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何故そうなったかは分からない
気が付けば、目の前にそのホテルは建っていた
確か、家に帰る途中だった
どうやってここに来たかも覚えていない
見た事のない景色、立ち上る腐敗臭
遠くで渦巻く風の音が、誰かの悲鳴に聞こえた
危ないと頭では分かっているのに
薄気味の悪いこの建物の扉を
どうして開いてしまったのか……
「いらっしゃいませお客様、ドリームホテルへようこそ! お待ちしておりましたよ、さあさ、こちらへこちらへ!」
その建物の中に足を踏み入れた途端、明るい声と胡散臭い笑顔が目の前に飛び出してきた。
上等なスーツを着込み、しっかりと黒髪を撫でつけて身綺麗にしてはいるものの、バロック調で統一された古ぼけた内装の中に立っていては、その現代的な身綺麗さはかえって違和感を覚えさせた。足元に延々と広がる暗い赤の絨毯は、一体どれほど長い間靴底に踏みつけられてきたのだろう。天井の隅には蜘蛛の巣が張っているし、カウンターには大きな傷がついている(不思議な事に、その傷跡は歯形に見えた)。
確かにそこは、かつての栄光の名残を残す古いホテルであった。広いエントランスホールをぐるりと見渡す。全くもって見覚えのない場所だ。
「お荷物お運びいたしますね」
目の前の男は意気揚々と言って、カバンをさっと取り上げた。と言うよりひったくった。
「あ、記帳は結構ですよ。もうお名前は頂いてますから」
そんなはずはない。意図せず客となった男は、ホテルは勿論、他のどこにも予約なんてしていないのだから。そもそも、男はつい先ほどまで家路を歩いていたはずだった。何故今、自分のアパートではなくこんなホテルに居るのか、まるで訳が分からなかった。
「あの、何かの間違いでしょう。僕、予約なんて……」
自分の荷物を持ってさっさと歩きだしてしまった男を追いかけると、彼はくるりとこちらを振り返って、爬虫類を思わせる笑みを見せてきた。
「随分前からご予約されておりましたよ。とうとうお越しくださいましたね、いやあめでたい! どうぞ好きなだけ夢を叶えていってください!」
「は、夢……?」
素っ頓狂な客の声に、男は笑みを濃くした。
「ここは夢のホテル。お客様の夢が何でも叶う場所です。まあ、夢が全て素敵な物であるとは限りませんが……とにかく、お客様の様に秘めた欲望をお持ちの方が、思う存分羽を伸ばして頂ける場所で御座います。お代は少々高くなりますがね」
男は扉の一つを開けると、中へと入って荷物を下ろした。ベッド、クローゼット、書き物机も兼ねた鏡台。それしかない酷く質素な部屋だ。汚い訳ではないのだが、客人をもてなそうと言う気持ちはどこにも見受けられない。
「あ、申し遅れました。わたくし、当ホテルのオーナーをしております。何か御座いましたらどんな小さな事でも結構ですので、何なりと御用命を。特別料金にて誠心誠意対応させて頂きます」
さっと名刺を差し出され咄嗟に受け取ってしまった客は、その黒い紙切れを見下ろしながら与えられた情報で現状を理解しようとした。夢を叶えるホテル? なんでそんな胡散臭い所に、自分は予約をした事になっているのだろう。早く家に帰らなければ、明日も仕事があると言うのに……。
「あ、みいつけた」
突然後ろから柔らかい声がかかった。扉の方を見やれば、開きっぱなしのそこに一人の人間が立っている。緩やかに跳ねる短い髪に、柔和な顔立ちを一層穏やかに見せるたれ目、低くもなく高くもない落ち着いたトーンの声と、ユニセックスな服。何一つとして新しく現れたこの人物の性別を示してくれるものは無く、客は二、三度目を瞬かせて、彼、あるいは彼女を見つめた。
「こら、向こうに行ってなさい、ウサギ!」オーナーが眉根を寄せた。「お客様は到着されたばかりなんだぞ!」
呼び名からも性別が判断できなかったその人物――ウサギは、さっと室内に入り込むと流れる様な動作で客と握手を済ませていた。
「私、301号室のウサギです。あなたみたいな素敵なお客さんが来たの久しぶりなんですよ、嬉しいなあ」
細められた赤い瞳を縁取る長いまつげを半ば魅入られた様にぼんやり客が眺めていると、握り合った二人の手をオーナーがさっと離し、そのままウサギの背中を扉に向かって無遠慮に突き飛ばした。
「やめないか! お客様、ウサギには十分お気を付け下さい。言い寄られても、決して相手にしないよう」
「酷いですねオーナー。私が何をしたって言うんです」
「前回のお客様を干からびさせたじゃないか」
「あれは、あの人の体力が無かったからいけないんですよ。でも、今回の方はタフそうだし……楽しみ」
ウサギは妖しく目を細めて客に一瞥をくれた後、手を振って部屋から出ていった。去り際に「期待してますよ」と意味深な言葉を放られたのだが、その言葉をどう受け止めるべきか分からない。女ならまだしも、男だったらどうしよう。
「失礼致しました。さ、食堂にご案内致しましょう」
呆然としていた客はオーナーの言葉で我に返り、促されるまま後に続いて部屋を出た。赤い絨毯がどこまでも伸びている様は、白昼夢じみたうすら寒さを与えてくる。廊下自体は狭くないのに、両脇に立ち並ぶ無数の扉のせいで無性に圧迫感を覚えた。その向こうに、はたして自分と同じ様に客が居るのだろうか。声に出さないその問いに答える様に、客の耳に微かに呻き声が届いたが、どの部屋から漏れ聞こえたのかは分からない。もしかしたら、空耳だったのかもしれない。少なくとも客の数歩先を歩くオーナーは、何の反応も示さなかった。
まるで同じ景色を歩いていたかと思えば、急に妙なドアや廊下が現れては消えていった。訳の分からない絵画も何枚か通り過ぎ、むっとする悪臭を二度ほど嗅いだ後に、ようやくオーナーは立ち止まって扉のない大きな入口を片手で示した。全く道順は覚えられなかった。
「食堂で御座います。あそこの厨房に居るシェフに声をかけて頂ければ、お望みの物をお作り致します」
がらんとした食堂は無人のテーブルと椅子が墓石の様に立ち並び、一組の男女が座っているだけだった。ここもまた古びた高級感を身にまとって取り繕おうとしているものの、厨房と紹介された場所が真っ暗である異質さをカバーできてはいない。カウンターの奥に広がる暗闇を客が見つめていると、それを察したオーナーが口を開いた。
「シェフのこだわりで電気は点けてないんです。大丈夫ですよ、ちゃんと中に居ますから。……おや、ママ、伯爵!」
客は、ママと呼ばれた女性がネグリジェ姿だと言う事に近づいて初めて気が付きぎょっとしたのだが、他の男性二人は彼女の服装になんら疑問を抱いていない様子だった。彼女の顔には美貌の面影が見えたけれど、光を失った瞳を飾る目の下のクマの方が今では目につく。髪はボサボサでどれくらい櫛を入れていないのか分からず、シミとシワだらけのネグリジェも相まってまるで浮浪者の様だった。
伯爵と呼ばれた男性は、ママとは正反対に随分と上等なスーツをしっかり着込み、てらてらと輝くシルクハットまで被って、まるでどこかのパーティにでも出席する様な完璧な出で立ちだった。厳格そうな顔に刻まれた皺は、その年齢以上に彼の人格を表し、手入れの行き届いた口髭がきゅっと一文字に結ばれた口を囲んでいる。
「こんばんは、オーナー」
と、その立派な恰幅に似合った低い声で伯爵。
「どうも……」
と、その細い体に似合ったか細い声でママ。
オーナーは言葉を失っている客を引き寄せると、二人に向かってにっこりと微笑みかけた。
「二人とも、新しいお客様ですよ」
伯爵は目礼だけをくれ、ママは客を見もせず目の前のスパゲッティに視線を落としている。どうにか「こんばんは」と客が返事をすると、伯爵が体ごと客に向き直り、値踏みでもするような目つきで眺めてきた。
「新人君はどこの部屋なんだね?」
「117号室ですよ」
オーナーの言葉を聞くや、伯爵は口髭を揺らしてせせら笑った。
「あの小汚い部屋か。まあ君の様な身形の人間には似合いの部屋だがね」
「伯爵、おやめ下さい。到着されたばかりのお客様に」
「癪に障ったのなら、それなりの人間になれば良いだけの話だ、私の様にね。私は最上階のスイートルームを貸し切っているのだ。他の部屋は考えられん」
「伯爵はお金持ちでいらっしゃいますからね。さて、お客様、何かお食べになりますか?」
「あの、お腹はすいていないので……」
仕切り直しとばかりに笑顔を向けられ、客は慌てて首を横に振った。本当に空腹ではなかったのだが、気遣いからか商売根性からか、オーナーはずいっと笑顔を近づけてくる。
「せっかくですから、何か軽食でも。シェフの料理は美味しいんですよ。ですよね、ママ?」
「……そうね……」
そこでようやく、オーナーと客は彼女がつついているスパゲティがカラカラに干からび切っているのに気が付いた。
「……ママ、そのスパゲッティ干からびてませんか? いつから食べてるんです?」
「昨日の晩よ……」
スパゲッティと同じ位干からびた声で彼女は答えた。
「ああ、ご飯食べるの面倒くさい……あの子はどこに行ったのかしら……。ねえ、あなた、私の子供を見なかった? 困ったわ……」
深く溜息を吐くママになんと返答したものか困っていると、そっとオーナーが客の耳元に顔を寄せて囁いた。
「お客様、ママの事は大目に見てあげてください。実はお子さんを亡くされて、全てに無気力になっているのです。本人はお子さんが死んでしまった事に気づいていません。……あるいは、気づいていないふりをしているのか」
最後は殊更声を低くしたオーナーから、疲れたと小さく繰り返すママへ視線を移す。人形よりも表情の乏しいその顔から、彼女の考えを読み取ることは不可能だった。
「哀れなりだな」
