わせると微笑んで話を続けた。
「これで二人揃ったわね。ひとまず私からも今後のことを共有しておこうと思って」
「共有?」
「えぇ。美都ちゃんはまだだけど、守護者としてこれから生活するにあたってのことをね」
守護者の手引きのような言い方で弥生が説明を始める。
「守護者の話は伝えたとおりよ。鍵の所有者をその脅威から守ること。これがまず第一ね」
弥生の説明に、うんうんと頷きながらひとつずつ消化していく。
守護者の任については先程彼女から直接説明を受けている。まだ呑み込めていないことも多々あるが、前提としては弥生が言った通りだろう。
「守護者であることは極力周りには言わないようにね。これは関係ない子を巻き込まない為に。容姿が変わるから大丈夫だとは思うんだけど……一応注意してね」
これは先程四季が言っていた。彼の考えは的を射ていたようだ。改めてその事を認識し頷いた。
弥生は二人の反応を確認すると、自身も頷いて次の説明に入る。
「それと、私たちは守護者のことだけじゃなくて日常生活のサポートもするから遠慮なく言ってね」
「えっ、でも弥生ちゃんも大変なんじゃ……」
「もちろん状況によってすぐには対応できないときもあるけど、大丈夫よ。それに私からもお願いしたいことがあるし」
「お願いしたいこと?」
突然の状況変化で戸惑っている最中、守護者のサポートだけではなく日常生活のことも支援してもらえるのはとてもありがたい。だが弥生にも弥生の生活があるはずだ。それを考えるととてもしのびない思いがしたが彼女からも提案があるようだ。首を傾げて彼女の言葉を待つ。
「那茅の遊び相手になって欲しいの。それで持ちつ持たれつでどうかしら」
そう言うと弥生はニコリと微笑んだ。あくまで美都たちの負担とならないようにという、彼女なりの気遣いなのだろう。
美都は弥生の提案を訊くと、一瞬虚を突かれたように驚いたがすぐさま弥生の考えを察して返答した。
「もちろん!  喜んで!」
「ふふ、ありがとう」
弥生の笑みにつられて頬が緩む。少女のようなあどけなさに心が温かくなる。
「なんか……そうしてると姉妹みたいですね」
それまで静観していた四季がおもむろに呟いた。
確かに歳の離れた姉と言っても過言ではない程、弥生は若く見える。容姿も雰囲気にしてもだ。
そう見られたことがなんとなく照れくさくなった。
「そうそう、そのことなんだけどね。これから学校も始まるでしょう?  新生活で忙しくなるだろうし少しでも手助けしやすいように、『知り合い』よりも『親戚』っていう関係性にした方が動きやすいかなと思って」
数日後には新学期を迎え、美都たちは3年生になる。一層慌ただしい生活になるだろう。
サポートの際、周囲から見た時にそういう紐付けにした方が納得もしてもらいやすい。
それに美都と四季にしてもそうだ。事実上、これまで他人であったにせよ今日からは同じ生活圏になるのだ。外野から突っ込まれたとき、説明もしやすい。
「そうですね。それがいいと思います」
「うん。問題ないと思う」
弥生の提案に二人とも異を唱えることなく同意した。
「よかった。それじゃあとりあえずそんな感じね」
その後も話は続いた。連絡先のことや生活に必要なことなど思いつく限りのことを三者間で話し合った。
「あとは疑問が出たら追々共有しましょう。長々とごめんね」
一旦話に区切りをつけ、弥生が腕時計を確認し一息つく。
美都は仔細を話しに来てくれたことの感謝を伝えるため首を横に振る。
「ううん、ありがとう弥生ちゃん」
「あ、そうだ美都ちゃん。またちょっと来てくれる?」
「──?  うん、わかった」
弥生は何かを思い出したかのように美都を再び手招きして呼ぶ。
まだ何かあっただろうかと首を傾げながら、特に不都合もないので彼女の後へ続く事にした。
「じゃあちょっと行ってくるね」
「ああ。弥生さん、ありがとうございました」
