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そして悪役令息は逃げ出した

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 別れ話の代わりに手紙でも書こうかと思った。
 しかしそれすら躊躇われるほど、凄惨な夜であった。
 
 長い長い悪夢のような快楽の後、次に目を覚ましたのは見慣れた自室のベッドの中で。
 恐る恐る隣を見てもあの男の姿はなかった。

 ホッとするより先になぜか思った。
 寂しい、と――。

「噛まれてない……よかった」

 首の保護具、つまり首輪のおかげでうなじを噛まれることはなかったらしい。
 しかし強固であるはずのそれにはまるで獣が無理矢理噛み付いたかのような跡が無数についている。

 たしかに激しく抱かれている間、何度も首元に喰いつかれたのを思い出した。
 そのたびに舌打ちと、引き換えのような激しい抽挿で身も世もなく泣かされ続けたのだ。

「最低だ」

 いくら婚約者でも。いやちゃんと愛し愛された関係であればこんな暴行紛いなことされなかったのだろうか。

 ――すべては僕が嫌われているから。

 お飾りとしても大切にする価値すらないと判断されたのだと皇大郎は力なく笑い顔を覆った。

 なにも無い。なにもかも失ったのだ。いやそもそも何を持っていたのか。もはやどこから間違えたのかすら分からない。

「……」

 深く息を吸い込んだ。

 季節は夏から秋へ。朝も肌寒さすら感じる、そんな気候の中で部屋から出られずにいる。

「あ、仕事」

 ふと呟いて勘違いに気づいた。
 今日は週末。天気も良く、昨日見た予報によると一日晴れてお出かけ日和らしい。

 ――僕には縁のない話だけど。

 こんな身体を引きずってどこへ行こうというのか。 
 最愛の祖母でさえ、他に愛する人を見つけて行ってしまったのに。

 ひどく惨めで寂しかった。

「あぁ」

 ノロノロとバスルームへ向かう。まずはこの身体を綺麗にしなければ。
 とはいっても昨晩の残滓がそっくりそのままであるわけではない。ある程度は拭き清められたのだろう。

 それがまた気持ち悪かった。

 特に奥に散々出された精液はきっちり掻き出されているのが、たまらなく不快で奥歯を噛み締める。

「っ、ちくしょ、ぅ」
 
 洗面台の鏡の前で思わず悪態をつき、目を背ける。
 
 元々色白だと思っていた肌につけられた鬱血痕。赤く、どこか毒々しい花弁を散らされたかのようで。

「……うげぇ」

 首筋や肩につけられた歯型もひどかった。
 中には強く歯を立てられ、傷口にうっすら血が滲んでいる箇所も。
 これは皇大郎が抵抗したり逃げようとすると、仕置きとばかりに噛み付かれる。
 たまらず痛みに悲鳴をあげれば、気を良くしたように今度は優しく吸い付かれ舐められて。
 
 それを繰り返して抵抗を削がれていく。

 最期はほとんど人形のように揺さぶられた末に意識を飛ばした。

「人の身体にめちゃくちゃしやがって」

 正直、殺してやりたいくらい腹が立っている。尊厳を踏みにじられて、これでうなじを噛まれていたら泣くに泣けない事態になっていただろう。
 
 避妊具もつけてもらえなかったから病院にも行かなければいけないし。

 いつまでもここで呆けている訳にもいかず、再びため息をついて浴室へ。

 熱めのシャワーを頭から浴びれば、多少は最悪な気分もマシになっていくというものだ。
 ただ元通り、というわけにもいかないが。

「……ふぅ」

 身体の節々は痛むわ気だるいわで絶好調とは程遠いが、少なくとも打たれた薬は抜けたらしい。

 あれは一種のレイプドラッグのようなものだ。特に、つがいを持たないオメガにとっては。
 発情を急激にうながして性暴行をする事件が後を絶たない。

 刃物を使って脅さなくても、この薬さえあればまるで発情期の時のような激しい性的興奮と性衝動に逃げることすら出来なくなる。

 なかには快楽に抗えず自らのうなじを差し出してしまい、番という名の奴隷にされるオメガの存在も問題になった。

 つまり、そこまで嫌われていたという彼の中の結論となる

 ショックであるし、悲しみもある。しかし。

「じゃあお望み通りッ、婚約破棄してやろうじゃないかよ!!」

 ここで一つ思い出して欲しい。
 御笠 皇大郎は元アルファで、プライドも気位も本来はめちゃくちゃ高いのである。

 だから祖母のためにぶん殴った相手と婚約もしたし、その後の職場内イジメもセクハラも反発しながら耐えてきたのだ。

 ここでメソメソ泣いて絶望に打ちひしがれるだけの男では、ない。

「善は急げだな、この家も捨ててやる」

 祖母もいなくなった。じゃあなんの未練がある?
 もう家に縛られる必要もないのだ。

「ふん」

 リビングのゴミ箱に突っ込まれた写真の束。たしか昨晩はベッドに放置されていたはずだが……なんて考えるのも一瞬だけ。

 覚悟を決めて腹を決めたオメガは強いのだ。

「やっぱり手紙書いてやろっと」

 しかし湿っぽいモノは適当ではない。
 皇大郎は通いの家政婦が整理し保管しているチラシの束から一枚を引っ張り出す。

 ――お前なんてこんなんで充分だ、バーカ。

 別れの手紙という名の罵詈雑言をチラシの裏に書きなぐった。

「ええっと」

 今までの恨みつらみからの昨晩の事に至るまで。あとは婚約者がいながら恋人がいることがいかに不誠実でクズ男っぷりを発揮しているかを、理路整然と書き連ねた。

「これでどうだ!」

 そして最後の締めはやはり。

『以上の理由から、婚約破棄を申し出ます。貴方に拒否権はございません。家も仕事も何もかも知ったことか! バーカバーカ!! くたばれ、変態レイプ野郎! 死ね!』

 最後がまるで小学生の悪口みたいになっていたが、皇大郎はおおむね満足だった。
 育ちの良さゆえかこんな手紙を書いたのは初めてだが、なかなか気分が良い。

「こうなったら徹底的に逃げてやる」

 御笠家と貴島家がどうなるのかなんて知ったこっちゃないのだ。
 どうせお互いが利用しようと虎視眈々と狙っていたような関係性。他に親族で縁談をまとめるなりすればいい。
 しかし完全に決裂してしまう可能性もあるだろう。

 だからなんだって言うのだ。

「知るかバーカバーカッ!!」

 決別するために自らに言い聞かせる。
 と同時に、双眸から大粒の涙が溢れ出してきた。

「っ……ば、ぁか! バッカみたいだ……こんなクソみたいな家のために……僕……こんなこと……」

 ひとりぼっちの家の中で皇大郎は泣いた。大声をあげて子供のように。
 
 しかし既に腹は決まっている。

 殴り書きされたチラシの裏には確かに書いてあるのだ。

『婚約破棄』

 という四文字が。
 
 ようやくすべてを捨てたオメガが、ここに爆誕するのである。



 
 


 
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