鬼村という作家

篠崎マーティ

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二十七話「フアン」

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注釈
こちらの一篇は同人誌版「鬼村という作家 宵鶏鳴かせ」の中に収録されております。
予想外に重要な人物が現れてしまい、こちらの一篇が無いと今後の本編に差し支えてしまう為、こちらだけWEBに再録致します。
こちらのフアンンを含む書き下ろし十篇を収録した「宵鶏鳴かせ」も、併せてお手に取って頂けましたら幸いです。






 秋の晩の事である。
 青白い月から放たれたような冷気が熱い肺に送り込まれる度に心地よい、寒い夜だった。
 妙な話だと常々思うが、空気が澄んで凛としている時ほど煙草が吸いたくなる。
 鬼村は縁側に座して、自分の眉同様ろくに手入れもされていない雑草の茂った庭を眺めながら、煙草を吸っていた。それでも、時々庭で何かしらを燃す事があるので、離れた一画だけは綺麗に草むしりがされている。この庭の中にあっては、それは手入れがされているというよりハゲが出来ていると言う方がしっくりきた。
 ゆっくりと時間をかけて煙草の煙を肺に巡らせ、同じ時間をかけて吐き出していく。
 もしかしたら、この気温ならばもう息は白いのかもしれないとふと考えた。煙草を吸っていては分からない事だが。