美都の声かけに応じると、四季はそのまま弥生にお礼を伝えた。
「何かあったらまた声をかけて。それじゃあ、お邪魔しました」
そういうと弥生は四季に手を振るジェスチャーを見せ、美都に目配せをして共に玄関へ向かった。
弥生の後ろを歩きながら、その姿に感心する。先程は気づかなかったが、弥生の所作はひとつひとつが綺麗だ。だからこそ目が無意識に彼女を追いかけてしまうのかもしれない。弥生に倣うように、美都も意識して行動しようと小さく心に決めた。
これから居住する家を出て、再び隣の弥生の家へ歩を進める。
すると自宅の鍵を開けながら弥生が申し訳なさそうに美都へ謝った。
「ごめんね、何度も往復させちゃって」
「全然。この距離だし」
一度外に出るため感覚的に空気は変わるが、常盤家が一軒家であったため距離的にはその中を移動しているのと大差はない。
その返答に微笑むと、再び美都を家へ招きいれた。
「さっき渡し忘れたものがあったのを思い出してね」
靴を脱いで玄関をあがり、弥生の後について行く。
まもなくリビングへ到着すると、ちょっと待ってねと言って美都を残して奥の部屋へ向かっていった。
陽が傾きかけた部屋の向こうでは那茅がすやすやと寝息を立てながら眠っていた。物音を立てない様に気を遣いながら、弥生が促してくれたリビングの椅子に座る。
パタンという扉の音とともに、弥生が先程と同じ形で向い合せで座る。その手には何か握られていた。
「これ、美都ちゃんに」
そう言って弥生は握っていた手を美都の前に差し出した。
彼女の仕種に応じるため美都は自分の両手を机の上に出し、それを受け取る。
手のひらの上には、小さい巾着袋のようなものが置かれた。
「──?  これは……?」
「お守りみたいなものよ。私も渡されたものだから、中は何が入っているのかわからないけれど」
匂い袋のような小さな金色で包まれた巾着には厚みが見られる。美都は袋の表面にそっと触れた。何か固形のものが入っているようだが詳しくはわからない。
「わたしが持っていていいの?」
「ええ。きっと今の私よりもあなたが持っている方がいいと思うの。効果があるかはわからないけれど、少しだけ私の力をこめておいたわ」
大きさで言えば500円玉くらいのものだ。重さ的にもそれぐらいだろう。
持ち歩くとしたらどこにいれようと考えていたところ、美都の表情から汲み取ったのか弥生が一旦その袋を手に取り、袋の上部に巻きつけてあった紐をほどいた。
「これで首に架けられるようになってるの。しばらく持ち歩いてね」
「ありがとう。うん、わかった」
解いてもらった紐を早速首に通した。首に架けるとだいたい腹部の真ん中くらいに巾着が来るような形だ。
美都は服の中へそれをしまう。するとそれを見ながら弥生がおもむろに美都へ声をかけた。
「今日はいろいろあって疲れたでしょう?  大丈夫?」
体調を気遣い、美都を労う。
確かにいろいろあった。今日だけで言えば情報量が多すぎる程だ。まだ反芻しきれていないこともある。
苦笑しながら弥生に率直に伝える。
「まだ混乱しっぱなしだよ。わからないことが多いし。だけど昨日みたいにずっとふわふわしているよりはいいかな」
昨日起こったことを考えると、原因が分かって少しだけ心が落ち着いたようだ。
だが確かに目まぐるしく変わる環境に順応できるか不安な部分もある。
右手に嵌った指輪はまだ何の動きも見せていない。未知の力に構えなければならない今、一層神経を使うことになるだろう。
「慣れるまではしばらく大変だと思うけど……何か困ったことがあったら何でも言ってね」
「ありがとう。すごく心強いよ」
「そう言えば今日は一旦帰るの?」
はたと言われて気付いた。あまり深く考えていなかったが一度常盤家に帰るという選択肢もあるのだ。
一瞬だけその考えを脳裏に浮かべた後、首を横に振って弥生の問いに応える。
