Courtship

田中 乃那加

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8.コーヒカップを指でなぞり上げ

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 ……男が男を好きになる。これってすごく辛い事だ。

 彼の大きな背中を眺めながら、うっかり手を伸ばしかけた自分に気が付く。
 もし彼が僕のどちらかが女の子なら。その手に触れられるのだろうか……違うな。彼に対してはそれが問題じゃない。それ以前の事だ。
 遼太郎はゲイ(またはバイセクシャル?)なのを僕は知ってる。
 だって男の人と寄り添ってホテルに入って行ったのを見てるから。
 だからと言って『僕を愛して』なんて口が裂けても言えない。
 何故かって? 簡単だ。
 ……完全に脈ナシだもの。

「さっさと来いよ」

 振り返った遼太郎が僕に言う。一瞬彼の手がこちらに伸ばされた気がした。でも直ぐにまた向いてしまった後ろ姿。
 あー、やっぱり脈ナシなんだなって再確認。

「待ってよ。歩幅が大きいんだから」

 ついて行くのに一苦労だ。僕だったそんなに小さい訳じゃないのに、彼と一緒に歩いているとまるで華奢な女子になったような。そんでもってその大きな手で肩くらい抱いて欲しい……いやいやいやいや、何考えてるんだ僕はっ!

「遅せぇよ。女じゃあるまいし」
「うるさいなァ」

 どうせ女じゃないよ。遼太郎は女の子も好きなんだろうか。女の子だったら、守ってくれるかな……初めて出会った僕みたいに。
 あー、どうかしてる。
 過去の、しかも女装した自分に嫉妬してどうするんだ。いよいよオカシクなってきたなぁ。

「ハァ……」

 小さくため息をついて、少し足を速めて彼の後をついて行く。

「どうした。恋煩いか」

 揶揄うような声が上から降ってきて半分ムカついて軽く睨みつける。まぁ残り半分は正直嬉しかったんだけど。
 だって、好きな人に心配してもらえるなんて普通に嬉しいだろう?

「べ、別に……色々あるんだよ、高校生だもん」

 そう。大人も大変なのは100も承知だけど、子供も。特に僕達高校生も色々大変なんだよ。
 大人じゃないけど子供と呼ぶには大きくなり過ぎた、そんな中途半端な年頃で。
 大人たちが僕らと距離を測るのが難しいのと同じかそれ以上に、こっちだって測りかねてるんだよ。
 目まぐるしく変わるのは環境だけじゃない。自身の身体も心も。それら全てに振り回されて、振り落とされそうなジェットコースターみたいだ。
 自身を持て余してため息くらいついても仕方ないだろう。

「……ま、お疲れさん」

 ガキのくせに、と彼は言わなかった。
 その代わりとびきり優しい声と、そっと触れるだけの頭ポンポンをしやがった!
 片想いしてる相手からそんなことされたら……平静を装う事が出来たのが奇跡だ。 
 
「お、大人も大変なんでしょ」

 辛うじてそう返せば。

「ン、そうだな……まぁ俺は慣れた」

 考え込むような真面目なトーンの声。また彼を見上げれば、一瞬だけ合った視線の後直ぐに目を逸らされた。
 ……そういうの、地味に傷付く。

「嘘だな、慣れてねぇよ。慣れたフリしてんだ。大人になれば、大体が上手くなるぜ」
「フリって……それじゃあ誰も気付かないじゃないか」

 僕の言葉に彼が肩をすくめる。
 大人でおっさんなのに、そんな彼がやけに繊細で可愛らしく見えるのだからおかしい話だ。
 もしかしたら僕は、頭も目も悪くなってきちゃったのかもしれない。それくらい恋って、怖い。
 ……そう怖い。今僕はすごく怖い。
 こんなに近くにいるのに、僕は間違えてばかりだもの。
 あの時。めちゃくちゃな事言って彼にホテルに入った時だって。
 結局、彼は僕を抱かなかった。まぁ初めての事だらけで泣いてしまった僕に辟易したんだろう。
 あれからなんとか食い下がってLINEしたり、こうやって会って話すくらいにはなったけど、遼太郎は基本的に僕を疎ましがる。
 恐らく僕みたいなタイプは好きじゃないんだ。
 