 不意に、耳鳴りがした。
「――月が綺麗でございやすねえ」
 突然男の声が聞こえ、鬼村はそちらに視線をやった。それほど驚いた様子はない。ただ彼女の小さい唇は、僅かに嫌悪の色を載せてつり上がった。
 先ほどまで誰も居なかった雑草の中に一人、月を見上げる男が居た。
 かなりの小男で、ぱっと見ただけでは子供のように見える。遊行僧の恰好しているのだが、これがその小さな体に合わせて作られているせいで妙に可笑しかった。裳付衣も、脛巾も、笠も、錫杖も、何もかもが子供サイズなのである。
 けれど、男の顔――男の顔は深い皺がいくつも走り、色も悪く、生乾きのミイラのようであった。そんな恐ろしい顔に、三日月を横にしたような大きな笑みを刻んでいる。目を細め、本人は精一杯優しい表情を浮かべているつもりなのだろう。
 それはただただ、禍々しいだけであった。
「そうですかねえ」
 鬼村は月を見もせず、小馬鹿にしたような表情でつっけんどんにそう返す。
 男は月から鬼村に視線をやった。笑っている。鬼村と二人で居る時、この男は大抵笑っている。
「ご無沙汰しておりやすね、先生」
 男は笠の先端を指でちょいとつまんで礼をした。黒く汚れた指は枯れ枝のようだ。
「ええ、ご無沙汰してます」
 鬼村は男を見据えながら、やはりそっけない。
 男は低く喉で笑った。
「新作の方はどうですかい。出されるんでございやしょ、“虚ろのうろ”の新作」
「まあ、今年中に書き上げるつもりですよ」
「どうでしょう。原稿、ちょいと拝見しても?」
 相変わらず、へりくだって喋る割に態度のでかい男だ。
 鬼村は一度大きく煙草を吸い、すぐにぷーっと吐き出した。男の姿が紫煙の向こうに束の間消える。煙が晴れる直前、向こう側にうっすら見えたのは男の姿ではなく真っ黒い影の塊だった。
「物書きとして、書きかけを見せるのはちょっとね」
 鬼村は目を細めて呟いた。男はまた笑う。
「こいつぁ失礼、待ちきれないもんで。どうも先生の本となると我慢が効かなくていけねえ。勘弁してください、やつがれは先生の、一番のフアンでしてね」
「光栄だなあ」
 これっぽっちも感情のこもっていない声で鬼村が言っても、男の笑顔が崩れることはない。とにかく今この瞬間が楽しくて、嬉しくて、仕方がないようだ。
「今回も楽しみにしてやすよ。先生は期待を裏切ったことがない」男はいやに小さい瞳孔を輝かせ、ほとんど陶酔したような表情で鬼村を見つめた。「こないだなんとかって雑誌に寄稿した短編も最高でやした。冒頭と結末が綺麗に重なるあの終わり方、お見事としか言いようがございやせん。ああ、そうそう、これは先生に直接聞きたかったんですがね、“虚ろのうろ”の五冊目に出てくる山上って男、もしかしてもしかすると、モデルはやつがれじゃあございやせんか。山上と円城寺の会話が、どうも先生とのやりとりに似てるもんで、驚いちまったんでさあ。いやもちろん、嬉しい事ではございやすがね……」
 鬼村は固い微笑を保ったまま何も言わない。男はそれに気が付くと、一度言葉を切ってしげしげ鬼村を眺め、
「喋りすぎやした」
 と言った。
 俯いたせいで笠に顔が隠れてしまったが、かろうじて顎のあたりは見える。多少バツが悪そうではあるけれど、男はまだ笑顔だった。まるで、悪戯が見つかった悪ガキのような顔。
 そんな妙に人間臭い反応が癪に触り、鬼村は奥歯を噛み締めた。
 人間でないくせに、よくもそんな反応をしやがる。
「やつがれは」男が再び口を開いた。「本当に先生の作品を愛してるんでさあ。それだけは何があっても信じて欲しいんですよ。でなきゃ、先生はとっくにあの世に行ってる」
「分かってます」鬼村は淡々と答えた。
「先生が作品を書き続ける限り、やつがれはいつまでも待つつもりでおりやす。でもね先生、最近こうも思うんです。いっそ先生をあの世に連れて行って、やつがれの為だけに本を書いて欲しいって。他の誰にも見せない、やつがれだけの先生の本――」
 男は醜い顔をあげ、目を細めた。
「こういうのを、今のハイカラな言葉でなんと言うんでしたかね……ああ、そうだ、プロポオズ、ってやつでさあね」
 厚ぼったい鬼村の下瞼がぴくりと動いた。
 男はそれを見て愉快そうに嗤った。
「気に障りましたかい。まだあの男のことを根に持ってらっしゃるとは、やはり女の執念ってやつぁ度し難い。もう十年も前の事じゃございやせんか、ねえ先生。そも、あんな男、先生にゃふさわしくなかった。あいつは弱い男でごぜえやす。やつがれが何もせずとも、どうせそのうち駄目になってたでしょうよ。先生だって――」
 男の口が。
 耳まで裂けている。
「あいつを、恨んでたじゃあ、ございやせんか」
 ザク、と草を踏みつける音が聞こえた。
 鬼村と男は同時に横を見る。
 暁烏が、立っていた。