伯爵はそう言い放つと、椅子から立ち上がった。ジャケットの襟をただし、シワ一つないそれを一撫ですると、背筋を伸ばしてオーナーと客に向き直る。
「では、私はスイートルームに戻るとしよう。君の夢が何かは知らんが、せいぜい楽しめると良いな。ごきげんよう」
その“ごきげんよう”は恐らく三人に向けられたものだったのだが、結局返事をしたのはオーナーだけだった。
オーナーはそのままカウンターへ向かうと、先ほどの客の意向は無視して勝手に注文しようと口を開いた。しかし、何か言うより先に厨房の暗闇の中に浮かび上がる一筋の光を見つけて口を閉じる。それは、冷蔵庫の光だった。
「誰だ、冷蔵庫を漁っているのは!」
鋭い声に射抜かれて、冷蔵庫の下で蹲っていた影がびくりと揺れた。影はフラフラと揺れ、揺れる度に高い金属音がジャラジャラと続く。その音にまぎれて呻き声が聞こえてきた。
「お腹すいた……お腹すいた……」
「ステーキ! 離れろ、この卑しん坊め!」
その声を聞いた途端、オーナーはカウンターを乗り越えてその影の首根っこをつかまえ、明るい食堂へと引きずり出してしまった。ステーキと呼ばれたその人間は、この騒ぎでも微動だにしないママよりも異様な姿であった。恐らく元は拘束衣だったろう襤褸を身に着け、そこから覗く四肢と首が病的なほどに痩せ細っている。肌の色も悪く、伸びっぱなしのボサボサの黒髪も相まって、子供が誰の手も借りず初めて作った人形の様な歪さを醸し出していた。しかし何より異様なのは、彼の口元が太い鎖で何重にもぐるぐる巻きにされていた事だった。これが、動くたびにジャラジャラと鳴るのだ。
「うう、何か食べさせて……お願い、何か食べさせて……」
ステーキが鎖の隙間から再び呻くと、オーナーは枯れ枝の様なその腕を乱暴に引っ張った。
「部屋に閉じ込めておいたのに、まったく! ああ、すいませんね、お客様。目を離すと部屋から抜け出して食べ物を探す困った奴なんです」
「新しいお客さん? 君、何か食べ物持ってない……?」
ぎょろりとしたステーキの瞳とかち合った瞬間、客の背筋を悪寒が走った。「ない」と答えたら一体自分はどんな目に遭うのだろうと疑わずにはいられない狂気の灯る瞳。その一瞬客は、鎖の下に潜むこの男の歯が化け物のように鋭く尖っている妄想に憑りつかれた。
「やめないか、みっともない!」
有難い事に、オーナーが再びステーキの腕を引いて助け船を出してくれた。ステーキは痛みに悲痛な声をあげた後、収穫は見込めないと判断したのか、ひび割れた爪の並ぶ裸足でゆっくりと歩き出し、ぶつぶつと低い呟きと鎖の鳴る音を従えて、そのまま食堂を去って行った。
「あの、何か食べさせてあげれば……?」
彼の狂気が和らぐのならと、客は恐る恐る提案する。しかしオーナーは頑として譲らなかった。
「同情してはいけません。ステーキは食べだしたら最後、永遠に食べ続ける大食漢なのです。以前、ホテル中の食べ物を食べつくし、他のお客様まで食べ始めたので、ああして口を鎖でグルグル巻きにして封印したのです。あれは当然の報いです。……さて、私は仕事がありますのでこれにて失礼します。何かありましたら、内線かカウンターまでお越しください。叫んでいただいても結構ですよ、うふふふ」
オーナーが行ってしまうと、広い食堂の中に客とママと沈黙だけが取り残された。この女性と楽しいお喋りが出来るとは思えないし、そもそも赤の他人と喋る義理がない。早く部屋に戻って荷物をまとめ、家に帰るべきだ。明日も仕事があるのだから。
仕事。この単語が脳裏をよぎると、客の気分は落ち込み、胃はキリキリと悲鳴をあげ痛み出した。そうだ、明日も仕事がある。憂鬱で辛い仕事が。こんな所で突っ立っている暇はない。
しかし、廊下に出た途端客は途方に暮れてしまった。自分の部屋がどこにあるのか分からない。仕方なしに重い足を引きずって歩き出したが、どこを見ても、延々と伸びる赤い絨毯とその後ろに秘密を隠す客室のドアしかない。
宛てもなく歩くうち、不意に微かな声を聞いた気がした。知った声だったかもしれないが、何と言ったのか分からない。いや、こんな得体のしれない所で聞こえた得体のしれない声に聞き覚えがあるはずないじゃないか。通り過ぎた扉の奥から自分を呼ぶ声がしたが、きっとそれも空耳だろう。
姿の見えない悪意に這い寄られる様に、ホテルの中を歩けば歩く程客の周囲を謎の囁き声が取り囲み、このままここに居たらおかしくなってしまうのではないかと、客は不安に襲われた。……否、違う。不安なのはおかしくなる事ではない。だんだん大きくなるこの囁きが、何と言っているか分かってしまうのが怖かった。そう思ったら最後、その妄想は客の肺を押し潰し、彼から冷静さを奪い取ってしまった。
早くここから出なければ。この囁きに捕まってしまう前に。この声がなんて言っているかなんて、知りたくない!
「ねえ、どうしたの? 迷子?」
焦燥感に苛まれていると、幼い声が背後から聞こえた。今まで見た中で一番“ありふれた”姿の少年が、パーカーのポケットに手を突っ込んで客を見上げている。中学生くらいだろうか。辺りに親らしい大人の姿は見当たらない。
「君、新しいお客さんでしょ」少年は人懐こい笑みを浮かべた。「ウサギがはしゃいでたよ。僕はシーフ、部屋まで案内したげるよ。何号室なの?」
客は呼吸を落ち着かせながら、掠れた声で答えた。
「117号室……」
「良いなあ、あの部屋、僕の部屋より温かいんだよね。羨ましい。おいで、こっちだよ」
シーフは客の横について歩幅を合わせると、無遠慮にじろじろと客を見やりながら早口にまくしたてた。
「そのネックレスは? 貰い物? 恋人から貰ったの? 良いなあ。あっ、かっこいい時計! 羨ましいね。君って素敵なものたくさん持ってる……でも、このホテルに来たって事は、あながち、素晴らしき哉人生って訳でもないのかな。ところで君、どんな夢を叶えに来たの?」
さも当たり前の様にその話題を口にした少年は、客をからかっている様には見えない。“夢を叶えるホテル。”あまりに突拍子もない言葉だと客は思った。
「さあ……」
「さあ? 自分の夢が分からないの? まあ、知らぬが仏って言葉もあるしね。あ、117号室ここだよ。良いなあ、温かそうで……。じゃあ、僕戻るね。君の夢が早く叶うと良いね。もしかしたら、叶わない方が良いかもしれないけど」
「え?」
「特に意味はないよ。じゃあね」
少年は客を部屋の中に押し込むと乱雑に扉を閉めてしまった。結局、道のりはまた覚えられなかった。
浅い眠りからふと目覚めると、見覚えのない天井が飛び込んできて、客の頭は一瞬真っ白になってしまった。それからゆっくりと、自分は今ホテルに泊まっているのだと思い出し、次いで呼吸が出来る様になった。家に帰ろうと思っていたのに、気が付けば寝てしまっていたらしい。今は一体何時なのだろうか。今更家に帰っても無駄な気がしてきた。
カバンもスーツもあるのだから、このまま一泊して出社しよう。憂鬱な気分に押し潰されながら、客は再び目を閉じようとしたのだが、目を閉じる瞬間暗い室内で影が動いたのに気が付き、わっと悲鳴をあげて飛び上がった。咄嗟に武器になりそうな物を探したが、その手が何かを掴む前に、影は慌てて暗がりから進み出て自らの正体を現した。
「驚かせてごめんなさい、私です!」
「ウ、ウサギさん……!」
「アハハ、参ったな、寝てると思ったんですけど……」
ウサギは悪戯がばれた子供の様な顔で肩を竦めて見せた。
「あ、そんなに警戒しないでくださいよ。確かに夜這いしに来ましたけど、無理やりってのは趣味じゃないんで」
客はベッドの上で固まったまま、ぽかんとウサギを見つめている。気まずい沈黙に部屋の中が支配される前に、この性別不詳の若者は懇親の取り繕う様な笑みを見せた。
「……うーん、部屋に忍び込んだ手前、信じてもらえるわけないですよね。あっそうだ、お詫びにあなたの夢を探しに行きましょう。まだ自分の夢が分からないんでしょう?」
図星をつかれて客はたじろいだ。
「ね、是非お手伝いさせて下さい。せっかくこのドリームホテルに来たんですから、夢、叶えたくありません?」
夜這いをかけられたのは引っかかるが、それにしてもこの誘いは客にとって魅力的だった。自分の夢がなんなのか知りたい、叶えられるものならば叶えたい。少なくとも、この部屋でまんじりともせず朝を迎えるよりずっと有意義な過ごし方じゃないだろうか。嫌な会社に行く前に、良い思いの一つくらいしたってバチは当たるまい。
「……分かりました」
ウサギは喜んで客の手を取ると、ホテルの中へと繰り出した。時刻はとっくに日付の変わった深夜だが、静寂の中に見えない何かの気配が蠢いていて落ち着かない。空気中に電気が満ちて、肌をピリピリ震わせる様だった。
「夢の手がかりになるものは有りませんか? 最近の出来事や、ちょっとした願望は?」
ウサギの問いに客は頭をひねった。
「……特には。最近は悪いことばかりで、仕事はきついし、恋人に浮気はされるしで……疲れちゃいましたよ」
「あなたみたいな素敵な方が居るのに浮気するなんて、最低な恋人ですね。死ねばいいのに。あれ、食堂がまだ明るい。あ、ママ、こんばんは!」
二人が食堂に入っていくと、先ほど客が見たのとまったく同じ場所に同じ様子で同じ人物が座っていた。皿のスパゲッティも同じ量だ。
「……どうも」
ママが応えた。
「ねえママ、変わった物見かけませんでした? 今、この方の夢を探してるんですよ」
ママはスパゲッティをつついて暫く黙り込んだ。
「……変な部屋を見た気がするわ……ああ、思い出すのが面倒くさい」
「本当ですか? 案内してくれません?」
「そんな面倒な事、嫌よ」
ママの眉間に微かに皺が寄った。
「……でも、ついでにあの子も探せるわね……面倒だけど、仕方ないから行くわ……」