 彼とホテルに入って行ったあの男の人は、とても綺麗な人で。
 僕なんかとは比べ物にならない感じ……分かってても凹んじゃうなぁ。まるきり相手にされてないって感じだもんな。
 あんまり笑いかけてくれないし、時折すごく嫌そうに顔顰める。
 そんなに嫌われてるのかなぁ、と思えばさっきみたいに優しい顔もしてくれる。

「ズルい……」
「ンだよ」

 思わず声に出た呟きに、彼が視線だけでこっちを見た。
 ヤバい。無意識に口から出てたらしい。冷や汗かきながら『……別に』と全く言い訳にも言い繕いにもなってない言葉を吐く。

「お前もいずれ大人になるだろ。そしたら分かるぜ」
「ふ、ふぅん……」
 
 なんか違う風に納得してくれたらしい。
 僕がズルいと思うのは、彼が見せるその優しさだ。
 僕のモノになってくれないのにそれでも気まぐれみたいに微笑んでくれるんだもの。
 まるで飴と鞭使われているみたいで癪に障る反面、それにすっかり夢中になってる自分もいて。
 ……待って。これなんか考えようによっては、変態っぽいぞ。
 もしかして彼より僕の方が変態なのか!?
 
「お前さ。表情がよく変わるな」
「え、え!?」

 今度は心無しか、面白そうにニヤついている(ように見える)彼を見上げる。
 珍しい。今日は彼も少し表情豊かみたいだ。

「遼太郎が変わらなさすぎなんでしょ」

 大人の余裕ってやつ? なんて嫌味混じりで言ってやると『違ぇよ』とほんの少し頭小突かれた。
 
「痛っ、乱暴者め。僕の優秀な頭が壊れたらどうしてくれるんだ」
「ははっ、イカレ頭にはちょうど良い刺激だぜ」

 今度は声を上げて笑った。
 本当に珍しいな。明日は雪だろうか……いや、反対に40度くらいまで気温上がるのかも。初めて遼太郎が声を上げて笑うのを聞いた。
 ……美形は声も、それどころか笑い声もカッコイイんだな。
 格差社会だ。

「イケメン、爆発しろ」
「なんだ急に」
「別に」

 なんでもないって口にしたら、本当に全部なかった事に出来たら良いんだけど。
 このデタラメな恋も、うっかりついた下手な嘘も。
 犯している罪も。多分バレたらもっと嫌われちゃうって事実も……。
 僕、彼のストーカーだもんな。尾行はバレちゃったけど、彼があの場所に行くことは知ってた。いつも行く喫茶店も。
 更にそれは僕自身が集めた情報じゃない。卑劣なことに使

「もしかしてお前……」
「えっ」

 不意に掛けられた言葉にハッとする。
 
「腹減ってんのか」
「……」

 直ぐに安堵する。
 うん、バレてない。だってこの人鈍いもん。直接尾行したらバレちゃうけど、僕の恋心も嘘も卑怯な行為も。気持ち含めて全然分かんないんだろうな。
 鈍くて意地悪で……あー、好きすぎる。

「僕の事なんだと思ってんだよ」

 誤魔化しついでに不貞腐れてみた。
 するとニヤリと笑って返される。

「成長期のガキ、大食らいのガキ」
「ガキばっかじゃん」

 ……あー、ハイハイ。ガキには興味ないってね。
 顔で不貞腐れて見せて、心で泣いてますよーだ。

「そこがまぁ……可愛い」
「!?」
「……さっさと行くぞ、クソガキ」
「ちょ、速いってば!」

 少しペースを早めた彼の歩調に必死についていきながら、その言葉が聞き間違えじゃないか……とか。焦れて僕の手を掴んでくれないかな、とかそんな事ばっかり考えていた―――。


■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫

 どこに連れていかれるのかはなんとなく予想出来ていたし、その場所についても知ってはたんだけれど。
 実際足を踏み入る事になると、なんだかとても憂鬱だった。
 だってそのってのが彼とどんな関係か僕は知らないのだから。でも知ってたとしたら……行かなかっただろうか?

