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入社前
第三話 波乱の入社式
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これから入社式が始まる第一研修室に用意されている椅子、一脚。つまり、夜間運営課のもとに入社する人物は私だけだということだ。有名なドリーミングランドですら花形である昼間の仕事の方が人気なのだろう。
(そりゃあ、私だって昼間の仕事がしたいよ。けども……)
お察しの通り、私は朝に弱い。そして、夜間アルバイトの経験があるため夜間清掃に応募してみたら、たまたま受かってしまったのだ。嬉しいけれど、まさか同期が一人もいないなんて。現実を少しずつ受け入れるために、私は"特等席"につき、「ふぅ」と深く息を吐き出した。
少しの後悔を抱きながら、お手洗いに行ったり自販機でお茶を買ったりして時間を潰す。気がつくと、左腕の時計は午後四時半を指していた。あと三十分だなぁと思っていたとき、人影が扉の向こうに見えた。私は思わず立ち上がり、礼をする準備をする。
「今は礼は結構ですよ。まだ式は始まっていませんから」
扉を開いた女性がやわらかな口調で諭した。彼女は私の横に立つと、バインダーと紙を何枚か渡してきた。
「先にこの書類に記入してください。太枠の中だけで良いので……。書類は入社式始める直前に受け取ります。それと、この冊子は夜間清掃部の……」
彼女が私に一冊の緑の薄いマニュアルを手渡す瞬間、電話が鳴った。それは、第一研修室に備え付けられている受話器からの呼出だった。彼女は受話器を取ると、「えぇっ⁉︎」と驚きを隠せない悲鳴のような声を上げた。
「あの、何か……?」
私は通話を終えた女性に声をかける。彼女は、眉間に皺を寄せ、うーん、と小さく唸った。……なんだか嫌な予感がする。
「樹論さん……でしたよね。落ち着いて聞いていただけますか」
「ええ、聞きますとも」
おかしな返答をしてしまったのだが、彼女も気が動転しているらしく、聞き流されたようだ。
「夜間清掃部ではなく、夜間特別技師として技術部へ来て欲しい、とのことです」
夜間特別技師とは一体なんなのか。私はどんな反応を示せば良いか分からず、「はあ」と声を漏らすだけだ。女性は私の様子を見て、少しだけ冷静になったらしい。
「夜間特別技師のことは今詳しく言えないのですが、夜間清掃部の時給より二百円上がるんです。それだけ特別な職なんですよ」
私は、時給二百円アップという言葉に驚いた。あれだけ苦労していた夜間コンビニアルバイトの時給より六百円近く高いのではないか?しかし、これだけ上がるとなると、危険も伴うのではないのだろうか……?
「夜間特別技師というものは素人でもなれるものなんですか?」
「そうですね、相性次第になりますね。危険は清掃部にもありますし……まあ、でも、樹論さんの意見は尊重されますよ」
女性はそう言いつつも、夜間特別技師になってほしい!といった瞳でこちらを見ている。私はその瞳には訳があるのだろう、と思った。
「分かりました。昔ロボット工学部に所属していましたし、大丈夫だと思います。よろしくお願いします」
私のこの答えに、女性は深く感謝していた。
(ロボット工学と言っても、設計図に従ってハンダ付けしただけなんだけどな……)
彼女は受話器を取り、内線で私の答えを伝える。そこから先はとても早かった。受け取っていた紙を全て回収し、時給と職種を書き換えられた紙が代わりに渡された。そして、"夜間技術部"と書かれた薄いパンフレットのような冊子が手渡された。中を見てみると、簡単な挨拶文と先輩方の写真が載っているだけで特に中身という中身が無い。
募る不安とは裏腹に、入社式は何ごともなく普通に終わったのだった。ドリーミングランドの方針や、挨拶についてなどの説明があったぐらいだろうか。とにかく、何ごともなく閉式した。
閉式後、夜間運営課の八幡さんが挨拶しに来られるということで、私はまたポツンと待つ。今日は振り回される一日だなぁと思い、小さく欠伸をしていると、「やあ」という声が聞こえた。
「君が夜間特別技師に選ばれた、"じゅろん"さんだね?」
「"きろん"です。読みにくいですよね、樹論という苗字珍しいので……」
扉から現れた私よりも背の低い男性は、おそらく八幡さんだろう。少しだけ茶色がかった髪は、規定ギリギリの長さに伸ばされていると思う。それくらい、男性にしては長めだった。
「これは失礼いたしました。僕は八幡 鉄郎。夜間運営課に勤めてます。樹論さんに働いてもらう夜間特別技師は夜間技術部のうちの一つで、その技術部や清掃部なんかをまとめているのが僕らです。分からないことがあれば、僕や技術部の暁さんたちに聞いてね」
八幡さんは胸を張り、私の瞳を見つめる。彼の目はキラキラと子供のように輝いていた。私は、「よろしくお願いします」と言葉を返す。彼は頷き、私に茶封筒を渡した。
「次回の出社は明後日でお願いしているはずだよね。この封筒を出社時に美装部の人に渡してもらえるかな。彼らなら、従業員出入り口からすぐのロッカー室近くにいるから」