ママの案内のもと、一行はゆっくりとした足並みで二階へと上って行った。彼女は素足で、難儀そうに一歩一歩を踏み出しながら、時折辺りを目だけで見まわしている。きっと、見つからない子供を探しているのだろう。
件の部屋の前に辿り着くと、客はその何の変哲もない扉を見つめて息をのんだ。この扉から滲み出る不快感は何だろう。開けてはいけないと本能が警告している。
散々迷ってから客が意を決して扉を開けると、中の光景に目を瞠った。ホテルの部屋ではない、会社のオフィスだ。それも自分が勤める会社のオフィスだ。日は明るく社内を照らし、同僚達が忙しく働いている。
何故ホテルの扉を開けて会社に繋がるのか客が不思議に思う前に、彼の鼓膜に激しい怒号が噛みついてきた。深夜のホテル内に雷鳴の様に轟いたその怒声の主は、奥の机で青筋を立てながら誰かに向かって喚き散らしている。
否、誰かではない。自分にだ。自分が向こうで、上司に怒鳴られているのだ。
「ここ、あなたの職場ですか?」
頭だけ室内に突っ込んで、ウサギが問いかけた。
「ああ、怒られてるのあなたですね。可哀そうに……」
ウサギの慰めなど今は耳に入らない。客の心臓はすくみ上り、彼は慌てて扉を閉めてしまった。今のは、今日会社で起きた光景だった。失敗は小さなものだったが、連日の激務で集中力が下がりミスを連発させたせいで上司の堪忍袋の緒が切れたのだ。
何故今その光景を見せつけられたのか。せっかく数時間が経ち、気持ちが落ち着いていたと言うのに。客の胃の中でどろりとした物が熱く燃えだした。それは怒りなのか、恐怖なのか、不甲斐なさなのかは分からない。ただ、はっきりと上司への憎しみだけは感じ取ることが出来る。
いっそあのまま窓から飛び降りてやりたかった、そうすれば少しは上司への当てつけになったろう。いやそれより、あの場で殴れたらどんなに良かったか。そもそも自分が疲労困憊しているのは他ならぬ上司が無茶な仕事を押し付けてくるからに他ならない。殴るどころか、殺してしまったって良いぐらいだ。もし、あそこに包丁でもあれば……。
「なんだね、今の怒鳴り声は! 何時だと思っているんだ!」
暗い妄想に浸っていた客の耳に突然朗々とした声が飛び込んできた。廊下の奥から伯爵が憤怒の形相でこちらに向かってくるではないか。どうやら先ほどの声は、最上階の彼の部屋まで届いたらしい。
「伯爵、起こしてしまってすみません」
慌ててウサギが柔和な笑みを浮かべたが、彼の機嫌を治すには足りない。伯爵は険しい表情のまま腕を組み、三人を鋭く睨み付けた。
「あのだみ声は666号室より耳障りだ。最近の若い連中は、夜中に騒いでも良いと思っているのか。信じられん」
「今のはアクシデントで……あ、そうだ伯爵、妙な物を見ませんでした? 今、この方の夢を探してるんです」
「お前らよりも妙な物は見た事がない。しかし、見慣れない部屋なら、この廊下の角に増えていたぞ」
新たな手掛かりは先ほどと同じ様に何の変哲もないドアであったが、先ほどよりも強烈に客に不快感を与えた。まるで腸が萎びていくような痛みを感じ、思わず腹部を片手でかばう。開けたくない。開けたら大変な事が起こるに違いないと確信がある。しかし、開けない訳にはいかないのだ。
客は震えながらノブに手をかけ、扉を開けた。扉の先は、驚いた事に自分のアパートの部屋だ。いつもと何も変わりない。ベッドの上に自分の親友と彼女が裸で居るのを除けば。
驚愕の表情でこちらを見やる二人と目があった瞬間、その記憶が濁流の様に脳みその中を暴れまわった。喚き散らす彼女、開き直る親友、二週間前の悪夢が再び目の前に現れ、客の心臓を凍り漬けにしてしまった。
「浮気ってまさか、真っ最中に鉢合わせしたんですか? ああ、これは可哀そうに」
固まっている客の肩を、ウサギが気遣わしげに撫でた。その声音は純粋な同情から出来上がっていたが、赤い瞳はしっかりとベッドの上の裸の男女に注がれている。と、急に双眸を細めてウサギは好色な笑みを浮かべた。
「……ああでも、美味しい状況だなあ。私だったら喜んで混ざるのになあ。これ、混ざれないかなあ……」
吐き気に負けた客が我慢できずに乱暴に扉を閉めるとウサギは残念そうにしたのだが、流石に震える彼をこれ以上打ちのめすような真似をするほど邪悪ではない。客は必死に吐き気と戦いながら、身を折って赤い絨毯を見下ろした。
信じていたのに。自慢の親友と彼女だったのに。しかも、他の友達もこの浮気について承知だったとあの後聞かされた。皆がグルになって自分の事を笑っていた。日が経ちわずかに癒え始めたはずの傷が、今のショックでまた血を流しだしていた。そう、血だ。この絨毯と同じ真っ赤な血。あの裏切り者共を切り裂けば、同じ様に血が流れるのか。そうすれば、この痛みの数分の一でも味あわせることが出来る。
あのクズに。自分を不幸にした、あの、クズ共に。
「あれあれ、皆おそろいで何やってんの?」
不意に子供の声がして、一同は廊下の奥を見やった。こんな真夜中だと言うのにシーフがこちらにやって来るのが見える。伯爵が溜息と共に口を開いた。
「こいつの夢を探しているそうだ」
「ふうん。あのさ、そのお客さんの部屋にさっき入ったんだけど」
「また人の物を盗んだんですか」
とんでもない事をさらりと言われたが、怒りで煮えたぎる脳みそにはいまいちピンとこない。シーフは肩を竦めた。
「まだ盗んでない。バッグ漁ったら、これ出てきたんだよね」
そういって持ち出したのは、廊下のライトの光を浴びて鈍く光る、包丁だった。
「僕のじゃない!」
ぎょっとして客は叫んだ。包丁なんか入れた覚えはない、入れるはずがない。
「慌てないでください、ものが出たり消えたりはしょっちゅうなので。きっとその包丁も、あなたの夢の一部なんですよ」
取り乱す客にウサギは穏やかな口調で言う。この場に自分を責める者が居ないと分かり客はほっとしたのだが、シーフに自分のバッグから出てきたと言う包丁を渡されると、またふつふつとどす黒い怒りが湧き上がってきた。
この包丁が自分の夢の一部? この包丁で一体何が出来る? ああそうだ。この包丁さえあれば、あいつらを殺してやれる。怒り、嫌悪、憐憫、好奇、様々な負の感情を孕みながら自分の名前を呼ぶあの忌々しい声を、二度と発せられなくしてやれる。
そうすればもう、辛い思いをしなくて済むんだ。
……名前を呼ばれた。今度こそ、気のせいではなく、確かにあの忌むべき声が自分の名前を呼んだ。
そう思った瞬間、客の足は走り出していた。
親友の声、彼女の声、上司の声、友達の声、それらが渦巻いて耳元で低い風の様にぼうぼうと鳴り響いている。どこだ、奴らはどこに居る。血走る目で辺りを見回し、そしてとうとう一つの扉を見つけた。その扉の奥に、無数の人の気配と声。
「見つかりましたか、あなたの夢」
全速力で走ったのに、すぐ後ろに全員が立っていた。ウサギは優しい微笑を浮かべて客を見つめている。客は黙って、包丁の柄を握り直してから静かに扉を開けた。
中は家具の一つもないがらんとした空間だったが、そこに見知った人々がひしめいていた。二度と見たくない顔が一斉に客を見つめ、ひそひそとさざ波の様に囁き声が押し寄せてくる。
今の客には、その囁きの内容がしっかりと聞き取れる。
奴らは純粋な悪意でもって、自分を嘲笑っているのだ。
「大丈夫、ここはそう言うホテルなんです」
ウサギが囁いた。
「皆の夢が叶う場所なんですよ。どれだけ醜い夢でも、誰もあなたを責めたりしない。我々は、みいんな共犯なんです。……さあ、楽しんで」
客の背中を、誰かが優しく押した。
「皆……皆、死ねばいいんだ……。無理な仕事押し付けるクソ上司! 浮気なんてする最低な恋人! お前ら、親友だと思ってたのに裏切りやがって! お前らが居るから、人生めちゃくちゃなんだ! 死ね! 死んで詫びろ! 目の前から消えてなくなれ、蛆虫! 殺してやる、ぶっ殺してやる、死ねばいいんだ!」
誰も抵抗はしなかった。手にした包丁を振るう度に、絨毯と同じ赤が噴き出し一人また一人と倒れていく。包丁を親友の首に突き立て、そのまま力任せに横に裂くと、支えられなくなった首が後ろにがくりと落ちてその傷口を広げた。一気に血が自分に襲いかかってきたが、気にせず今度は彼女を床に殴り倒し、馬乗りになって何度も胸を突き刺す。その胸に抱かれて安堵を覚えた数だけ、力を込めて。
殺戮を止める者は誰もおらず、最後の友人が絶命すると、その場に響くのは客本人の荒い呼吸だけとなった。戸口で事の成り行きを傍観しているウサギ達は、何も言わずにじっとこちらを見つめている。
終わった。全て殺し尽くした。とうとう夢を叶えたのだ。
……叶えた、はずなのだ。
なのに。
「……なんで……全然満たされない……! 夢が叶ったはずなのに、どうして……!」
予想していた達成感はまるでなく、今彼の内にあるのは虚無感と疲労だけであった。
こんなはずはない、自分の夢を叶えたのだから、もっと爽快感に包まれてしかるべきではないのか。一体どうして。
「おやおやまあまあ、随分派手に汚しましたね」
血だまりで立ち尽くしている客が顔をあげると、他の客達の中にホテルのオーナーの姿が増えているのが見えた。真っ赤になった部屋を見やり、小さく溜息を吐いている。
「オーナーさん……」
客は喘ぎながら彼に詰め寄った。
「このホテルは、夢が叶うんじゃなかったんですか? ドリームホテルじゃないんですか!?」
縋る様な客の言葉に、オーナーは笑みを浮かべた。
「あなたが満足していないのは、あなたの夢がまだ叶っていないからです」
「そんな……殺さなきゃいけない奴は全員殺しました!」
「ようくお考え下さい、あなたの夢を。本当に殺さなければいけない人間を殺しましたか? そも、何故殺したかったのでしょう?」
“何故”、殺したかったか?
