鬼村という作家

篠崎マーティ

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二十五話「いのち」

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 突然鬼村が高らかな音を立てて自分の腕をひっぱたいたせいで、驚いた私は危うく原稿をとり落としそうになった。
「っしゃあ」鬼村が唸る。「蚊ぁやった」
 見れば彼女の生っ白い腕に赤と黒にまみれて潰れた蚊の死体がへばりついている。手首近くの太い血管を選ぶとはずいぶんと食いしん坊の蚊だったと見える。その欲が裏目に出たわけだ。
 私は鞄からポケットティッシュを取り出して一枚彼女に差し出した。が、鬼村は魅せられたようにじっと蚊の死体を見つめている。
 そして藪から棒に言った。
「昔、手首を切ろうとした事があってさ」
 私は固まった。
 なんの気なしにひょいと口に出して良い話題ではない。心臓が縮み上がり、肺からひゅうと空気の抜ける音がした。
 うろたえる私をよそに、鬼村はぼうっとしたままほとんど唇を動かさず続けた。
「自殺しようって程じゃないんだけど、ほら、所謂リスカよね。まあ若い頃は誰だって自傷の一つや二つ、自殺未遂の一回や二回やるじゃない。アタシもそう言う時期があってさ。こうやって包丁を手首に当てたのよ。で、力をこめめようとした瞬間ふと顔を上げたら、台所中ぎゅうぎゅうに黒い人影がひしめいててさ。で、やめちゃったんだよね」
 鬼村はゆっくり首を傾いでまじまじと蚊だったものに魅入られている。その瞳に何やら奇妙な光が灯り、この世界の更に先まで照らし出しているようだった。
 ルナティック。
 トランス状態。
 ゾーンに入る。
 そんなような状態。
「どうやら死が近づくと呼んじゃうみたいなんだわ。ま、そりゃそうだって感じよね。それ以来自傷をしようとしたことは一回もないんだ、見世物になるのは好きじゃないしね。でもさ、こうやって蚊を殺してもなんも来ないの」
 そこまで言うと、話し始めたのと同じくらい突然鬼村は平常心を取り戻し、蚊の死体を素手で拭った。
 何度も擦って汚れを散らすが、うっすら赤も黒もこびりついている。
 執念と言うか。
 怨念と言うか。
「蚊に命がないわけじゃないのに、なんなんだろうね、命って」
 私は渡せなかったポケットティッシュを静かに握りしめた。
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