「ううん、せっかくだしもうこのままでいいかなって。あくまで四季が承諾してくれればだけど」
「そう……?  連絡だけは入れておいてね」
「うん、そうする」
おそらく円佳はこの状況に動じないだろう。むしろわかっていて送り出したようにも感じる。ひとまずは弥生の言うように、円佳へ報告しなければ。
そう言えば、と思い出したことがあった。
「弥生ちゃんって、ま──」
その疑問を口に出そうとした瞬間、隣の部屋で寝ていた那茅が唸り声をあげた。そろそろ起きる時間なのだろう。
那茅に配慮し、途中で口を閉ざす。幼子の目覚めをあやすため、弥生も「ごめんね」と美都に伝えた。
首を横に振り、小声で「それじゃあ戻るね」と弥生に告げる。
玄関まで送ってくれようとしたが、那茅のことが気にかかるため断った。
すぐに解消しなければならない疑問ではないのでまた機会があったらでいい。そう思い、美都は一人彼女の家を後にした。





まもなく日が沈む。夕焼けを眺めながら美都は一人、マンションの前の公園に来ていた。
あの後、四季と話をして承諾を得た。
少し驚いたような反応を見せたが特に気にすることもなく「じゃあよろしく」と言い、自身の部屋へ戻っていった。
昨日とは違う公園で、昨日と同じ様にブランコに腰掛ける。
同じようで違うのは公園だけではない。考える事も、環境も、自分の居場所も。
ポケットに入れたままだったスマートフォンを取り出す。
何件か凛からメッセージが届いていたが、ひとまず円佳の連絡先を呼び出した。
画面上に表示される電話のマークを押し、電話を架ける。プツプツという音を数回聞いたのちコール音が右の耳に響いた。
『──もしもし?』
「円佳さん?  美都です」
電話越しの声は、普段通りの彼女だった。今日は会っていないせいなのか、なんだか酷く懐かしい感じがする。
『それで……どうだったの?』
「どう、って……円佳さん知ってたんでしょ?」
少しだけ不服そうに円佳の質問に答える。
円佳はこうなることを予測して昨日美都に話をしたのだ。
彼女自身も動揺しているという趣旨は話していたが、それ以上に美都の方が目まぐるしく変わる環境に混乱していた。
『知ってたわ。言ったはずよ、鍵の理には異を唱えられないって』
「だから……今日、会わないようにしたの?」
美都の鋭い切り返しに円佳が黙り込む。
今朝、家の中に誰もいないことが不自然だった。おそらく円佳は意図的に早く家を出たに違いない。
美都が自分の意思でここへ向かうようにと。
『──遅かれ早かれ、こういう日が来るってあんたもわかってたはずよ』
円佳の言う通りだ。予想していなったことではない。しかし美都が言っているのはそうではないのだ。
「そうだけど……!  でも……わかってたならどうして──」
『大切だからよ』
美都の反論に、円佳が強い言葉で遮った。
その言葉に今度は美都が声を詰まらせる。一瞬間をおいて、円佳が自分の想いを美都に告げた。
『あんたが大切だから。会ったら引き止めちゃうもの』
「円佳さん……」
円佳の想いに胸が詰まる。大切だからこそ言えないことだったのだ。
実際に今朝顔を合わせていたら、恐らく自分の方も後ろ髪を引かれていただろう。彼女の判断は正しかった。
『何も帰ってくるなって言ってるわけじゃないんだから。それにあんたのことだから今日からそっちで暮らすんでしょ?』
「そうだけど……つかささんにも何も言ってないままだし」
『話しておいたから大丈夫よ。まあ泣いてたけど。落ち着いたら電話してあげて』
司は円佳とは5歳程離れており、美都からみれば初老の紳士に近かった。
落ち着きがあり話をするとなんでもニコニコと応じてくれた。血の繋がりはないものの常盤家には女の子がいなかったためか随分甘やかしてもらったのだ。
最近は年度末で仕事が忙しいのかあまり話が出来ていなかった。そんな中で家を出る事になったため、円佳から話を聞いた司はショックを受けているとのことだ。
