鬼村という作家

篠崎マーティ

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四十九話「2012-2014」

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「はーい、有難う御座いました! それじゃあまた連絡しますね! 今日はゆっくり休んでください、先生!」
 能天気な程明るい笑顔でそう言った沢田は、大事そうに茶封筒を抱えて去っていった。
 まるで盆暮れ正月がいっぺんに来たような喜びようだ。担当作家の原稿を受け取れて、あそこまで喜んでくれる者なんて滅多にいない。なんとも嬉しい限りである。
 良い青年だ。本当に。
 渡した茶封筒の中身が、無地のコピー用紙の束である事が心苦しくて仕方ない。
 真はやるせない気持ちで部屋の中に戻り、パソコンの前に座り直した。気分を変えよう。原稿はまだまだ残っている、早く書き上げなくては。
 ――耳鳴り。
 真の中で苛立ちを孕んだ緊張が走り、キーボードから手をどかすと脇の本を取った。
 振り返ると、勿論、死神が立っていた。
「新刊です」
 事務的に座ったままで本を差し出す。真が動かないのを見ると、死神の方から近づいてそれを受け取った。
「有難う御座いやす」
 それだけ言って、後は黙って表紙を見下ろす。その大きな瞳が見つめているのは表紙の一点……著者名であった。食い入るように見つめる死神を、真は嫌悪の滲む瞳で射貫く。
 言いたい事があるなら言えばいいのに。
「キムラサトリです」
 死神は真を一瞥した。肌荒れが酷く、目の下のクマは見た事ないほど濃く浮かんでおり、目に生気がない。元々色白だが今は白いを通り越して青ざめ、更に最近は少しずつ太ってきているときた。不摂生を絵に描いたような有様である。
「鬼村悟」言われた名前を復唱する。オニムラサトルかと思った。言われなければ読めない名前だ。「滅三川は辞めて、これからはこの名前をずっと使うんで?」
「何か不都合でもありますか?」
「いえ、何も」
 いっそ笑ってしまう程真の態度は刺々しい。まったく、死神相手にこんな振る舞いが出来る人間が他に居るだろうか。しかしこの狼藉を許しているのはそもそも死神本人なのだから、わざわざ指摘する事はない。
「滅三川だと、変なのが寄って来ちゃうんですよ」真がつっけんどんに言う。
 知っている。初めてのサイン会で、人ならざる者が溢れかえっていたのを死神も遠くから見ていた。確かにあんな事が続いてはたまらないだろう。
 それにしてもだ。
 死神はぎょろりと目玉を動かし「悟」の一文字を睨みつけた。
 どういうつもりでつけたのかは知らないが、当てつけなら随分挑発的じゃあないか。
「なんですか?」
「別に」
 けれど死神は何も言わなかった。
 真も彼が何も言わない事を選んだと察し、それ以上つつくような真似はしない事に決めた。
 冷戦状態だ。だが、そもそも戦っている状態こそおかしいのである。真と死神の関係性はそういった類のものではない。それなのにこの状態はなんだ。まったくもって捻じくれている。
「……あの」
 そろそろ死神が退散しようとした時、僅かに態度を軟化させて真が呟いた。死神は彼女に目を向ける。
「……さっきここに来た沢田は、連れていけないんですか」
「ああ……一応声はかけたんですがね」
 バツが悪いのを誤魔化すように額を掻く。
「そもそも気づいてないもんですから、仕事が忙しいとふられちまいやして」
「言ってやれないもんですかね」
「やつがれが言ったところで信じないでやしょう」
「……私が言っても、どうせふざけてると思われる」
「まァ、傷一つない綺麗な姿でやすから、恨みやなんやは無いお人だ。祟らないなら、そのまま本人が気づくまで好きにさせてやっても良いんじゃないですかい。車の事故でしたか」
 真は浅く頷いだ。
「じゃあ、本当に分かってないんでしょう。その時が来たら、責任もってやつがれが連れて逝きやす」