 先ほどまで機嫌よく笑っていた男の顔が一瞬のうちに、生まれてこの方笑みなど作ったことはないと言わんばかりの仏頂面に変貌した。目つきが険しくなり、口角から猛獣の牙のように皺が伸びる。強く握ったせいだろう、錫杖からすずやかな音が鳴った。
「おうおう、畜生臭えと思ったら。古狸が来なすった」
 鬼村に向けていた猫なで声とは真逆の、冷たく、敵意むき出しの声で男は吐き捨てる。暁烏は平然と微笑を浮かべたままで「こんばんは」と挨拶をした。男のこめかみのあたりに、血管が浮き出るのが見えた。
「人の逢瀬を邪魔するのは、えらく不躾じゃあねえか。ええ?」
 否、これは逢瀬なんてもんじゃない。強いて言うならストーカーの押しかけ、そういう犯罪の類。しかし、男の機嫌をわざわざ損ねるのは得策とは言えず、鬼村はげんなりした顔で黙っていた。この男はこの男なりの道理に従って存在している。その範疇を超えなければ、とりあえず危害が及ぶことはない。
「いらっしゃると知らなかったものでね」
 暁烏は物腰柔らかく続けた。
 男は肉食動物が獲物を定める時のような目つきで暁烏を睨み、いやらしく口端を持ち上げた。
「確か、可愛い孫が居たな――達者でやってるのかい」
 暁烏の瞳から光が消えた。
「いけないなあ。死神ともあろうお方が、そんな風に職権乱用で人間を脅しちゃあ」
 温度が消え、音が消え、時間が消えた。誰も動かない。呼吸もしない。虚無が三人に食らいついている。
 男はこのいけ好かない闖入者を今すぐにでも消してしまいたかったのだが、自分にそれが許されていないことは十分承知していた。自分がして良い事、悪い事、出来る事、出来ない事……数えきれない制約の鎖が小さな体に巻き付いている。それは、人間がいつか死ぬのと同じくらい当たり前に男に背負わされた運命であり、自然の理に組み込まれている絶対的な法だ。
 暫く男は微動だにしなかった。自分の鎖を恨みがましく指でなぜながら、怒りの炎が弱まるのを待っている。
 やがて思い出したかのように鬼村に顔を向けると、また気色の悪い笑みを浮かべて見せた。
「それじゃあ、先生、やつがれはお暇しますぜ」
 ニイと男の三日月が太く伸びた。
「また、月の綺麗な晩に」
 夜風が雑草をくすぐる音がする。遠慮がちに虫が鳴き始めた。冷えた空気が頬をつついてハッとする。
 男は消えていた。
「鬼村」いつの間にか目の前に来ていた暁烏が、鬼村の手を指さした。「灰」
「あっ」
 足元にはいつの間にやら二つの灰の塊が落ちていて、ろくに吸いもしていないのに煙草はほとんど燃え尽きて、今にも落ちそうな最後の灰が必死にふんばっている。慌てて灰を灰皿に灰を落とした。勿体ない事をした。
「まったく、君ってやつはねえ」
 暁烏は呆れ果てたようなため息をこぼしながら、鬼村の横に腰かけた。薬草のような独特のにおいが暁烏から漂ってくる。落ち着く香りだ。
「どうして変なのにばかり好かれるかねえ」
「そう言われましても……」
 それ以外に言う言葉がない。鬼村が好きで変な連中を寄せ付けているわけではないのだから。
「あんな蹂躙みたいな場面見せられて、おれは心が痛いよ」
「お散歩してたんですか」
「うん、たまたまね。そしたら、なんだか困ってる様子だったからさ」
「いやもう、ほんと助かりましたよ。もー無理い、キモいー」
 あの状況が相当疲れたのだろう、鬼村は一気に脱力すると縁側に後ろから倒れ込んだ。どんな力の強い霊能者でも、陰陽師でも、神主でも、坊主でも、死神とサシで対峙して平気な者など居るはずがない。
 鬼村のぽっこり膨れた腹が上下するのを見ていた暁烏は、ふと暗い家の中に視線をやった。
「美命ちゃんの事、バレなかった?」
 鬼村も寝ころんだまま、視線だけ上にやって家の中を見る。静かで、なんの気配もない。
「ええ、まあ」
「居るのバレたら、怒ると思うよ、あの人」
「怒るで済めば良いンですけどねえ」
「なんとか追っ払えないものかね」
「腐っても神様ですからねえ」
 諦めている。否、諦め切っている。暁烏は同情の目で鬼村を見下ろした。
 鬼村に対する世間の反応は、概ね「破天荒」だの「エキセントリック」だの、幽霊を素手で張り倒す豪快な女といったところであるが、暁烏から見た鬼村は、むしろ正反対である。
 彼女を取り巻く現在の様々な事柄は、彼女に起因したものだろうか? 違う。鬼村は何もしていない。生まれた時からこの女は、ひたすらに自分の背中にかぶさる宿命のようなものに手綱をとられてきた。本人が必死にやった事と言えばただ一つ。小説を書く事だけである。
「鬼村」
 暁烏は優しく言った。
「今からプリンでも作ったらどうだい。明日、一口さんに食べさせてあげなよ。きっと喜ぶよ」
 ぼうっと天井を眺めていた鬼村の鼻が鳴った。
「良いですね、それ」
 鬼村は起き上がった。
 暁烏は居なかった。
 かすかに香る薬草の残り香をまといながら、鬼村はのろのろと家の中に入って行った。
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