だが美都が気になったのは円佳のことだ。昨日のことと言い、彼女は対応が早すぎる。
まるで以前からこうなることが予測できていたかのように。
「円佳さんはなんで……何を知っているの?」
電話口の向こうで息が漏れる音が聞こえた。どう応えようか迷っているような息遣いだ。
少しの間の後、ゆっくりと静かに円佳がその質問に答えた。
『……今は話すときじゃないわ』
「じゃあいつ?  いつ話してくれるの?」
円佳を責め立てる自分はまるで子供だ。そう思いながらも彼女の曖昧な回答に納得ができなかった。
『今話しても余計な情報になるだけよ。あんたがこれから直面していく中で、本当にわからなくなったら聞きに来なさい。それに私が話さなくてもいずれ知ることになるわ』
「どういうこと……?」
『ひとまずは目の前のことを考えてなさい。新しい環境に慣れること。それが第一よ』
相変わらず円佳の言う事は曖昧だ。このまま押し問答を続けても明確な答えは得られないだろう。
おそらく彼女は自分のことを想って言ってくれている。それなのにこれ以上追及するのはきっと筋違いだ。
円佳の回答に不満はあるが、彼女の言うように今はその時ではないのだろうと悟った直後、なにも言わない美都に対して円佳がフォローのように彼女に伝える。
『美都。あんたが今の回答で納得できないのはわかる。でも、知ってるからこそ今は言えないの。不安にさせてごめんね』
「────ううん……。何か理由があるんでしょ?」
『……えぇ、そうね』
「ならもうこれ以上は訊かない。わたしは円佳さんを信じてるから」
言えない理由が彼女の中にしっかりとある。ならば今は、円佳のその判断を信じるしかない。
今までもずっとそうしてきた。彼女の判断はいつだって美都のためのものだ。
『──ねぇ美都。これだけは覚えておいて』
「なに?」
円佳は美都の返答を訊いて一瞬考えた後、再び口を開いた。
『私は……──あんたの保護者であることに変わりないわ。だから何かあったらちゃんと連絡しなさい』
長い間同じ時間を過ごしてきた。円佳は正真正銘、美都の一番の理解者だ。
司と同様、娘のように接してくれた。これからいきなり居を別にするのだ。心配しないわけがない。
「────うん、わかった」
美都は努めて平常心で、相槌を打った。
彼女は勘が鋭い。だからもしかしたら今の返事で気づいてしまうかもしれない。
「ありがとう円佳さん。じゃあ……切るね」
『……えぇ。身体に気を付けてね』
「うん。それじゃあおやすみなさい」
まだ就寝の挨拶には早いと思いながらも、結びの言葉がそれしか見つからなかった。
美都は耳からスマートフォンを離して自分の胸元近くへ持って行き通話終了のボタンに触れた。
そこでひとつ大きな息を吐く。
(ごめんね、円佳さん)
聞き分けのいいふりをした。これ以上心配をかけたくなかったから。
ただでさえこれまで充分すぎるほどの環境を与えてもらっていたのだ。常盤の家は居心地がよかった。
きっとこれがひとつの区切りなのだ。
意地を張るつもりはない。けれどもこれまで円佳にはたくさん迷惑をかけてきた。
だからこそ今後はなるべく自分から連絡を取らない様にしよう。電話を切る前、心に決めたのだ。円佳に悟られないように。
そんなことを言ったらきっと彼女は怒るだろう。それでも。
美都は手にしたままのスマートフォンを更に強く握りしめた。
この生活がどれほど続くかはわからない。何か月なのか、何年なのか。ずっとというわけにはいかないが、もう彼女に甘えられない。
もともとそのはずだった。
「……────」
昨日までとはまるで違う、新しい生活が始まる。
美都は大きく深呼吸をすると俯いていた顔を上げ、ブランコを立った。


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