 先ほどとは比べ物にならない穏やかな顔つきで、真は死神に頭を下げ「お願いします」と言った。少なくとも、死神が死神としての責務を全うする事に関しては、信頼と敬意を失う事は無いらしい。流石は藤原の人間だ。こういった摂理は十分に理解し、私情で判断を鈍らせることはしない。
 死神は僅かばかりの喜びを胸に、笠の縁をちょいと下げて消えていった。




 結局のところ、真はその後も神保との付き合いを継続させた。
 自分達のおかれた状況や関係について真剣な話は一切せず、目的もなく一緒に居た。
 あの日以来真は指輪を引き出しの奥にしまって二度とつけなかった。神保は暫くしてそれに気づき一度指輪をどうしたのか聞いたが、真が曖昧な返事をしたためそれから指輪の話題を出すことはなくなり、けれど自分だけは頑なにペアリングをし続けた。神保だけが左手の薬指に指輪をはめているのを、周りの人々はどう見ていたのだろう。今となってはどうでも良い事だが。
 いつの間にか二人は未来の話もしなくなっていた。神保の方からは結婚の話なぞ出なかったし、親に挨拶に行くなんて台詞もとうとう吐かなかった。それでも変わらずデートはしたし、どちらかの家に泊りもしたし、セックスもした。何が変わったというわけではない。
 ただ、二人の未来がなくなっただけだ。
 自傷じみたその慣れ合いの度にまとわりつくような視線を真は感じていたが、説教をされるわけでもないので無視を続けた。行き止まり。どん詰まり。そびえる壁を前にして、壊すでもなくう回路を探すでもなくそこに居る事を選んだのは、他ならぬ本人の意思である。それに、真が離れる事によって違う少女にこの男が手を出すのではという強迫観念じみた奇妙な正義感が働いていたのも事実だった。勿論、傍から見れば一緒に居続ける虚しい言い訳の一つに過ぎないのだけれど。
 まさに自暴自棄の極みであった。
 自覚はある。それでも、あの日真を連れ出してくれた手を離すことが出来ない。依存と呼ぶのもおこがましい、何か肉厚的でぶよぶよした醜悪なその関係性を二人で仲良く飼っているに過ぎない。汚れながら。臭くなりながら。我慢して。
 だから、この結果は不可抗力なのだ。
「あっ」
 神保は短く声をあげて真を見た。あの日、夜中に少女を家に連れ込んでいたのが見つかったのと同じ声だった。だが今回見つかったのは、少女と二人でベッドの上に居たところである。裸だった。二人とも。
 真は様々な悍ましいものを見て来た。人が目の前で死ぬのも、正視に堪えぬ死体とさえ呼べない肉片も見てきた。だから万一こういった場面に遭遇しても冷静でいられるものだと思っていた。
 しかし、現実は違ったのだ。
 神保の下で少女が青い顔をしてこちらを見ている。その顔に浮かぶ幼さを目の当たりにした途端、全身の毛が逆立って頭が真っ白になってしまった。その白は、ほとんどが純粋な殺意で構築されていた。
「てめえ!」
 叫びながら神保に飛び掛かり、加減なく蹴り飛ばした。
 すぐに少女を見下ろす。きめ細かい白い肌だ。まだ完成しきっていない四肢の線が、胸が締め付けられる程頼りない。綺麗な少女だ。そもそも少女は皆綺麗に決まっている。床に脱ぎ捨てられた制服を見ずとも、彼女が十五六であるのはすぐに分かった。けれど、裸だとより幼く見える。
「大丈夫?」
 半ばパニックになって無遠慮に少女の二の腕を抱いた。少女は驚いている。まさか大丈夫かなんて声をかけられるとは思っていなかったのだろう。子供は自分の置かれた状況を理解できていないのだ。きっと、男女の修羅場に巻き込まれたなんて浅い認識しかしていない。
 その事実だけで、真は気が狂いそうだった。
「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
 信じられない程涙が溢れてきた。今まで生きてきてここまで泣いた事は無い。一体何故こんなに泣いているのか、どの感情がそうせるのかもまるで分からないが、全裸の子供を見ていると大粒の涙が止めどなく流れて仕方がない。