『アンタが誰かをこの店に連れてくるの、初めてじゃないの』

 そう言って悪戯っぽく微笑んだのは、この店の女主人の梨花さんだ。
 彼女は顔を合わせてみると、とても良い人っぽいと思った。
 朗らかで優しくて。太陽みたいな人ってこういう人のことを言うんだろう。
 その暖かさに惹かれるとともに、尚更彼女と遼太郎の関係が気になる。
 ……聞いたら教えてくれるだろうか。でもどうやって聞こうかな。出来るだけ自然に、ヤキモチ妬いた女の子みたいな顔はしたくない。

 ―――遼太郎としばらく話した後、彼女は彼にお使いを言い渡した。
 面倒そうに渋々と、でも大人しく大きな肩を竦めてから店を出て行った彼。
 僕と梨花さんはその後ろ姿を少しだけ見て、また少し話をする。
 話の内容は大したことない。他愛のない雑談だった。

「蓮君は兄弟とか居るの?」

 話題の切れ目に訊ねられた質問に、僕は姉が一人いることを話す。
 気が強くて口うるさい、大学一年生の姉貴。
 心配性で、最近僕の様子がおかしいと母に言ってるのを聞いてしまった。
 恐らく少しブラコンの気があるんじゃないかって思う。対する母は『お年頃だもの……好きな子でも出来たんじゃないのかしら』って返しててかなり冷や汗かいた。
 母の感って怖いなぁ。でもそのの事を二人に打ち明ける日なんて来ないんだろう。
 きっと二人とも……特に姉はビックリして自分を責めるだろう。
 僕を女装させたのは他でもなく本人だもんな。それでソッチに目覚めたんだと思われそう。
 確かにタイミング的にはその時だけどさ。結局、痴漢の怖さはバッチリ身体と心に叩き込まれたけど、それ以上の存在に心奪われて正直それどころじゃないというか。

「お姉さんと仲良いのねぇ」
「仲良いなんて。お節介でうるさいんです。いつまでも子供扱いして……」

 そう零せば、微笑ましそうに笑った梨花さんは少し考えて言葉を紡ぐ。

「まぁ高校生だもんねぇ一番大切な時期だわ……自分と向き合って、自分を
「自分を許す……?」
「そう。許すというより認めてあげる、かしら……自己肯定感とも言うのだけれど」
「自己、肯定感?」

 なんだか難しい言葉だ。 
 でも僕自身、そんなにネガティブだとかメンヘラだとかそういうのじゃないから割と縁遠いと思うけれど。

「性自認や恋愛観もそうなのよ」

 梨花さんは僕の顔を覗き込むように見据えた。
 温かいコーヒーの湯気が立ち上る。それを見るともなしに二人で眺めながらの会話だ。

「アタシが言いたいのはただ一つ。ってことよ」
「梨花さん……」
「蓮君が誰を愛そうが、そこに間違いはないの。愛しちゃいけない人っていないのよ……勿論、行動に責任も犠牲も伴うわ。でも愛そのものはもっと自由であるべきだとアタシは思うの。それにね」

 カップの縁を撫でる僕の手に触れた梨花さんの手……それはとても温かくて。

「更に言うなら。同性愛やら異性愛やら、不用意に細かくカテゴライズするのはナンセンスなんじゃないかしら。そりゃまぁ傾向はあるかもしれないけど、蓮君の場合は出会いがあって結果的に恋をしたのよ。……もっとその恋に誇りを持ちなさいな」
「……」
「あの人が。遼太郎が好きなんでしょう?」
「ど、どうしてそれが」
 「ふふっ、分かるわよ」

 梨花さんは小さく笑った。
 ……僕は、正直彼女が言ったことをとても難しく感じている。
 僕にとってこの恋は、やっぱり躊躇するべきもので。女の子を好きになるのがだった価値観の中に、突然飛び込んできた感情だったから。
 本当は自分でも知らなかった、ソッチの気ってやつに絶望している自分がいた。

「遼太郎もそうだったわね……」
「え?」

 しみじみと過去を振り返るように呟かれた言葉に、僕は俯いていた顔をあげる。
 その時だった。

「あら」

 店の奥で電話が鳴る。
 彼女もすぐに気がついて、申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんなさい。ちょっと……良いかしら?」
「あ、はい」