「……それは……」
客は血の海に散乱する死体の山を振り返った。
「……殺せば、もう嫌な思いをしなくて済む、から……」
自分を不幸にした奴らが全員死ねば、もう辛い目に遭わなくて済む。そうだ、だから殺したかった。殺すことは手段でしかなく、目的は別にあったのだ。
自分の夢は、“これ以上不幸になりたくない。”……たったそれだけの事だった。
「なるほど、それがお客様の夢!」オーナーは緩く首を傾いだ。「しかし、今後もたくさん嫌な奴が出てきて嫌な思いをしますよね。どうするんですか、その都度殺しますか?」
そんな事不可能に決まっている。しかし、彼の言う事は事実だ。例えこれまでの不幸を精算できても、未来の不幸を防ぐ事などできはしない。これでは、夢は叶った事にならないではないか。
客が訝しげにオーナーを見つめると、彼は緩くかぶりを振って困った子供に言い聞かせる調子で言った。
「ああ、もう貴方は分かってらっしゃるはずですよ。どうやって夢を叶えたら良いのか」
初めて見た時はただの緑でしかなかったオーナーの瞳が、今、まるで底なし沼の様に深い緑へと色を変えているのに気が付いた。その沼に、自分が映りこんでいる。違う、囚われている。
「たった一人殺すだけで、貴方の夢は叶います」
抜け出せない。もがけばもがくほど沼の底へと沈められてしまう。突然客の体は金縛りにあった様に動けなくなり、血の気が引いて、ガタガタと勝手に震えだした。
「たった、一人……?」
「そう。“本当に殺さなければいけなかった一人”」
オーナーがゆっくりと口端を持ち上げた瞬間、客は、その緑の瞳の中央で禍々しい赤が燃え上がったのを見た。
「……お客さん。包丁、お腹に刺さってますよ」
その言葉を聞いた途端、突然呪縛から解放され動けるようになった客は自分を見下ろした。
先ほど振るっていた包丁が、深々と腹に刺さっている。客の目がそれを捉えた途端に、時が動き出したかの様にじわりと血が溢れだしてきた。
「……死ねば良いのは……僕……?」
掠れた声で呟くと同時に立っていられなくなった客は、そのまま血の海の中に崩れ落ちた。無数の人々の血で出来上がった水面に自分の血がどんどんと吸い込まれていくのを、目を見開いて眺める。ようやく脳が現実を理解すると、燃える様な痛みが腹部を貫き、ひいひいと情けない声が漏れた。
「おめでとうございます、夢が叶いましたね! 死んじゃえばこれ以上不幸になりませんからね! なんと合理的! いやあめでたい!」
頭上でオーナーが手を叩きながら笑っている。他の誰も、客を助けようとする素振りさえ見せず、血だまりでのた打ち回る彼を見下ろしていた。
「ま、待って、死にたくない……! 違う、僕はただ、不幸になりたくなかっただけだ……っ!」
客の目から涙があふれた。
「お願いだから、誰か、助けて……死にたくない、死にたくない……!」
視界が霞み、急速に体温が失われていくのと一緒に、不幸に見舞われ涙する未来も、幸運に恵まれ微笑む未来も失われていくのが分かった。死だ。無だ。自分を形成する全てのものが、虚無に吸い込まれていく……。
「残念ですがお客様、不幸になりたくないと、幸せになりたいってのは、全然別物で御座います。夢を持つのは、計画的にどうぞ」
客が最後に見たのは、オーナーのぞっとする程深い緑の瞳だった。彼の意識はそのままその沼に沈み、そして二度と浮上することは無かった。
その場に静寂が訪れたが、それはほんの一瞬の事だった。オーナーが血肉と死体で溢れる部屋を見て大きな溜息を吐きかけたところで、後ろから鎖の音が現れたのだ。
「……良い匂い。お腹すいた、ああ、お肉がいっぱいだ……」
ステーキは鼻をひくつかせながら、鉄の匂いを胸いっぱいに吸い込んで光悦とした表情を浮かべた。
「ねえ、これ、食べても良い?」
オーナーがステーキの頭を殴ろうとした瞬間、シーフがのんきな声を出してその手を止めた。
「良いじゃん。ここの片付けステーキにやらせちゃえば?」
「名案だ。これだけの死体を掃除するのは大変だぞ。使用人の一人も雇えん貧乏だから、こうなるのだ」
少年の言葉に伯爵も続いたものだから、オーナーの振り上げた手は行き場を失い、彼は何度か口をパクパクさせて苦しげに呻いた。確かに、ホテルで働いている者はオーナー以外におらずこの死体の山を掃除するのは間違いなく自分だ。仕事の量は少ない越したことは無い。
「……分かりましたよ」
暫く考え込んだ後、オーナーは唸った。
「でも、後で鎖を巻くの、手伝って下さいね!」
「私は面倒だから帰るわ。ああ、歩いて帰るのが面倒……」
一足先にふらふらとその場を去るママを見送る者はなく、残された四人は血の海に裸足で入り、切り裂かれた死体に顔を近づけて体を揺らしているステーキを見つめていた。
「お腹すいたなあ、ちょっとだけでも齧らせてくれないかなあ……」
「ステーキ、こっちに来い」
心底嫌そうな声でオーナーが青年を呼んだ。
「特別に食わせてやるから、跡形もなく綺麗にするんだぞ」
その言葉が聞こえた瞬間、ぼんやりとしていたステーキの瞳が見開かれ、浅ましい希望の光によって灰色のそれがギラリと刃物じみた輝きを放った。
「良いの……? 本当に? 食べても良いの……?」
喜びに打ち震え声が上ずっている。熱っぽい視線でオーナーを見上げた後、くるりと背を向けて後頭部についている南京錠を晒した。
「ああ、残さずな」
南京錠に差しっぱなしの鍵をオーナーの長い指が回した。カチリと高い金属音が聞こえたが、その余韻は荒いステーキの呼吸でかき消されてしまう。彼は興奮で身を揺すりながらジャラジャラとほどけ落ちていく鎖を見下ろしていたが、とうとう我慢できずに両手で首元に落ちた鎖をひっつかむと、渾身の力で引っ張って床へと叩き落としてしまった。
「……ステエエエエキイイイイイ……」
地を這うような低い声が、熱い呼気と一緒に口から吐き出された。ステーキは解放された口を最大まで開いて笑うと、ぎょろりと血走った眼を自らの御馳走に向け、獣の様な雄叫びを上げて一気に食らいついた。ゲラゲラと引き攣った笑い声をあげながら、髪を振り乱して人だったものにかぶりつく姿は、まさに獣そのものだ。死体のはらわたに頭を突っ込み、彼は口を血と内臓で汚しながら歓喜に絶叫した。
「ご飯ご飯ご飯だご飯ヒャッハハハステエエエエキイイイ! 全部俺のだ全部全部全部、頭から足からバリバリ食ってやるんだ、腹が減って死にそうもう駄目だ食べる食べる食べる! アッハハハハハ!」
伯爵とシーフとウサギはおぞましいその姿から目を離すと、食べ終わるまで部屋の外で待とうと出ていった。死体はまだたっぷりと残っている。長い晩餐となるだろう。
オーナーも彼らに続こうと一歩踏み出したのだが、ふと足元に転がる客だったものに気が付くと、その首元で光るものを見つけて身をかがめて覗き込んだ。
「おっと、良いネックレスだな……。イニシャル入り、恋人からのもらい物かな」
勿論、その恋人とやらにこの客は浮気されたわけだが。鼻で笑いながらオーナーはそのネックレスを死体から千切り取ると、そのままポケットに忍ばせてしまった。
「ま、こんな小さな物が愛情の証明になる訳でもなし、チップとして頂きますね、お客さん。うふふふ」
「退屈だなあ」
不必要なまでに豪奢な飾りを施されたサロンのふかふかのソファに寝転がりながら、シーフはあくびを一つそうぼやいた。あの客が死んでから数日、新しい客がやって来る気配はない。同じくサロンに集まっている他の客達は、シーフの独り言をぼんやりと聞きながら各々くつろいでいた。
「それでいいのよ、何か起きたら面倒でしょ……」
ぐったりとソファに寄りかかるママの言葉に、シーフは不貞腐れた顔になる。腕に抱えたポテトチップスの袋に手を突っ込むと、一枚取り出して足元のステーキの眼前でちらつかせた。
「だってステーキをからかうの飽きたんだもん」
「じゃあからかわないでよ、シーフ……ねえ、ちょうだい、一枚で良いからちょうだいよ……酷い事しないで……」
再び鎖を巻かれ、力のなくなったステーキは目の前のポテトチップスを手に入れる気力さえ封印されてしまった。そのやり取りを見て、伯爵が呆れ返った声を出す。
「卑しい遊びをするんじゃない、みっともない」
叱られたシーフがやはり不貞腐れた顔でそのポテトチップスを口に放り込んだ瞬間、地の底から突然化け物の様な恐ろしい叫び声が響き渡り、ホテル中を揺らしてその場に居る全員を飛び上がらせた。ステーキは悲鳴をあげて頭を抱え、涙目になる始末だ。
「666号室が起きた、666号室が起きた……!」
揺れが収まり、身の毛もよだつ咆哮の余韻が消えると、ようやく全員は体の力を抜いてほっと一息ついた。あの地下に君臨するモンスターは、いつだって突然に目覚めるのだ。監禁している部屋の扉の無事を祈るしかない。
足早にウサギがサロンに入ってきた。その表情からするに、ウサギも今の一撃で肝をつぶしたらしい。
「ねえ皆さん、今の聞こえました? 666号室久しぶりに起きましたね」
「怖い、怖い、怖い、怖い……」
ガタガタ震えるステーキに近づくと、ウサギは背骨の浮きあがったその背中を慰める様に撫でてやった。
「ウサギ、見て来てちょうだい」
と、ママが面倒くさそうに呟く。
「冗談でしょ、私は死にたくないですよ」
あの暗い地下まで下りて様子を見てくるなんて。万一何かあれば、生きていられる保証はないのだから。
「でもオーナーは行くまいよ」
と伯爵。
「他の人に行かせればいいんです」
ウサギが赤い目を細めて口端を釣り上げると、ソファから起き上がったシーフが身を乗り出した。
「もしかして新しいお客さん来たの? 先に顔見るなんてずるいよ、どんな人だった?」
柔らかい声に、妖しい楽しみが滲んだ。
「面白い夢を持ってそうでしたよ」