 壊れたように号泣しながら謝罪を繰り返す真を、少女はひたすら困惑した顔で見つめていた。真の謝罪の意味が、涙の訳が、分かるには後十年は必要だろう。
「真、これは、違う……!」
 蹴り飛ばされた神保は、無様に起き上がってようやく声を出す。
 真は鬼の形相でキッと彼を睨み、少女を守る様に立ちはだかった。
「自分が何したか分かってんのかよ! こんなっ」また涙が出てくる。「こんな子供に、手ぇ出して……っ!」
「分かってる、俺が悪かった! でも訳があって」
「どんな訳があっても子供に手出して良いわけねえだろ! あんたは性犯罪者で、この子は被害者なんだよ! てめえがそうしたんだ、こんな子供を! 意味分かってんの!? 今は分からなくても、将来これがどういう事が分かるようになったら、この子がどれだけ傷つくか分かってんのかよっ!」
「無理やりじゃない!」
「関係あるか! 子供が良いって言ったって、大人のお前が止めなきゃいけねえんだよ、当たり前だろうがっ! なんでそんな事も分かんねえんだよ、何人手ぇ出せば気が済むんだよ、病気野郎! こんな思いするのはアタシ一人で十分なんだよっ!」
 錯乱したように罵る真の醜悪さに、少女は震えながらベッドから飛び降りて部屋の隅に逃げて行った。憎しみのあまりに取り乱して我を忘れるなんて生まれて初めての経験で、真の怒り方はいっそ滑稽な程下手くそに見えただろう。しかしどうしようもなかった。今、真を操っているのは殺意をしっかり着こんだ一等の憎悪なのだ。
 人が人を殺せる瞬間が、この時、真に訪れていた。
「真……!」
 神保が真に手を伸ばす。
 真を救ってくれた手。
 未成年を暴いた手。
 ――初めて、真はその手を拒絶した。
「触んな!」
 神保が愕然とした顔をしている。それさえ真の怒りに油を注ぐばかりだ。
「これ以上子供を傷つけるな! 子供だぞ、分かってんのか! 無理ならもう死ねよ! 被害者増やす前にさあ、どうせ我慢出来ないんなら死んだ方が良いだろ!」
 本心だった。
 この瞬間は。
 だから、真は叫んだ。
 心から叫んだ。
「頼むから、死んじまえよ!」
「――相分かった」
 顔のすぐ横からふわりと黒い影が躍り出る。
 影は真と神保の間に割って入り、真の精一杯開いた小さな瞳に見慣れた遊行僧の背を晒した。大きな笠も古びた裳付衣もいつもと変わらないが、その手に握られているのは錫杖ではない。
 大きな鎌だ。
 神保が零れんばかりに目を見開き、死神を見つめている。
 見えているのだ。
 そしてスローモーションのようにゆっくりと、その瞳を真に移した。
「ま、」
 その時彼は確かに真の名前を呼ぼうとしながら手を伸ばした。理由は分からない。事態が飲み込めず何が起きているのか聞きたかったのかもしれないし、意味もなく反射的に動いただけかもしれない。
 でももしかしたら、この侵入者を前に危険を察して真を逃がそうとしたのかもしれない――そうだったら、良い。
 今となってはもう分からない事だ。なにせ神保が正気で居られたのは、それが最後だったのだ。
 真に向けられた視線を遮るようにゆらりと死神が移動した。神保は真正面からまともに死神を見、ほんの一瞬静かになった後、突然この世のものとは思えない叫び声をあげて倒れ込み床をのたうち回り始めた。悍ましい程の発狂だった。喉が裂けんばかりに絶叫しながら、自らの髪を引きちぎり、顔や喉を掻きむしって全身を激しく痙攣させている。
 凍り付く真の前に降り立った死神は、振り返って例のぞっとする微笑みを浮かべた。
「これでもう、心配御座いやせん」
 あり得ない程優しい声で言う。
「……殺せないはずじゃ」
「やつがれは殺しやせんよ。そいつはてめえで勝手に死ぬんです」
 放っておけば狂い死ぬ。そうでなくともすぐに耐えきれずベランダから飛び降りる――歌うように死神は言葉を紡ぐ。
「貴女が飛び降りようとした時、助けなかった奴にゃあ似合いの最期だ」
