出来損ないのα‬と不機嫌なΩ(仮)

田中 乃那加

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夜の帳がおりる刻

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「あぁぁ、つかれたぁ゙ぁぁぁ」

 上等なマットレスは、飛び込んだ身体を優しく包み込んでくれる。
 クイーンサイズにも思えるベッドの上で、大きく息を吐いて横たわった。

(それもこれも恭太郎さんのせいだ)

 ――書斎の掃除は、なかなかはかどらず。
 結局、ほとんどを一人ですることになった。それでも雑然とした物置状態のそれを、なんとか原形に近く戻したのは彼の功績だろう。
 だんだんと遠慮のなくなっていく叱り声に、気を悪くすることもなく。当の本人は、整理すると言ったはずの本を読み進めている始末。

(集中力があるんだかないんだか)

 いつしか目の前にいた男が、自分よりはるかに年上のα‬であることを忘れていた。
 口うるさく言っても、あの穏やかな瞳でむしろ優しく見つめ返されたからだろう。
 人懐っこいというか、とにかく憎めない人間だった。
 
(あいつみたい)

 Ωやβなんかよりずっと優秀といわれた性別。それなのに見せられる無防備な姿に、なんだか妙な気分にさせられる。
 太郎の場合は、飼い主になつく大型犬のような表情。時として周囲に牙を剥く、駄犬っぷり。

(でも嫌い)

 そう。嫌いなのだ。嫌悪しているはずなのに、どうも気になるし完全に無視しできない。

 
高校生が寝るには、まだ少し早い。夜の八時過ぎ。

(こんなことしてて、いいのかな)

 改めて考えると、とんでもない状況。
 夜中に家を飛び出して、知り合いの‪α‬男性の実家に転がり込むなんて。
 シーツの上に身体とともに投げ出したスマホが震えたのは、そんな事をぼんやり考えていた時のことだった。

「あ……」

 母からの着信。母親、と表示されているのを見ながら呆然とする。
 でていいのか、いや違う。でたいのか。確執しかない親と話ができるのか。そもそも相手がどんな感情なのか分からなければ、電話にでることに気が引けた。

(どうしよ)

 家族に関して、本当に頭が整理できていない。
 それでも幼い頃はよかった。
 父がいて母がいて、兄がいて。

(兄さん)

 二年ほど前になるだろうか。兄もまた時期が来て、性別が判明した。
 そこから全てがおかしくなったと陸斗は思っている。しかし本当はそれより前も、崩壊していたことを彼は知らない。
『家族』というものに少しずつヒビが入り、ある日突然音を立てて木っ端微塵に砕け散る。
 しかし父も母も、お前のせいだと表立って糾弾することはなかった。ひっそりと絶望して泣いて、責めあったのだろう。
 それがなおさら、心を痛めつけた。

「母さん……」

 誰につぶやくワケでもない声が、静寂に満ちた部屋に響く。
 広い寝室は美しい家具や調度品に溢れているけども、それがかえって冷え冷えとした気分にさせるのが、不思議だった。

(いまさら、なんを話せっていうんだ)

 気持ちを吐き出さずに溜め込んでいたら、いつしかそれがドロドロとしたなにかに変化して。石化して自分の一部になってしまったような感覚。
 心配されているのは理解しているつもりだった。分からないほど子供ではない。
 でも、受け入れてしまえるほど大人でもない。
 Ωである自分に、これが最善であると道を示そうとしてくる周囲の声に苦しんでいるのはそのせいだ。
 ‪α‬に依存しなければならないこの身がもどかしい。望まないのに、周期的にくる発情期も。いっそのこと、自らの意思でやめてしまえたら楽なのに。
 
(Ωをやめたい)

