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36.異常種

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 聞き間違いではなかった。

 自分の耳を疑い、一瞬呆けてしまった時のあれは幻聴などではなかった。

 この個体は今までに聞いたことのない特異性を持っていた。

 これだけの組織化を成せるだけのカリスマ性だけなら下層に行けばあり得るだろうと納得のいく話だが、女性を狙うだけでなく、人語を介する魔物の存在など杏はこれまでに全く聞いたことが無かった。

 深層での活動は話にしか聞いたことがないが、その話の中でもこんな趣味の悪い話は当然聞いたことがない。

 まるで、人が豚鬼オークに化けてしまったかのような悪夢だ。

 杏はせき込みながら豚鬼を見上げた。

 彼女を覗き込む豚鬼の顔は、酔いつぶれる無防備な女性に手を出そうとするおじさんのような気持ち悪さがその顔には滲み出ていた。

 「お前は、ごろざない。おれのおもぢゃ」

 聞き取り辛いその言葉はしかし、彼女の神経を逆なでするには十分なほどには聞き取れる。

 彼女は背中に走る虫唾を堪えた。

 「……ほん、と童貞……拗らせた奴って……女の敵ね。他の童貞くんに謝りなさい……よ」

 言葉は絶え絶えだが、彼女の目に悲観はない。

 「ぞれ、いい。ぞのがおゆがまぜだい」

 豚鬼は愉悦に顔を浸らせ、一歩近づいてくる。

 さらに一歩。

 豚鬼の大きな手が彼女の体へと伸びる。

 「性犯罪者は……死になさい!!」

 ──────アイスランス!

 目の前まで迫った手を小剣で切り払い、豚鬼の油断を突いて放たれるスキル。

 血が舞い、飛沫しぶきを掻き分け、赤く濡れた投槍が豚鬼の胸を突き上げた。

 「がぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!」

 杏は油断して無防備に近づいてきた豚鬼に向けて、至近距離での魔術スキルを当てることに成功。

 それは見事に豚鬼に対して大きなダメージを与える結果を生み出した。

 豚鬼は人のように絶叫を上げて胸を押さえてうずくまっている。

 形勢は逆転。

 この隙に一気に畳みかけるため、一気呵成に飛び掛かる。

 「ハードスラッシュ!」

 彼女のスキルが首元を大きく切り裂いた。

 残り一回。

 少なくない血しぶきに再び豚鬼の絶叫が上がった。

 (いける!)

 流石のこの異常化した豚鬼であっても、中級探索者レベルの魔術スキルと剣術スキルを至近距離でその身に食らえば、致命傷は避けられない。

 畳みかけるように剣を振るう。

 肌を裂き、肉に突き立て、骨に響かせる。

 彼女の剣が何度も何度も豚鬼の体に傷をつけていく。

 その痛みにさらに豚鬼の絶叫が重なる。

 「いだい!いだい!いだいいだいいだいいだい!」

 子どものように泣き叫ぶ豚鬼。

 魔物とは言え、勇猛に戦う姿に慣れている彼女はその姿に違和感を覚えながらも手を緩めることはない。

 しかし、豚鬼の体はうずくまったままで一向に沈まない。

 あまりに不自然なその生命力に焦りながらも、その謎を探すために豚鬼の体を改めて見渡した。

 「うそでしょっ……!」

 胸に空いた穴は既に塞がっており、首からの血も既に収まっていた。

 ついさっき付けたばかりの傷が瞬く間に回復しているではないか。

 今振るっている剣による傷すらも目の前で早戻しのように塞がっていっている。

 焦燥感を強くした彼女は、止めを刺すべくスキルを発動──────

 「アイスラ──────っ」

 ──────しかしそれは腕を剛腕からくる握力で強く握られて、痛みでトリガーワードを遮られてしまった。

 「くっ……」

 そうしている間にも豚鬼の体に付けた傷はみるみる内に塞がっていく。

 もう、戦い前の様子と大差なかった。

 「はやすぎるっ」

 この回復速度は異常だ。

 先ほど倒した豚鬼にも感じたが従来の豚鬼のものから遠くかけ離れている。

 こいつのそれはさらに上だった。

 「いだがった、おまえゆるざない」

 にやりと笑みを浮かべた豚鬼は杏の腕を掴む手の力を緩めた。

 「!……」

 言葉とは裏腹に、解放された杏は猫のように後ろに飛んで距離とる事に成功した。

 「だがら──────あぞぶ」

 「っ……時間を掛けすぎたみたいね」

 彼女の後ろには涎を垂らしながら表情を愉悦に歪ませたでっぷりとした豚鬼の群れがそこにいた。

 




 樹の裏にいた女性。

 その人は既に息を引き取っていた。

 その人物が杏でなかったことに安堵するも、幸隆の心は落ち着かない。

 どういうわけか遺体に損傷は少なく一見綺麗に見える仏ではあるが、その実態は豚鬼によって乱暴された上での死であることが容易に想像がつくからだ。

 その証拠に彼女の遺体の衣服は襤褸切れのようで大切な場所を隠せてはいない。

 誰かが被せていった枝葉で上手く隠せていたが、それも気休めに過ぎない。

 彼女の体を隠していた枝葉をもう一度彼女に被せ、その遺体を周囲から隠した。

 この気の遣い方は恐らくもう一つの女性の足跡の人物のものだろう。

 「あいつならこうしそうだよな」

 付き合いは短いながらも彼女の優しさは知っている。

 同じ女性の遺体の傷を治して、死してなお女性の尊厳を守ろうと身を樹の裏へと移し、晒した肌を隠そうと気遣う手間をこの死地の中でも行う姿が幸隆には何となく想像できてしまった。

 沸々と身を焦がす感情が募っていく。

 幸隆は別にフェミニストというわけではない。

 その気になれば女性だろうと誰だろうと殴る自信がある。

 ただ、理不尽が気に入らなかった。

 聖人を気取るつもりは毛頭ない。

 善人である必要もないと思っている。

 偽善者なんて言葉すら自分には意味を窶さない。

 ただ苛立ちが幸隆の中に募っていく。

 こうした者の下卑た顔を殴りたいと欲求が訴えている。

 叩きのめしたい。

 己惚れる顔を恐怖に染めてやりたい。

 ただ単純に、力による理不尽を、同じ力を持って。単語ルビ
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