Spoon me!

田中 乃那加

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9.マジックリアリズム

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 送り出されるようにやってきた美術室のドアの前。
 夕陽の差した廊下は眩しいくらいだ。
 ゆっくり目を閉じて息を整えるけど、やっぱり勇気なんてどこからも湧いてこない。
 正直このまま帰ってしまいたい。きっと死ぬほど後悔するだろうけど。

「ハァ……」

 深いため息が少しばかり下がってきた気温に溶けた気がする。
 でもいつまでもこうしてる訳にはいかない。

「し、失礼します」

 僕はあえて少し大きな声を出して、ドアに手をかけた。

「わっ……!?」

 そのままスライドさせようとした途端、強い力が加わって勢い余ってしまう。
 おまけに開いたドアの向こうからにゅっと出てきたに腕を取られ、そのまま前に引き倒される。

「ぅ゛……っ、!?」
「ン。遅かったな」
「せ、先生!」

 てっきり、硬い木の床に倒れ込み叩きつけられるんじゃないかと覚悟していた。
 でも感じたのは痛みでも衝撃でもなく、程よい弾力と体温。そして包容感。
 ……気が付けば、丹羽先生が倒れ込んだ僕の身体をすっぽりと包み込むように抱き留めていた。
 それがいつかの状況で。しかも恋に気が付いてしまった今の僕には刺激が強すぎる。

「あ、あのっ……僕、この前は……すいません。その、逃げ出しちゃって」
「……」

 そのままの体勢で、パニックになってこの前の非礼を詫びる。
 どう考えても今じゃないだろ、って感じだけど。なんせ腰を抱き寄せ、肩に回した腕からは到底離れられそうきなかったから。
 それくらい、しっかりと拘束されていた。

「僕、あの、実は……」
「天美」
「!」

 僕の言葉を遮るように、先生が名を呼ぶ。
 その思惑通り、何も言えなくなる。

「……俺は、この一週間ストレスを感じていた」
「え?」
「お前が来なかったからだ。だから今、ストレスを発散させて欲しいのだが……構わないだろうか」
「先生……」

 ? それって。

「すまない。もう少しだけ我慢してくれ」

 顔は見えない。すっかりその大きな肉体に包まれてしまっているから。
 無意識に息を吸うと、やっぱり洗剤と仄かな画材の匂い。
 ああ、すごく好きだ。……違う。
 改めて、僕は丹羽先生に恋をしているって事実を突きつけられた気分になる。
 だからあんなに胸が苦しくてドキドキして、腹が立って。ジタバタしたくなるくらいもどかしかったんだ。
 そして耳元で聞こえる先生の低い声は何度も懇願していた。『我慢してくれ』って。
 
「先生……僕、もっと抱きしめて欲しい」

 その声色と言葉に引き出されるように、僕は自分の想いを告げていた。
 僕はきっと期待しちゃったんだと思う。この切なげに聞こえる声に。この逞しい腕に、少し高い体温に……。

「天美」

 身体が引き離され、こちらを見下ろす彼の視線と僕のそれがぶつかった。  
 灰色がかった瞳。でもその目元がうっすら赤みを帯びているのは光の加減か都合の良い幻覚か。

「……俺は、あんまり感情の機微ってヤツが分かる男じゃねぇ。だから教えてくれ。。期待しちまっていいのか? なぁ……教えてくれよ」

 いつもは口数が少なくて物静かなこの人が、まるで少し焦れたような口調で僕を問い詰めた。
 見つめる視線は、まるで熱を帯びたような。じわり、と僕にまで伝染して顔に熱が上っていくのを感じた。

「先生、好きです……僕、先生を……愛してます」
「くそっ……」

 僕の言葉に小さく悪態を吐いた彼は、再び強く僕を抱き締めた。まるで締め付けて、縛り付けてしまうように。
 そして小さな声で。

「俺もだ」

 と呟いた。


■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□

「あの……そろそろ」
「ン」
「先生?」
「ン」

 この『ン』は生返事だ。僕でも分かる。
 さっきから僕を膝に乗せて後ろから、覆い被さるように抱き締めているのは丹羽先生。
 首元に鼻を埋めるような仕草は、まるで大型犬みたいだ……いや、こんな大きな犬はいないだろうけど。

「これ、楽しいですか?」

 さっきから、というかあれから1時間ほどこの状態。
 
「これはストレス解消だ。オキシトシンとドーパミンが分泌されて、さらにセロトニン神経も活性化……」
「はいはい、わかりましたよ」

 大真面目な声に、思わず苦笑いしてしまう。
 本気でそう思ってやってるのか単なる口実なのか。
 彼の場合は前者かな。

「まぁ口実だが」

 あ、さすがに後者か。

「……また逃げられたら適わんからな」
「もう逃げませんよぉ」

 あの時は、僕の中では片想い確定で勘違いしそうな自分が辛かったというか。
 そもそも茶久先生に指摘されるまで、この気持ちがなんなのか知らなかったというか……我ながら思考が幼くて情けなくなってしまう。

「テメェは俺のもんだ」
「僕が……」

 ストン、とその思考が心に落ちた。同時になんとも言えない幸福感が込み上げる。
 
「勿論、俺もテメェのものだ」
「ふふっ……ですね」

 お互いがお互いのもの。このまま抱き合って溶けてしまいたいくらい、それくらい嬉しくて。
 
「俺がのはテメェだけだし、その逆もだ……約束する」

 無表情で感情の機微を察するのが苦手で、すごく鈍くて不器用で……そんな大きな身体の先生は、すごく真面目な人だ。
 きっと茶久先生とは、ハグしていただけなんだろう。
 僕はもう、担任の先生に嫉妬する必要もない。
 ……そんな事を考えていたら、彼の顔が見たくなった。

「先生、体勢変えていい?」
「駄目だ」

 甘えを口に出せば、即答で拒否される。
 そのあとボソリと呟かれた言葉に、僕は目を丸くした後に赤面する羽目になる。

「……接吻がしたくなる」
「せっ……え?」
 
 き、キスのことかな。
 戸惑った僕の耳にさらにボソボソと言葉が入ってきた。

「……それはまだ早い」
「え、えぇぇぇ?」

 ……やっぱりこの人、少し変わってるかもしれない。
 ピッタリと触れ合わせた僕の背中と彼の腹。
 その温かさを感じながら、今度は笑いが込み上げて来るのを感じた―――。
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