 それは不可能。
 判明するのはこの年齢だが、本来生まれついてのものである。
 人間が勝手に、肺呼吸をやめてエラ呼吸をするように。
 
「……」
 
 気がつけば、スマホは静かになっていた。
 着信履歴だけが連なっているだろう。かけ直す予定のない、履歴だけが。
 そう思うと何もかもが嫌になる。
 やり残した期限切れの宿題を、すべて放り出してしまっているような。
 焦燥しょうそうと罪悪感。あと、不安。
 シーツに顔をうずめて、こぼれるため息も仕方がなかった。

(どうしよう)

 だいたい、ずっとこのまま居候でいるわけにはいかないのだ。
 しかし仁子が彼をこの屋敷に置く理由が、イマイチまだ分からない。太郎の番として、捕まえておく理由ではなさそうだ。
 なぜなら、そんなことをする必要がないから。
 いくら出来損ないと陰口叩かれる‪α‬であっても、家柄は申し分ない。
 政府が選んだ庶民の、取るに足らないΩ男性よりよほど良い相手がいるだろう。
 だとすれば、やはり父である恭太郎の研究のためか。
 Ωに関するものだとあるが、くわしい事は聞かされていない。
 初っ端から誘発剤のような薬 (彼は別の作用だと言ったが)を盛られた不信感はぬぐえないかと思いきや。今日の姿をみて、まんまとほだされた感じになってしまっていた。

「……寝よう」
 
 くよくよ考えていても仕方ない、というより寝逃げしたい。
 ゴソゴソと布団にもぐりこんだ時。

「!」

 人の気配なんてなかった、はずだった。
 を感知するまでは――。

「だれだッ!!」

 フェロモン。
 しかもそれは‪α‬のものだ。ぞわりと鳥肌が立つ。
 怯えたように叫び、ベッドを飛び出した。

(どこから!? 部屋の外? ドアの向こう?)
 
 きっちり閉まったドアは、開く気配はない。だとすればすでに、部屋に侵入しているのか。
 恐怖が這い上がってくる。

(気のせい……いや、違う。これは、‪α‬のフェロモンだ)

 この屋敷にいる‪α‬は知ってる限りで、仁子と恭太郎だけだ。あとはΩだけで、βすらいない。
 しかしこのフェロモンの主が、彼らだとはどうしても思いたくなかった。

「あ、あのっ……た、仁子、さん……!? それとも、恭太郎、さん……?」

 明るいはずの部屋が怖い。
 まるで得体の知れない化け物がひそむ、真っ暗闇の中にいるようだ。
 辺りを見渡しながら、ゆっくりと部屋の端に移動する。
 足音を立てないように。いつでも飛び出せるよう、窓を背中に。
 二階の部屋。窓の外は中庭で、落ちたら怪我をするだろうか。打ちどころがわるければ、死ぬかもしれない。
 それでも背に腹はかえられなかった。

「だ、だれ……」

 息があがる。
 ふきだした額の汗が、頬を伝って落ちた。
 発情期でないのに、なぜか異様に濃く感じるフェロモンの香り。それはもう、むせ返るほど強い花の匂いにも似ていた。

「はぁ……っぁ、あ……っは、ぁ」

(怖い、怖い、こわいこわいこわいこわい)

 初めての感覚に、恐怖と混乱が綯い交ぜになって襲ってくる。
 足が震え、辛うじて窓辺の化粧台ドレッサーにつかまって立っている状態。
 これもまた、アンティークなのか。繊細な装飾を施された木製の手触りが、これが夢でないことを証明していた。

「やめろ、やめてくれ……」

(汚される)

 何度も何度も記憶の中から追い出そうともがいてきた、悪夢。
 知らなければよかった。自分がΩだと、男を惑わせる性別だと。
 そうすれば、ただの悪い夢で終わったからもしれない――そんな嘆きも、今はもう口に出すことすらできない。
 
「陸斗」
「ヒッ……!!!」

(まさか!?)

 風が、入ってきた。
 カーテンが大きく揺れたのだ。窓なんて開けていないのに。
 そして名を呼んだ男の声は、わずか低くかすれていた。


 
 
 


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