「いらっしゃいませお客様、ドリームホテルへようこそ! お待ちしておりましたよ、さあこちらへ。当ホテルはお客様の夢が叶う素敵な場所で御座います。夢が全て良い物とは、限りませんけどね。んふふふ……」
気が付けば、目の前にそのホテルは建っていた
確か、家に帰る途中だった
どうやってここに来たかも覚えていない
見た事のない景色、立ち上る腐敗臭
遠くで渦巻く風の音が、誰かの悲鳴に聞こえた
危ないと頭では分かっているのに
薄気味の悪いこの建物の扉を
どうして開いてしまったのか……
「いらっしゃいませお客様、ドリームホテルへようこそ! お待ちしておりましたよ、さあさ、こちらへこちらへ!」
その建物の中に足を踏み入れた途端、明るい声と胡散臭い笑顔が目の前に飛び出してきた。
上等なスーツを着込み、しっかりと黒髪を撫でつけて身綺麗にしてはいるものの、バロック調で統一された古ぼけた内装の中に立っていては、その現代的な身綺麗さはかえって違和感を覚えさせた。足元に延々と広がる暗い赤の絨毯は、一体どれほど長い間靴底に踏みつけられてきたのだろう。天井の隅には蜘蛛の巣が張っているし、カウンターには大きな傷がついている(不思議な事に、その傷跡は歯形に見えた)。
確かにそこは、かつての栄光の名残を残す古いホテルであった。広いエントランスホールをぐるりと見渡す。全くもって見覚えのない場所だ。
「お荷物お運びいたしますね」
目の前の男は意気揚々と言って、カバンをさっと取り上げた。と言うよりひったくった。
「あ、記帳は結構ですよ。もうお名前は頂いてますから」
そんなはずはない。意図せず客となった男は、ホテルは勿論、他のどこにも予約なんてしていないのだから。そもそも、男はつい先ほどまで家路を歩いていたはずだった。何故今、自分のアパートではなくこんなホテルに居るのか、まるで訳が分からなかった。
「あの、何かの間違いでしょう。僕、予約なんて……」
自分の荷物を持ってさっさと歩きだしてしまった男を追いかけると、彼はくるりとこちらを振り返って、爬虫類を思わせる笑みを見せてきた。
「随分前からご予約されておりましたよ。とうとうお越しくださいましたね、いやあめでたい! どうぞ好きなだけ夢を叶えていってください!」
「は、夢……?」
素っ頓狂な客の声に、男は笑みを濃くした。
「ここは夢のホテル。お客様の夢が何でも叶う場所です。まあ、夢が全て素敵な物であるとは限りませんが……とにかく、お客様の様に秘めた欲望をお持ちの方が、思う存分羽を伸ばして頂ける場所で御座います。お代は少々高くなりますがね」
男は扉の一つを開けると、中へと入って荷物を下ろした。ベッド、クローゼット、書き物机も兼ねた鏡台。それしかない酷く質素な部屋だ。汚い訳ではないのだが、客人をもてなそうと言う気持ちはどこにも見受けられない。
「あ、申し遅れました。わたくし、当ホテルのオーナーをしております。何か御座いましたらどんな小さな事でも結構ですので、何なりと御用命を。特別料金にて誠心誠意対応させて頂きます」
さっと名刺を差し出され咄嗟に受け取ってしまった客は、その黒い紙切れを見下ろしながら与えられた情報で現状を理解しようとした。夢を叶えるホテル? なんでそんな胡散臭い所に、自分は予約をした事になっているのだろう。早く家に帰らなければ、明日も仕事があると言うのに……。
「あ、みいつけた」
突然後ろから柔らかい声がかかった。扉の方を見やれば、開きっぱなしのそこに一人の人間が立っている。緩やかに跳ねる短い髪に、柔和な顔立ちを一層穏やかに見せるたれ目、低くもなく高くもない落ち着いたトーンの声と、ユニセックスな服。何一つとして新しく現れたこの人物の性別を示してくれるものは無く、客は二、三度目を瞬かせて、彼、あるいは彼女を見つめた。
「こら、向こうに行ってなさい、ウサギ!」オーナーが眉根を寄せた。「お客様は到着されたばかりなんだぞ!」
呼び名からも性別が判断できなかったその人物――ウサギは、さっと室内に入り込むと流れる様な動作で客と握手を済ませていた。
「私、301号室のウサギです。あなたみたいな素敵なお客さんが来たの久しぶりなんですよ、嬉しいなあ」
細められた赤い瞳を縁取る長いまつげを半ば魅入られた様にぼんやり客が眺めていると、握り合った二人の手をオーナーがさっと離し、そのままウサギの背中を扉に向かって無遠慮に突き飛ばした。
「やめないか! お客様、ウサギには十分お気を付け下さい。言い寄られても、決して相手にしないよう」
「酷いですねオーナー。私が何をしたって言うんです」
「前回のお客様を干からびさせたじゃないか」
「あれは、あの人の体力が無かったからいけないんですよ。でも、今回の方はタフそうだし……楽しみ」
ウサギは妖しく目を細めて客に一瞥をくれた後、手を振って部屋から出ていった。去り際に「期待してますよ」と意味深な言葉を放られたのだが、その言葉をどう受け止めるべきか分からない。女ならまだしも、男だったらどうしよう。
「失礼致しました。さ、食堂にご案内致しましょう」
呆然としていた客はオーナーの言葉で我に返り、促されるまま後に続いて部屋を出た。赤い絨毯がどこまでも伸びている様は、白昼夢じみたうすら寒さを与えてくる。廊下自体は狭くないのに、両脇に立ち並ぶ無数の扉のせいで無性に圧迫感を覚えた。その向こうに、はたして自分と同じ様に客が居るのだろうか。声に出さないその問いに答える様に、客の耳に微かに呻き声が届いたが、どの部屋から漏れ聞こえたのかは分からない。もしかしたら、空耳だったのかもしれない。少なくとも客の数歩先を歩くオーナーは、何の反応も示さなかった。
まるで同じ景色を歩いていたかと思えば、急に妙なドアや廊下が現れては消えていった。訳の分からない絵画も何枚か通り過ぎ、むっとする悪臭を二度ほど嗅いだ後に、ようやくオーナーは立ち止まって扉のない大きな入口を片手で示した。全く道順は覚えられなかった。
「食堂で御座います。あそこの厨房に居るシェフに声をかけて頂ければ、お望みの物をお作り致します」
がらんとした食堂は無人のテーブルと椅子が墓石の様に立ち並び、一組の男女が座っているだけだった。ここもまた古びた高級感を身にまとって取り繕おうとしているものの、厨房と紹介された場所が真っ暗である異質さをカバーできてはいない。カウンターの奥に広がる暗闇を客が見つめていると、それを察したオーナーが口を開いた。
「シェフのこだわりで電気は点けてないんです。大丈夫ですよ、ちゃんと中に居ますから。……おや、ママ、伯爵!」
客は、ママと呼ばれた女性がネグリジェ姿だと言う事に近づいて初めて気が付きぎょっとしたのだが、他の男性二人は彼女の服装になんら疑問を抱いていない様子だった。彼女の顔には美貌の面影が見えたけれど、光を失った瞳を飾る目の下のクマの方が今では目につく。髪はボサボサでどれくらい櫛を入れていないのか分からず、シミとシワだらけのネグリジェも相まってまるで浮浪者の様だった。
伯爵と呼ばれた男性は、ママとは正反対に随分と上等なスーツをしっかり着込み、てらてらと輝くシルクハットまで被って、まるでどこかのパーティにでも出席する様な完璧な出で立ちだった。厳格そうな顔に刻まれた皺は、その年齢以上に彼の人格を表し、手入れの行き届いた口髭がきゅっと一文字に結ばれた口を囲んでいる。
「こんばんは、オーナー」
と、その立派な恰幅に似合った低い声で伯爵。
「どうも……」
と、その細い体に似合ったか細い声でママ。
オーナーは言葉を失っている客を引き寄せると、二人に向かってにっこりと微笑みかけた。
「二人とも、新しいお客様ですよ」
伯爵は目礼だけをくれ、ママは客を見もせず目の前のスパゲッティに視線を落としている。どうにか「こんばんは」と客が返事をすると、伯爵が体ごと客に向き直り、値踏みでもするような目つきで眺めてきた。
「新人君はどこの部屋なんだね?」
「117号室ですよ」
オーナーの言葉を聞くや、伯爵は口髭を揺らしてせせら笑った。
「あの小汚い部屋か。まあ君の様な身形の人間には似合いの部屋だがね」
「伯爵、おやめ下さい。到着されたばかりのお客様に」
「癪に障ったのなら、それなりの人間になれば良いだけの話だ、私の様にね。私は最上階のスイートルームを貸し切っているのだ。他の部屋は考えられん」
「伯爵はお金持ちでいらっしゃいますからね。さて、お客様、何かお食べになりますか?」
「あの、お腹はすいていないので……」
仕切り直しとばかりに笑顔を向けられ、客は慌てて首を横に振った。本当に空腹ではなかったのだが、気遣いからか商売根性からか、オーナーはずいっと笑顔を近づけてくる。
「せっかくですから、何か軽食でも。シェフの料理は美味しいんですよ。ですよね、ママ?」
「……そうね……」
そこでようやく、オーナーと客は彼女がつついているスパゲティがカラカラに干からび切っているのに気が付いた。
「……ママ、そのスパゲッティ干からびてませんか? いつから食べてるんです?」
「昨日の晩よ……」
スパゲッティと同じ位干からびた声で彼女は答えた。
「ああ、ご飯食べるの面倒くさい……あの子はどこに行ったのかしら……。ねえ、あなた、私の子供を見なかった? 困ったわ……」
深く溜息を吐くママになんと返答したものか困っていると、そっとオーナーが客の耳元に顔を寄せて囁いた。
「お客様、ママの事は大目に見てあげてください。実はお子さんを亡くされて、全てに無気力になっているのです。本人はお子さんが死んでしまった事に気づいていません。……あるいは、気づいていないふりをしているのか」
最後は殊更声を低くしたオーナーから、疲れたと小さく繰り返すママへ視線を移す。人形よりも表情の乏しいその顔から、彼女の考えを読み取ることは不可能だった。
「哀れなりだな」