 神保は床に頭を打ち付け、額から流血している。頭をぶつける度に血が飛沫をあげ、水っぽい打撃音が部屋中に響いた。絶叫の合間に少女のすすり泣きが加わり、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図さながらだ。
 なんなんだ、この状況は。
 ふらっと真は踏み出す。
 すかさず美しい色を奏でながら錫杖が振られ、真の行く手を阻んだ。
「莫迦な真似はおよしなさい」死神の顔から笑顔が消えている。「あんな男、死なせた方が良いじゃあ御座いやせんか。先生だって分かってるはずだ、だから死ねと言ったんだ」
「あれは」
「本気だった。だからやつがれは来た」
「でも」
「憎んでるンでしょう、先生? やつがれが来なきゃ貴女が殺していた。その手間を省いたんですよ。貴女が手を汚す事じゃない、あいつにはそんな価値もない。勝手におっ死んで、この世から居なくなりゃあ良いんだ。貴女を惨い目に遭わせて、何も分かってねぇガキに手ぇ出して、そんな野郎、死んじまうべきなんですよ」
 部屋の中に黒い影がひしめいている。
 神保が死ぬのを待っている。
 愛し気に真を呼んでくれた口から泡を吹き、歯が割れそうな程食いしばっているのを見て、もうじき舌を噛む気がした。
 それは、
 ――嫌だった。
「先生!」
 錫杖を押しのけ飛び出した真に死神が鋭い一喝を浴びせたが、無視しで神保の体に組み付いた。箍の外れた人間特有の信じられない怪力で神保は暴れまわり、女の真一人ではとても抑え込むことは出来ない。それでも真は神保を必死に羽交い絞めし、その口に自らの指を突っ込んで舌を噛まないようにさせた。愚策である。人間の噛む力の強さをまったく失念していた。食い千切られるかと思う程の力で指を噛まれ、真はたまらず悲鳴を上げた。
 焦ったのは死神の方である。舌打ち一つ絡み合う二人に一気に間合いを詰めると、錫杖の柄で神保のみぞおちを突いた。呻き声をあげて痙攣すると同時に、神保の体が急に弛緩した。一瞬死んだのかと思ったが、息はしているので気絶しただけのようだ。
「あんたが莫迦なのは穢れだからか、女だからか!?」
 頭上で死神が怒鳴っているが真は気にしない。自分の血と神保の唾液にまみれた指を彼の口から引き抜くと、肩で息をしながら力なく横目で死神を見上げた。彼女は動かない。まるで神保を守る様に抱いている。触れさせまいと、傷つけさせまいと、死神を威嚇し、懇願している。それを見て死神は言葉を失った。
 真が莫迦なのは、穢れだからでも女だからでもなかったのだ。
 息を荒げて狼狽した死神は、よっぽど何か言いたそうに口を何度か開いたのだが、結局何も言う事は出来ず悔しそうに呻いて消えてしまった。
 気が付くと、影の群れも居なくなっていた。
「……救急車!」指の痛みに耐えながら、真はガラガラ声で少女に叫んだ。「救急車呼んで!」
 しかし少女は動かない。死神の見えなかった少女からすれば、いきなり神保が発狂したようにしか見えなかったのだ。こんな恐ろしい場面を子供が耐えられなくても仕方ない。
 真は仕方なく神保から離れると、血だらけの指を必死に動かしてスマートフォンで救急車を呼んだ。
「アタシがなんとかするから、あんた早く帰りな! 早く、誰か来る前に行って!」
 泣きながらもがくように制服を来て、少女は神保の部屋から飛び出して行った。軽やかに駆けていく後ろ姿は、場違いな程愛らしく可憐だ。彼女は終始子供であった、外も内も。
 それを思うと、また真の中に怒りの炎が灯った。
 真はその場に立ち尽くしたまま、愛する男の変わり果てた姿を見下ろし、悲しみと憎しみを抱いて耐えていた。
 何を堪えているのか最早自分でも分からない。
 先ほどの神保の声を聞きつけたのだろう、外の廊下がにわかに騒がしくなっている。
 傷口を押さえて止血を試みながら、指から脳に駆けのぼる激痛の中に愛しさを見出しほんの少しだけ泣いた。この痛みは、もう二度と与えられることのない痛みである。
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