受け取った封筒には、美装部宛と書かれている。これを渡してから次回の仕事が始まるのだろう。
夜間特別技師とはどんなものなのだろうか。私は不安と胸の高鳴りを抑えて、入社式の一日を終えた。
(そりゃあ、私だって昼間の仕事がしたいよ。けども……)
お察しの通り、私は朝に弱い。そして、夜間アルバイトの経験があるため夜間清掃に応募してみたら、たまたま受かってしまったのだ。嬉しいけれど、まさか同期が一人もいないなんて。現実を少しずつ受け入れるために、私は"特等席"につき、「ふぅ」と深く息を吐き出した。
少しの後悔を抱きながら、お手洗いに行ったり自販機でお茶を買ったりして時間を潰す。気がつくと、左腕の時計は午後四時半を指していた。あと三十分だなぁと思っていたとき、人影が扉の向こうに見えた。私は思わず立ち上がり、礼をする準備をする。
「今は礼は結構ですよ。まだ式は始まっていませんから」
扉を開いた女性がやわらかな口調で諭した。彼女は私の横に立つと、バインダーと紙を何枚か渡してきた。
「先にこの書類に記入してください。太枠の中だけで良いので……。書類は入社式始める直前に受け取ります。それと、この冊子は夜間清掃部の……」
彼女が私に一冊の緑の薄いマニュアルを手渡す瞬間、電話が鳴った。それは、第一研修室に備え付けられている受話器からの呼出だった。彼女は受話器を取ると、「えぇっ⁉︎」と驚きを隠せない悲鳴のような声を上げた。
「あの、何か……?」
私は通話を終えた女性に声をかける。彼女は、眉間に皺を寄せ、うーん、と小さく唸った。……なんだか嫌な予感がする。
「樹論さん……でしたよね。落ち着いて聞いていただけますか」
「ええ、聞きますとも」
おかしな返答をしてしまったのだが、彼女も気が動転しているらしく、聞き流されたようだ。
「夜間清掃部ではなく、夜間特別技師として技術部へ来て欲しい、とのことです」
夜間特別技師とは一体なんなのか。私はどんな反応を示せば良いか分からず、「はあ」と声を漏らすだけだ。女性は私の様子を見て、少しだけ冷静になったらしい。
「夜間特別技師のことは今詳しく言えないのですが、夜間清掃部の時給より二百円上がるんです。それだけ特別な職なんですよ」
私は、時給二百円アップという言葉に驚いた。あれだけ苦労していた夜間コンビニアルバイトの時給より六百円近く高いのではないか?しかし、これだけ上がるとなると、危険も伴うのではないのだろうか……?
「夜間特別技師というものは素人でもなれるものなんですか?」
「そうですね、相性次第になりますね。危険は清掃部にもありますし……まあ、でも、樹論さんの意見は尊重されますよ」
女性はそう言いつつも、夜間特別技師になってほしい!といった瞳でこちらを見ている。私はその瞳には訳があるのだろう、と思った。
「分かりました。昔ロボット工学部に所属していましたし、大丈夫だと思います。よろしくお願いします」
私のこの答えに、女性は深く感謝していた。
(ロボット工学と言っても、設計図に従ってハンダ付けしただけなんだけどな……)
彼女は受話器を取り、内線で私の答えを伝える。そこから先はとても早かった。受け取っていた紙を全て回収し、時給と職種を書き換えられた紙が代わりに渡された。そして、"夜間技術部"と書かれた薄いパンフレットのような冊子が手渡された。中を見てみると、簡単な挨拶文と先輩方の写真が載っているだけで特に中身という中身が無い。
募る不安とは裏腹に、入社式は何ごともなく普通に終わったのだった。ドリーミングランドの方針や、挨拶についてなどの説明があったぐらいだろうか。とにかく、何ごともなく閉式した。
閉式後、夜間運営課の八幡さんが挨拶しに来られるということで、私はまたポツンと待つ。今日は振り回される一日だなぁと思い、小さく欠伸をしていると、「やあ」という声が聞こえた。
「君が夜間特別技師に選ばれた、"じゅろん"さんだね?」
「"きろん"です。読みにくいですよね、樹論という苗字珍しいので……」
扉から現れた私よりも背の低い男性は、おそらく八幡さんだろう。少しだけ茶色がかった髪は、規定ギリギリの長さに伸ばされていると思う。それくらい、男性にしては長めだった。
「これは失礼いたしました。僕は八幡 鉄郎。夜間運営課に勤めてます。樹論さんに働いてもらう夜間特別技師は夜間技術部のうちの一つで、その技術部や清掃部なんかをまとめているのが僕らです。分からないことがあれば、僕や技術部の暁さんたちに聞いてね」
八幡さんは胸を張り、私の瞳を見つめる。彼の目はキラキラと子供のように輝いていた。私は、「よろしくお願いします」と言葉を返す。彼は頷き、私に茶封筒を渡した。
「次回の出社は明後日でお願いしているはずだよね。この封筒を出社時に美装部の人に渡してもらえるかな。彼らなら、従業員出入り口からすぐのロッカー室近くにいるから」
受け取った封筒には、美装部宛と書かれている。これを渡してから次回の仕事が始まるのだろう。
夜間特別技師とはどんなものなのだろうか。私は不安と胸の高鳴りを抑えて、入社式の一日を終えた。
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