伯爵はそう言い放つと、椅子から立ち上がった。ジャケットの襟をただし、シワ一つないそれを一撫ですると、背筋を伸ばしてオーナーと客に向き直る。
「では、私はスイートルームに戻るとしよう。君の夢が何かは知らんが、せいぜい楽しめると良いな。ごきげんよう」
その“ごきげんよう”は恐らく三人に向けられたものだったのだが、結局返事をしたのはオーナーだけだった。
オーナーはそのままカウンターへ向かうと、先ほどの客の意向は無視して勝手に注文しようと口を開いた。しかし、何か言うより先に厨房の暗闇の中に浮かび上がる一筋の光を見つけて口を閉じる。それは、冷蔵庫の光だった。
「誰だ、冷蔵庫を漁っているのは!」
鋭い声に射抜かれて、冷蔵庫の下で蹲っていた影がびくりと揺れた。影はフラフラと揺れ、揺れる度に高い金属音がジャラジャラと続く。その音にまぎれて呻き声が聞こえてきた。
「お腹すいた……お腹すいた……」
「ステーキ! 離れろ、この卑しん坊め!」
その声を聞いた途端、オーナーはカウンターを乗り越えてその影の首根っこをつかまえ、明るい食堂へと引きずり出してしまった。ステーキと呼ばれたその人間は、この騒ぎでも微動だにしないママよりも異様な姿であった。恐らく元は拘束衣だったろう襤褸を身に着け、そこから覗く四肢と首が病的なほどに痩せ細っている。肌の色も悪く、伸びっぱなしのボサボサの黒髪も相まって、子供が誰の手も借りず初めて作った人形の様な歪さを醸し出していた。しかし何より異様なのは、彼の口元が太い鎖で何重にもぐるぐる巻きにされていた事だった。これが、動くたびにジャラジャラと鳴るのだ。
「うう、何か食べさせて……お願い、何か食べさせて……」
ステーキが鎖の隙間から再び呻くと、オーナーは枯れ枝の様なその腕を乱暴に引っ張った。
「部屋に閉じ込めておいたのに、まったく! ああ、すいませんね、お客様。目を離すと部屋から抜け出して食べ物を探す困った奴なんです」
「新しいお客さん? 君、何か食べ物持ってない……?」
ぎょろりとしたステーキの瞳とかち合った瞬間、客の背筋を悪寒が走った。「ない」と答えたら一体自分はどんな目に遭うのだろうと疑わずにはいられない狂気の灯る瞳。その一瞬客は、鎖の下に潜むこの男の歯が化け物のように鋭く尖っている妄想に憑りつかれた。
「やめないか、みっともない!」
有難い事に、オーナーが再びステーキの腕を引いて助け船を出してくれた。ステーキは痛みに悲痛な声をあげた後、収穫は見込めないと判断したのか、ひび割れた爪の並ぶ裸足でゆっくりと歩き出し、ぶつぶつと低い呟きと鎖の鳴る音を従えて、そのまま食堂を去って行った。
「あの、何か食べさせてあげれば……?」
彼の狂気が和らぐのならと、客は恐る恐る提案する。しかしオーナーは頑として譲らなかった。
「同情してはいけません。ステーキは食べだしたら最後、永遠に食べ続ける大食漢なのです。以前、ホテル中の食べ物を食べつくし、他のお客様まで食べ始めたので、ああして口を鎖でグルグル巻きにして封印したのです。あれは当然の報いです。……さて、私は仕事がありますのでこれにて失礼します。何かありましたら、内線かカウンターまでお越しください。叫んでいただいても結構ですよ、うふふふ」
オーナーが行ってしまうと、広い食堂の中に客とママと沈黙だけが取り残された。この女性と楽しいお喋りが出来るとは思えないし、そもそも赤の他人と喋る義理がない。早く部屋に戻って荷物をまとめ、家に帰るべきだ。明日も仕事があるのだから。
仕事。この単語が脳裏をよぎると、客の気分は落ち込み、胃はキリキリと悲鳴をあげ痛み出した。そうだ、明日も仕事がある。憂鬱で辛い仕事が。こんな所で突っ立っている暇はない。
しかし、廊下に出た途端客は途方に暮れてしまった。自分の部屋がどこにあるのか分からない。仕方なしに重い足を引きずって歩き出したが、どこを見ても、延々と伸びる赤い絨毯とその後ろに秘密を隠す客室のドアしかない。
宛てもなく歩くうち、不意に微かな声を聞いた気がした。知った声だったかもしれないが、何と言ったのか分からない。いや、こんな得体のしれない所で聞こえた得体のしれない声に聞き覚えがあるはずないじゃないか。通り過ぎた扉の奥から自分を呼ぶ声がしたが、きっとそれも空耳だろう。
姿の見えない悪意に這い寄られる様に、ホテルの中を歩けば歩く程客の周囲を謎の囁き声が取り囲み、このままここに居たらおかしくなってしまうのではないかと、客は不安に襲われた。……否、違う。不安なのはおかしくなる事ではない。だんだん大きくなるこの囁きが、何と言っているか分かってしまうのが怖かった。そう思ったら最後、その妄想は客の肺を押し潰し、彼から冷静さを奪い取ってしまった。
早くここから出なければ。この囁きに捕まってしまう前に。この声がなんて言っているかなんて、知りたくない!
「ねえ、どうしたの? 迷子?」
焦燥感に苛まれていると、幼い声が背後から聞こえた。今まで見た中で一番“ありふれた”姿の少年が、パーカーのポケットに手を突っ込んで客を見上げている。中学生くらいだろうか。辺りに親らしい大人の姿は見当たらない。
「君、新しいお客さんでしょ」少年は人懐こい笑みを浮かべた。「ウサギがはしゃいでたよ。僕はシーフ、部屋まで案内したげるよ。何号室なの?」
客は呼吸を落ち着かせながら、掠れた声で答えた。
「117号室……」
「良いなあ、あの部屋、僕の部屋より温かいんだよね。羨ましい。おいで、こっちだよ」
シーフは客の横について歩幅を合わせると、無遠慮にじろじろと客を見やりながら早口にまくしたてた。
「そのネックレスは? 貰い物? 恋人から貰ったの? 良いなあ。あっ、かっこいい時計! 羨ましいね。君って素敵なものたくさん持ってる……でも、このホテルに来たって事は、あながち、素晴らしき哉人生って訳でもないのかな。ところで君、どんな夢を叶えに来たの?」
さも当たり前の様にその話題を口にした少年は、客をからかっている様には見えない。“夢を叶えるホテル。”あまりに突拍子もない言葉だと客は思った。
「さあ……」
「さあ? 自分の夢が分からないの? まあ、知らぬが仏って言葉もあるしね。あ、117号室ここだよ。良いなあ、温かそうで……。じゃあ、僕戻るね。君の夢が早く叶うと良いね。もしかしたら、叶わない方が良いかもしれないけど」
「え?」
「特に意味はないよ。じゃあね」
少年は客を部屋の中に押し込むと乱雑に扉を閉めてしまった。結局、道のりはまた覚えられなかった。
浅い眠りからふと目覚めると、見覚えのない天井が飛び込んできて、客の頭は一瞬真っ白になってしまった。それからゆっくりと、自分は今ホテルに泊まっているのだと思い出し、次いで呼吸が出来る様になった。家に帰ろうと思っていたのに、気が付けば寝てしまっていたらしい。今は一体何時なのだろうか。今更家に帰っても無駄な気がしてきた。
カバンもスーツもあるのだから、このまま一泊して出社しよう。憂鬱な気分に押し潰されながら、客は再び目を閉じようとしたのだが、目を閉じる瞬間暗い室内で影が動いたのに気が付き、わっと悲鳴をあげて飛び上がった。咄嗟に武器になりそうな物を探したが、その手が何かを掴む前に、影は慌てて暗がりから進み出て自らの正体を現した。
「驚かせてごめんなさい、私です!」
「ウ、ウサギさん……!」
「アハハ、参ったな、寝てると思ったんですけど……」
ウサギは悪戯がばれた子供の様な顔で肩を竦めて見せた。
「あ、そんなに警戒しないでくださいよ。確かに夜這いしに来ましたけど、無理やりってのは趣味じゃないんで」
客はベッドの上で固まったまま、ぽかんとウサギを見つめている。気まずい沈黙に部屋の中が支配される前に、この性別不詳の若者は懇親の取り繕う様な笑みを見せた。
「……うーん、部屋に忍び込んだ手前、信じてもらえるわけないですよね。あっそうだ、お詫びにあなたの夢を探しに行きましょう。まだ自分の夢が分からないんでしょう?」
図星をつかれて客はたじろいだ。
「ね、是非お手伝いさせて下さい。せっかくこのドリームホテルに来たんですから、夢、叶えたくありません?」
夜這いをかけられたのは引っかかるが、それにしてもこの誘いは客にとって魅力的だった。自分の夢がなんなのか知りたい、叶えられるものならば叶えたい。少なくとも、この部屋でまんじりともせず朝を迎えるよりずっと有意義な過ごし方じゃないだろうか。嫌な会社に行く前に、良い思いの一つくらいしたってバチは当たるまい。
「……分かりました」
ウサギは喜んで客の手を取ると、ホテルの中へと繰り出した。時刻はとっくに日付の変わった深夜だが、静寂の中に見えない何かの気配が蠢いていて落ち着かない。空気中に電気が満ちて、肌をピリピリ震わせる様だった。
「夢の手がかりになるものは有りませんか? 最近の出来事や、ちょっとした願望は?」
ウサギの問いに客は頭をひねった。
「……特には。最近は悪いことばかりで、仕事はきついし、恋人に浮気はされるしで……疲れちゃいましたよ」
「あなたみたいな素敵な方が居るのに浮気するなんて、最低な恋人ですね。死ねばいいのに。あれ、食堂がまだ明るい。あ、ママ、こんばんは!」
二人が食堂に入っていくと、先ほど客が見たのとまったく同じ場所に同じ様子で同じ人物が座っていた。皿のスパゲッティも同じ量だ。
「……どうも」
ママが応えた。
「ねえママ、変わった物見かけませんでした? 今、この方の夢を探してるんですよ」
ママはスパゲッティをつついて暫く黙り込んだ。
「……変な部屋を見た気がするわ……ああ、思い出すのが面倒くさい」
「本当ですか? 案内してくれません?」
「そんな面倒な事、嫌よ」
ママの眉間に微かに皺が寄った。
「……でも、ついでにあの子も探せるわね……面倒だけど、仕方ないから行くわ……」