 再度軽く謝って、彼女は電話に返事をしながら店の奥に消えて行く。
 
「ハァ……」
 
 僕は少し冷めたコーヒーをすすると、カップをソーサーに戻してため息をついた。
 やっぱり難しい。そしてコーヒーは苦い。僕の舌はまだまだお子様なのかもしれないな。
 ミルクくらいは入れようか、と先程彼が寄越してくれたミルクを入れる。
 するとカランコロン、とドアベルが鳴り響いて大きなが入ってきた。

「オーッス……ってあれ? 梨花さんいねーのか」

 入ってきたのはお客さんらしい。
 そのシルエットにギョッとして、改めて見て髪型にもド肝を抜かれた。
 ……アフロヘアって言うんだろうか。しかもすごく大きい。 
 背が高くてひょろっとした体格に頭だけが丸く大きく広がってる。
 こういう髪の人、実際に見たの初めてかも。

「ん? なんだよテメー」

 あんまりジロジロみたからか、アフロ男は僕に気が付くとこちらへ寄ってきた。

「えっ、あ、すいません。あまりにもその……見事っていうか、かっこよくて……?」

 あぁ、僕今すごくお世辞言ったなぁ。しかも少し嘘寄りの。
 でもアフロ男は気を良くしたのか、やけに白い歯を見せてニヤリと笑った。
 
「へへっ、褒めてくれるじゃねーか。よし、おにーさんが話し相手になってやろう!」
「えぇっ、あ、はぁ……」

 本当はすぐにでも辞退したかった。なんか馴れ馴れしい感じだし、正直面倒くさそうで。
 でも、既に隣にどっかり座ってる彼にそれを言い辛い。
 
 ―――彼は傳治 蓮次でんじ れんじと名乗った。

「電子レンジ?」
「ちげーよ!? でん、な? あの四角い調理器具じゃねーから!」

 やたらと感嘆符の多い、声が大きなタイプの人だ。早くも辟易してきた。
 
「それにしてもよ。梨花さんいねーの?」
「あぁ、さっき電話が鳴って奥に行きましたよ」
「あ、そーなのか。んじゃ仕方ねーな」

 僕が最初に出された水を遠慮することなく飲みながら、蓮次さんは大きな欠伸をする。

「お疲れ、なんですね」

 間が持たず話しかけると、彼は嬉しそうに頷いた。

「そーなんだよ。ていうかテメー、なかなか可愛いヤツだな」
「!?」

 ……えぇっ、まさかこの人もソッチの人?
 思わず引きかけた僕の様子など目に入っていないのか、嬉しそうに身を乗り出す。

「ウチの職場にも高校生がたまに臨時や実習で来るけどよ。……まー、何考えてんのか分かんねーぜ。特に男はさ、可愛げっつーのがなくっていかんよなー」
「あ、あぁ。なるほど」

 可愛いって言うのはのことか。
 別に全ての高校生が無愛想って訳じゃないから、恐らく凄くシャイな子に当たったのか。この大きな声のキャラが濃い蓮次さんに引いただけなのか……。

「でも蓮次さんもそう僕と変わらなさそうな……」
「オレ? 19歳だぜ」
「あんまり変わんないじゃないですか」
「そーかぁ?」

 すると突然、距離を詰めて腕を伸ばして肩を大きく抱いてきた。
 当然驚くし、たじろぐ。

「ちょ、蓮次さん!?」
「学生はいーよなぁ。青春しろよー! ちくしょー、羨ましいぜ!」
「えぇ?」
「オレなんて高校生時代、金がなくってバイトに明け暮れててよ。勿論勉強は、バイトが無くてもしなかっただろうけどな! わはははっ!」

