鬼村という作家

篠崎マーティ

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十五話「水中拍手」

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 会社で突然声をかけて来たのは、あまり面識のない竹下という先輩だった。
「ねえ、あの人と一緒に居て、大丈夫?」と心配そうに言ってきた竹下の質問は酷く曖昧で、一瞬なんのことかと思ったがそこでふとある事を思い出す。
 竹下は、私の前に鬼村の担当だったのだ。
「なんでです?」
「いやほら、俺、色々あったからさ……」
「先生の人間性に我慢ならない的な」
「いや、そう言うのじゃなく……」
 竹下は一瞬迷ったものの、椅子に座ってゆっくりと話出した。
「俺があの人の担当やめるきっかけになった話なんだけどさ。俺、幽霊とか信じてなかったのよ。で、先生がある日、水の中では拍手が出来ないんだけど、稀に出来ちゃう事があって、そうするとやばいのが来るって話をしてくれてさ。勿論信じてなかったんだよ。だから家帰って風呂の中でやってみたの。そしたら確かに、水の中だと拍手できないんだよ。でも何回かやってるうちに、突然、パンって。出来ちゃったんだよ。そしたらなんか、悪寒っていうの? 急に風呂場の空気が変わって、どっかからなんか聞こえてくるし、こりゃやばいってすぐ風呂から逃げたんだ。その日はそれで終わったんだけどさあ……次の日、俺、駅の階段から落ちて肋骨と足の骨折ったんだよ。もう俺、とんでもない事しちゃったんだなって、怖くなっちゃってさ。それでもう、あの人無理になっちゃって」

「……て、竹下さんに言われたんですよ」
 あくる日。鬼村宅に来た私は、竹下から聞いた話をそっくりそのまま鬼村へ伝えた。彼女は差し入れのプリンを容器から執拗にスプーンでこそぎつつ、興味なさそうに相槌を打った。
「ああ、それ、風呂の拍手は関係ないよ」
「え、じゃあただの事故ですか?」
「ううん」
 鬼村はスプーンの先端数ミリ分のカラメルにしゃぶりつく。
「だって、本人が目の前に居るのに、居ない居ない存在しないって豪語しまくってたんだもん。そりゃ怒られるよね」
「……本人」
 無意識に視線を鬼村の横にそらせる。誰も居ない。何も居ない。……ように、見える。
 鬼村はスプーンを咥えたまま大きな前歯を見せて笑った。
「でも、水の中で拍手はあんたもしちゃだめだよ。パンって一回、要は柏手だから。水の中でやると、神様じゃなく水の中にいる他の奴に聞こえちゃうのよ。呼んじゃうんだよね。まあ、生きててよかったね、竹下君」
 それから、一瞬奇妙な間があった。
「……あんたも、身の危険を感じたらいつでもアタシの担当おりなね。怒ったりしないから」
 その時、何の感慨もなさそうに言い放った鬼村を見て、私ははっきりと誤魔化しきれない程のショックを受けた。私はこの時突然、彼女に情が湧いている事に気づいたのだ。そしてその気の迷いが見せた幻覚なのか、無表情の鬼村の瞳の底に僅かばかりの物悲し気なきらめきを見た気がした。
「……先生が、私の事指名してくれたって聞きました」私はそのきらめきを逃すまいと鬼村の目を見据えた。「なんで私を選んだんですか?」
 自分でも恥ずかしくなる程、期待感がありありと声に現れている。鬼村なら、と、謎の確信が私の胸を満たしていた。鬼村なら、何かしらの超自然的な勘でもって、自分の傍に置く人物を選ぶに違いない。私は彼女にとって、少なからずプラスの効果が出るとふんで選ばれたはずだ。私には理解出来ない何かしらの縁が、彼女との間に蜘蛛の糸のように細く、しかし力強く伸びて結ばれている。
 だから本当は、いつでも担当をおりていいなんて思っているはずない。あんなに色々一緒に経験してきたじゃないか。
 鬼村はゆっくり鼻から息を吐き出し、口を開いた。
「あんたの名前、初めて見た時にさ。”一口初恵いもあらいはつえ”……えっ、一口って書いてイモアライって読むの? って」
「はい」
「面白くなっちゃって」
「面白くなっちゃった」
「面白くなっちゃった」
 ……面白くなっちゃったそうです。
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