ママの案内のもと、一行はゆっくりとした足並みで二階へと上って行った。彼女は素足で、難儀そうに一歩一歩を踏み出しながら、時折辺りを目だけで見まわしている。きっと、見つからない子供を探しているのだろう。
件の部屋の前に辿り着くと、客はその何の変哲もない扉を見つめて息をのんだ。この扉から滲み出る不快感は何だろう。開けてはいけないと本能が警告している。
散々迷ってから客が意を決して扉を開けると、中の光景に目を瞠った。ホテルの部屋ではない、会社のオフィスだ。それも自分が勤める会社のオフィスだ。日は明るく社内を照らし、同僚達が忙しく働いている。
何故ホテルの扉を開けて会社に繋がるのか客が不思議に思う前に、彼の鼓膜に激しい怒号が噛みついてきた。深夜のホテル内に雷鳴の様に轟いたその怒声の主は、奥の机で青筋を立てながら誰かに向かって喚き散らしている。
否、誰かではない。自分にだ。自分が向こうで、上司に怒鳴られているのだ。
「ここ、あなたの職場ですか?」
頭だけ室内に突っ込んで、ウサギが問いかけた。
「ああ、怒られてるのあなたですね。可哀そうに……」
ウサギの慰めなど今は耳に入らない。客の心臓はすくみ上り、彼は慌てて扉を閉めてしまった。今のは、今日会社で起きた光景だった。失敗は小さなものだったが、連日の激務で集中力が下がりミスを連発させたせいで上司の堪忍袋の緒が切れたのだ。
何故今その光景を見せつけられたのか。せっかく数時間が経ち、気持ちが落ち着いていたと言うのに。客の胃の中でどろりとした物が熱く燃えだした。それは怒りなのか、恐怖なのか、不甲斐なさなのかは分からない。ただ、はっきりと上司への憎しみだけは感じ取ることが出来る。
いっそあのまま窓から飛び降りてやりたかった、そうすれば少しは上司への当てつけになったろう。いやそれより、あの場で殴れたらどんなに良かったか。そもそも自分が疲労困憊しているのは他ならぬ上司が無茶な仕事を押し付けてくるからに他ならない。殴るどころか、殺してしまったって良いぐらいだ。もし、あそこに包丁でもあれば……。
「なんだね、今の怒鳴り声は! 何時だと思っているんだ!」
暗い妄想に浸っていた客の耳に突然朗々とした声が飛び込んできた。廊下の奥から伯爵が憤怒の形相でこちらに向かってくるではないか。どうやら先ほどの声は、最上階の彼の部屋まで届いたらしい。
「伯爵、起こしてしまってすみません」
慌ててウサギが柔和な笑みを浮かべたが、彼の機嫌を治すには足りない。伯爵は険しい表情のまま腕を組み、三人を鋭く睨み付けた。
「あのだみ声は666号室より耳障りだ。最近の若い連中は、夜中に騒いでも良いと思っているのか。信じられん」
「今のはアクシデントで……あ、そうだ伯爵、妙な物を見ませんでした? 今、この方の夢を探してるんです」
「お前らよりも妙な物は見た事がない。しかし、見慣れない部屋なら、この廊下の角に増えていたぞ」
新たな手掛かりは先ほどと同じ様に何の変哲もないドアであったが、先ほどよりも強烈に客に不快感を与えた。まるで腸が萎びていくような痛みを感じ、思わず腹部を片手でかばう。開けたくない。開けたら大変な事が起こるに違いないと確信がある。しかし、開けない訳にはいかないのだ。
客は震えながらノブに手をかけ、扉を開けた。扉の先は、驚いた事に自分のアパートの部屋だ。いつもと何も変わりない。ベッドの上に自分の親友と彼女が裸で居るのを除けば。
驚愕の表情でこちらを見やる二人と目があった瞬間、その記憶が濁流の様に脳みその中を暴れまわった。喚き散らす彼女、開き直る親友、二週間前の悪夢が再び目の前に現れ、客の心臓を凍り漬けにしてしまった。
「浮気ってまさか、真っ最中に鉢合わせしたんですか? ああ、これは可哀そうに」
固まっている客の肩を、ウサギが気遣わしげに撫でた。その声音は純粋な同情から出来上がっていたが、赤い瞳はしっかりとベッドの上の裸の男女に注がれている。と、急に双眸を細めてウサギは好色な笑みを浮かべた。
「……ああでも、美味しい状況だなあ。私だったら喜んで混ざるのになあ。これ、混ざれないかなあ……」
吐き気に負けた客が我慢できずに乱暴に扉を閉めるとウサギは残念そうにしたのだが、流石に震える彼をこれ以上打ちのめすような真似をするほど邪悪ではない。客は必死に吐き気と戦いながら、身を折って赤い絨毯を見下ろした。
信じていたのに。自慢の親友と彼女だったのに。しかも、他の友達もこの浮気について承知だったとあの後聞かされた。皆がグルになって自分の事を笑っていた。日が経ちわずかに癒え始めたはずの傷が、今のショックでまた血を流しだしていた。そう、血だ。この絨毯と同じ真っ赤な血。あの裏切り者共を切り裂けば、同じ様に血が流れるのか。そうすれば、この痛みの数分の一でも味あわせることが出来る。
あのクズに。自分を不幸にした、あの、クズ共に。
「あれあれ、皆おそろいで何やってんの?」
不意に子供の声がして、一同は廊下の奥を見やった。こんな真夜中だと言うのにシーフがこちらにやって来るのが見える。伯爵が溜息と共に口を開いた。
「こいつの夢を探しているそうだ」
「ふうん。あのさ、そのお客さんの部屋にさっき入ったんだけど」
「また人の物を盗んだんですか」
とんでもない事をさらりと言われたが、怒りで煮えたぎる脳みそにはいまいちピンとこない。シーフは肩を竦めた。
「まだ盗んでない。バッグ漁ったら、これ出てきたんだよね」
そういって持ち出したのは、廊下のライトの光を浴びて鈍く光る、包丁だった。
「僕のじゃない!」
ぎょっとして客は叫んだ。包丁なんか入れた覚えはない、入れるはずがない。
「慌てないでください、ものが出たり消えたりはしょっちゅうなので。きっとその包丁も、あなたの夢の一部なんですよ」
取り乱す客にウサギは穏やかな口調で言う。この場に自分を責める者が居ないと分かり客はほっとしたのだが、シーフに自分のバッグから出てきたと言う包丁を渡されると、またふつふつとどす黒い怒りが湧き上がってきた。
この包丁が自分の夢の一部? この包丁で一体何が出来る? ああそうだ。この包丁さえあれば、あいつらを殺してやれる。怒り、嫌悪、憐憫、好奇、様々な負の感情を孕みながら自分の名前を呼ぶあの忌々しい声を、二度と発せられなくしてやれる。
そうすればもう、辛い思いをしなくて済むんだ。
……名前を呼ばれた。今度こそ、気のせいではなく、確かにあの忌むべき声が自分の名前を呼んだ。
そう思った瞬間、客の足は走り出していた。
親友の声、彼女の声、上司の声、友達の声、それらが渦巻いて耳元で低い風の様にぼうぼうと鳴り響いている。どこだ、奴らはどこに居る。血走る目で辺りを見回し、そしてとうとう一つの扉を見つけた。その扉の奥に、無数の人の気配と声。
「見つかりましたか、あなたの夢」
全速力で走ったのに、すぐ後ろに全員が立っていた。ウサギは優しい微笑を浮かべて客を見つめている。客は黙って、包丁の柄を握り直してから静かに扉を開けた。
中は家具の一つもないがらんとした空間だったが、そこに見知った人々がひしめいていた。二度と見たくない顔が一斉に客を見つめ、ひそひそとさざ波の様に囁き声が押し寄せてくる。
今の客には、その囁きの内容がしっかりと聞き取れる。
奴らは純粋な悪意でもって、自分を嘲笑っているのだ。
「大丈夫、ここはそう言うホテルなんです」
ウサギが囁いた。
「皆の夢が叶う場所なんですよ。どれだけ醜い夢でも、誰もあなたを責めたりしない。我々は、みいんな共犯なんです。……さあ、楽しんで」
客の背中を、誰かが優しく押した。
「皆……皆、死ねばいいんだ……。無理な仕事押し付けるクソ上司! 浮気なんてする最低な恋人! お前ら、親友だと思ってたのに裏切りやがって! お前らが居るから、人生めちゃくちゃなんだ! 死ね! 死んで詫びろ! 目の前から消えてなくなれ、蛆虫! 殺してやる、ぶっ殺してやる、死ねばいいんだ!」
誰も抵抗はしなかった。手にした包丁を振るう度に、絨毯と同じ赤が噴き出し一人また一人と倒れていく。包丁を親友の首に突き立て、そのまま力任せに横に裂くと、支えられなくなった首が後ろにがくりと落ちてその傷口を広げた。一気に血が自分に襲いかかってきたが、気にせず今度は彼女を床に殴り倒し、馬乗りになって何度も胸を突き刺す。その胸に抱かれて安堵を覚えた数だけ、力を込めて。
殺戮を止める者は誰もおらず、最後の友人が絶命すると、その場に響くのは客本人の荒い呼吸だけとなった。戸口で事の成り行きを傍観しているウサギ達は、何も言わずにじっとこちらを見つめている。
終わった。全て殺し尽くした。とうとう夢を叶えたのだ。
……叶えた、はずなのだ。
なのに。
「……なんで……全然満たされない……! 夢が叶ったはずなのに、どうして……!」
予想していた達成感はまるでなく、今彼の内にあるのは虚無感と疲労だけであった。
こんなはずはない、自分の夢を叶えたのだから、もっと爽快感に包まれてしかるべきではないのか。一体どうして。
「おやおやまあまあ、随分派手に汚しましたね」
血だまりで立ち尽くしている客が顔をあげると、他の客達の中にホテルのオーナーの姿が増えているのが見えた。真っ赤になった部屋を見やり、小さく溜息を吐いている。
「オーナーさん……」
客は喘ぎながら彼に詰め寄った。
「このホテルは、夢が叶うんじゃなかったんですか? ドリームホテルじゃないんですか!?」
縋る様な客の言葉に、オーナーは笑みを浮かべた。
「あなたが満足していないのは、あなたの夢がまだ叶っていないからです」
「そんな……殺さなきゃいけない奴は全員殺しました!」
「ようくお考え下さい、あなたの夢を。本当に殺さなければいけない人間を殺しましたか? そも、何故殺したかったのでしょう?」
“何故”、殺したかったか?