 豪快に笑う彼に、顔が引き攣るのは当たり前として。この明るさと独特なヘアスタイル、さらに強引さの裏には結構苦労人なのかなと思ったりする。

「それにしても遅せーな。電話、変な所からじゃなきゃいいけどよ」
「変な所?」

 聞き返せば、肩を抱いたまま彼は表情を曇らせて言う。

「梨花さんって美人だろぉ? 変な奴に狙われたりしそうじゃねーか。オレ、常々心配してんだぜ。一人でここ切り盛りしててよ。……もうちょっとって言うのが必要じゃねーかなって」
「へぇ……ここ、一人でされてるんですか?」
「そ。10年以上前に離婚して、それから一年して急に店持つって言い出したらしいぜ。どうやってこの店を譲り受けたのか、とか元の持ち主の事とか全然言わねーらしいけどよ」
「言わないって」
「あ。この話、遼太郎さんに聞いたんだ。あの人、梨花さんの幼馴染で……」

 蓮次さんの言葉に、複雑な心境ながらなるほどと頷いた。
 確かにすごく仲良さそうだもんな。でもやっぱり羨ましい。

「……あと、梨花さんのだもんな」
「えっ!?」

 僕の思考とはよそに聞こえてきた言葉。
 驚きのあまりに彼の顔を2度見する。そして肩を失礼にならない程度にやんわり外し、どういうことかと問い正した。

「どういうことって、そのままの意味だぜ」
 
 逆にキョトンとした顔で返されてしまう。
 つまり遼太郎さんは昔結婚してて、それが梨花さんだってこと。
 彼はゲイじゃなくてバイセクシャルっていう認識で良いんだろうか。
 ……それを口に出すべきか一瞬迷って、僕は当たり障りない無言の頷きで納得してみせた。
 幸い蓮次さんは僕の様子に対して特に疑問も違和感も抱かなかったらしい。
 もじゃもじゃな髪を片手の指で弄りつつ、もう片方でグラスを傾け水を飲んだ。
 
「オレが二人と付き合いがあんのもまだここ数年だしよォ、よく知らねーんだけどさ。でもありゃ遼太郎さんの方がだぜェ」

 未練!? その言葉に僕はうっかり手にしたコーヒーカップを取り落としそうになる。
 動揺した僕をどう思ったのか、肩を竦めて苦々しい顔をした彼はふいに窓の外に顔を向けてポツリと呟く。

「だってそうだろォ。ここへはしょっちゅう通ってんだもんな。しかもよく二人でコソコソ喋っててよ。ったく妬けるぜ。オレ実はさァ」
「っ……ちょっと、ごめん、なさい」
「え、お、おいッ、ちょっ、どーした……えぇっ!?」

 ……もう限界だった。 
『未練』だとか『結婚』だとかそういう言葉がぐるぐる頭を回って、心を腫らしていく。
 そして気がつけば。

「っ、う……っ」

 胸が苦くて重いような、そんな感覚と鼻の奥かツンとした瞬間には頬が濡れていた。
 突然泣き出した僕に、この気の良いアフロヘアの男は大層驚いただろう。おろおろと僕の顔を覗き込み、何故か頭を撫でてみている。その優しさがやっぱり心に刺さる。
 あぁ彼も頭を撫でてくれたよなって。乱暴に野良猫撫でるみたいに雑だったけど。
 それがたまらなく嬉しくて同時に辛かったんだよなって。

「ひぐっ……ぅ……っ、ご、ごめん、な、さ……僕っ……」
「な、なぁ、どうした? 腹でも、痛くなった? 腹減った?」

 気の毒くらい困ってる。
 この人すごくいい人だ。だからすごく困らせてる。申し訳ない。でも涙が、心が泣くのを止めてくれず、しゃくりあげてカッコ悪く泣いてしまう。

「あーっ、蓮次、なにしてんのよ!!」
「り、梨花さん! オレ……」

 一際大きな声。
 梨花さんが戻ってきたらしい。
 狼狽える蓮次さんに、彼が泣かせたと思って叱りつける彼女。
 僕はいよいよ居た堪れなくなる。

「すいません……!」
 
 謝るばかりの口と唐突に立ち上がる事で、心配そうに覗き込んでくれた二人の視線を遮って店を逃げ出した。
 雑に開けたドアのベルが大きく鳴り響くのを後ろに聞いて、僕はひたすら走り続けた。
 ……泣き虫、逃げ出した卑怯者。
 心だけは相変わらず僕を責め続ける。
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