「……それは……」
客は血の海に散乱する死体の山を振り返った。
「……殺せば、もう嫌な思いをしなくて済む、から……」
自分を不幸にした奴らが全員死ねば、もう辛い目に遭わなくて済む。そうだ、だから殺したかった。殺すことは手段でしかなく、目的は別にあったのだ。
自分の夢は、“これ以上不幸になりたくない。”……たったそれだけの事だった。
「なるほど、それがお客様の夢!」オーナーは緩く首を傾いだ。「しかし、今後もたくさん嫌な奴が出てきて嫌な思いをしますよね。どうするんですか、その都度殺しますか?」
そんな事不可能に決まっている。しかし、彼の言う事は事実だ。例えこれまでの不幸を精算できても、未来の不幸を防ぐ事などできはしない。これでは、夢は叶った事にならないではないか。
客が訝しげにオーナーを見つめると、彼は緩くかぶりを振って困った子供に言い聞かせる調子で言った。
「ああ、もう貴方は分かってらっしゃるはずですよ。どうやって夢を叶えたら良いのか」
初めて見た時はただの緑でしかなかったオーナーの瞳が、今、まるで底なし沼の様に深い緑へと色を変えているのに気が付いた。その沼に、自分が映りこんでいる。違う、囚われている。
「たった一人殺すだけで、貴方の夢は叶います」
抜け出せない。もがけばもがくほど沼の底へと沈められてしまう。突然客の体は金縛りにあった様に動けなくなり、血の気が引いて、ガタガタと勝手に震えだした。
「たった、一人……?」
「そう。“本当に殺さなければいけなかった一人”」
オーナーがゆっくりと口端を持ち上げた瞬間、客は、その緑の瞳の中央で禍々しい赤が燃え上がったのを見た。
「……お客さん。包丁、お腹に刺さってますよ」
その言葉を聞いた途端、突然呪縛から解放され動けるようになった客は自分を見下ろした。
先ほど振るっていた包丁が、深々と腹に刺さっている。客の目がそれを捉えた途端に、時が動き出したかの様にじわりと血が溢れだしてきた。
「……死ねば良いのは……僕……?」
掠れた声で呟くと同時に立っていられなくなった客は、そのまま血の海の中に崩れ落ちた。無数の人々の血で出来上がった水面に自分の血がどんどんと吸い込まれていくのを、目を見開いて眺める。ようやく脳が現実を理解すると、燃える様な痛みが腹部を貫き、ひいひいと情けない声が漏れた。
「おめでとうございます、夢が叶いましたね! 死んじゃえばこれ以上不幸になりませんからね! なんと合理的! いやあめでたい!」
頭上でオーナーが手を叩きながら笑っている。他の誰も、客を助けようとする素振りさえ見せず、血だまりでのた打ち回る彼を見下ろしていた。
「ま、待って、死にたくない……! 違う、僕はただ、不幸になりたくなかっただけだ……っ!」
客の目から涙があふれた。
「お願いだから、誰か、助けて……死にたくない、死にたくない……!」
視界が霞み、急速に体温が失われていくのと一緒に、不幸に見舞われ涙する未来も、幸運に恵まれ微笑む未来も失われていくのが分かった。死だ。無だ。自分を形成する全てのものが、虚無に吸い込まれていく……。
「残念ですがお客様、不幸になりたくないと、幸せになりたいってのは、全然別物で御座います。夢を持つのは、計画的にどうぞ」
客が最後に見たのは、オーナーのぞっとする程深い緑の瞳だった。彼の意識はそのままその沼に沈み、そして二度と浮上することは無かった。
その場に静寂が訪れたが、それはほんの一瞬の事だった。オーナーが血肉と死体で溢れる部屋を見て大きな溜息を吐きかけたところで、後ろから鎖の音が現れたのだ。
「……良い匂い。お腹すいた、ああ、お肉がいっぱいだ……」
ステーキは鼻をひくつかせながら、鉄の匂いを胸いっぱいに吸い込んで光悦とした表情を浮かべた。
「ねえ、これ、食べても良い?」
オーナーがステーキの頭を殴ろうとした瞬間、シーフがのんきな声を出してその手を止めた。
「良いじゃん。ここの片付けステーキにやらせちゃえば?」
「名案だ。これだけの死体を掃除するのは大変だぞ。使用人の一人も雇えん貧乏だから、こうなるのだ」
少年の言葉に伯爵も続いたものだから、オーナーの振り上げた手は行き場を失い、彼は何度か口をパクパクさせて苦しげに呻いた。確かに、ホテルで働いている者はオーナー以外におらずこの死体の山を掃除するのは間違いなく自分だ。仕事の量は少ない越したことは無い。
「……分かりましたよ」
暫く考え込んだ後、オーナーは唸った。
「でも、後で鎖を巻くの、手伝って下さいね!」
「私は面倒だから帰るわ。ああ、歩いて帰るのが面倒……」
一足先にふらふらとその場を去るママを見送る者はなく、残された四人は血の海に裸足で入り、切り裂かれた死体に顔を近づけて体を揺らしているステーキを見つめていた。
「お腹すいたなあ、ちょっとだけでも齧らせてくれないかなあ……」
「ステーキ、こっちに来い」
心底嫌そうな声でオーナーが青年を呼んだ。
「特別に食わせてやるから、跡形もなく綺麗にするんだぞ」
その言葉が聞こえた瞬間、ぼんやりとしていたステーキの瞳が見開かれ、浅ましい希望の光によって灰色のそれがギラリと刃物じみた輝きを放った。
「良いの……? 本当に? 食べても良いの……?」
喜びに打ち震え声が上ずっている。熱っぽい視線でオーナーを見上げた後、くるりと背を向けて後頭部についている南京錠を晒した。
「ああ、残さずな」
南京錠に差しっぱなしの鍵をオーナーの長い指が回した。カチリと高い金属音が聞こえたが、その余韻は荒いステーキの呼吸でかき消されてしまう。彼は興奮で身を揺すりながらジャラジャラとほどけ落ちていく鎖を見下ろしていたが、とうとう我慢できずに両手で首元に落ちた鎖をひっつかむと、渾身の力で引っ張って床へと叩き落としてしまった。
「……ステエエエエキイイイイイ……」
地を這うような低い声が、熱い呼気と一緒に口から吐き出された。ステーキは解放された口を最大まで開いて笑うと、ぎょろりと血走った眼を自らの御馳走に向け、獣の様な雄叫びを上げて一気に食らいついた。ゲラゲラと引き攣った笑い声をあげながら、髪を振り乱して人だったものにかぶりつく姿は、まさに獣そのものだ。死体のはらわたに頭を突っ込み、彼は口を血と内臓で汚しながら歓喜に絶叫した。
「ご飯ご飯ご飯だご飯ヒャッハハハステエエエエキイイイ! 全部俺のだ全部全部全部、頭から足からバリバリ食ってやるんだ、腹が減って死にそうもう駄目だ食べる食べる食べる! アッハハハハハ!」
伯爵とシーフとウサギはおぞましいその姿から目を離すと、食べ終わるまで部屋の外で待とうと出ていった。死体はまだたっぷりと残っている。長い晩餐となるだろう。
オーナーも彼らに続こうと一歩踏み出したのだが、ふと足元に転がる客だったものに気が付くと、その首元で光るものを見つけて身をかがめて覗き込んだ。
「おっと、良いネックレスだな……。イニシャル入り、恋人からのもらい物かな」
勿論、その恋人とやらにこの客は浮気されたわけだが。鼻で笑いながらオーナーはそのネックレスを死体から千切り取ると、そのままポケットに忍ばせてしまった。
「ま、こんな小さな物が愛情の証明になる訳でもなし、チップとして頂きますね、お客さん。うふふふ」
「退屈だなあ」
不必要なまでに豪奢な飾りを施されたサロンのふかふかのソファに寝転がりながら、シーフはあくびを一つそうぼやいた。あの客が死んでから数日、新しい客がやって来る気配はない。同じくサロンに集まっている他の客達は、シーフの独り言をぼんやりと聞きながら各々くつろいでいた。
「それでいいのよ、何か起きたら面倒でしょ……」
ぐったりとソファに寄りかかるママの言葉に、シーフは不貞腐れた顔になる。腕に抱えたポテトチップスの袋に手を突っ込むと、一枚取り出して足元のステーキの眼前でちらつかせた。
「だってステーキをからかうの飽きたんだもん」
「じゃあからかわないでよ、シーフ……ねえ、ちょうだい、一枚で良いからちょうだいよ……酷い事しないで……」
再び鎖を巻かれ、力のなくなったステーキは目の前のポテトチップスを手に入れる気力さえ封印されてしまった。そのやり取りを見て、伯爵が呆れ返った声を出す。
「卑しい遊びをするんじゃない、みっともない」
叱られたシーフがやはり不貞腐れた顔でそのポテトチップスを口に放り込んだ瞬間、地の底から突然化け物の様な恐ろしい叫び声が響き渡り、ホテル中を揺らしてその場に居る全員を飛び上がらせた。ステーキは悲鳴をあげて頭を抱え、涙目になる始末だ。
「666号室が起きた、666号室が起きた……!」
揺れが収まり、身の毛もよだつ咆哮の余韻が消えると、ようやく全員は体の力を抜いてほっと一息ついた。あの地下に君臨するモンスターは、いつだって突然に目覚めるのだ。監禁している部屋の扉の無事を祈るしかない。
足早にウサギがサロンに入ってきた。その表情からするに、ウサギも今の一撃で肝をつぶしたらしい。
「ねえ皆さん、今の聞こえました? 666号室久しぶりに起きましたね」
「怖い、怖い、怖い、怖い……」
ガタガタ震えるステーキに近づくと、ウサギは背骨の浮きあがったその背中を慰める様に撫でてやった。
「ウサギ、見て来てちょうだい」
と、ママが面倒くさそうに呟く。
「冗談でしょ、私は死にたくないですよ」
あの暗い地下まで下りて様子を見てくるなんて。万一何かあれば、生きていられる保証はないのだから。
「でもオーナーは行くまいよ」
と伯爵。
「他の人に行かせればいいんです」
ウサギが赤い目を細めて口端を釣り上げると、ソファから起き上がったシーフが身を乗り出した。
「もしかして新しいお客さん来たの? 先に顔見るなんてずるいよ、どんな人だった?」
柔らかい声に、妖しい楽しみが滲んだ。
「面白い夢を持ってそうでしたよ」
「いらっしゃいませお客様、ドリームホテルへようこそ! お待ちしておりましたよ、さあこちらへ。当ホテルはお客様の夢が叶う素敵な場所で御座います。夢が全て良い物とは、限りませんけどね。んふふふ……」
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