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第五十二話 偽りの記憶
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料亭『水鏡』の暖簾(のれん)に目を遣り、深く息を吐き出す。
それから、樫山専務にどのような話を持ち出されても大丈夫なように、覚悟を決めて足を踏み出し暖簾をくぐった。
店の中に入り、身分と名前を告げると仲居に部屋まで案内された。
そこは離れのように店の奥に位置する部屋で、他のお客の目に触れることもなく話の内容を聞かれる心配もない場所だった。
部屋の中に入ると、床の間を背にして樫山専務が席に着いていた。そして、座卓の角を挟んで美咲も同席していた。
その様子を見ただけで呼ばれた理由を察した俺は、自分が言うべき言葉を心の中で確かめながら出入り口に近い席に座った。
俺を案内して来た仲居に、食事は話が済んでからにすると伝えて下がらせた樫山専務は、自分の正面の席に座っていた俺を見据えて徐(おもむろ)に話し掛けてきた。
「侘びの言葉はないのかね」
「お詫び、ですか」
樫山専務からの呼び出しが掛かってからここに来るまでの間に、樫山専務が口にしそうな事柄をあれこれと予想していた俺だったが、こういう状況は予想外だったため、演技でもなんでもなく本当に面食らっていた。
「私はがちがちの石頭ではなく、君の話を聞く耳くらい持っているつもりだ。君が正式に詫びを入れて手順を踏むのであれば、これまでの君の行いは不問としよう」
樫山専務から『俺の行いは不問とする』と言われ、美咲に視線を向けると、美咲は今までに見たことがない慈愛に満ちた微笑みを浮かべて俺に向かって小さく頷いた。
美咲のその動作を見て俺は、樫山専務が俺に対し美咲の妊娠について責任を取るように迫っているのだと悟った。
だが、俺には美咲との結婚を望む気持ちは微塵(みじん)もなく、万に一つ、美咲の子供が俺の子だったとしても自分に責任があるとは到底思えなかった。
「私には何について言われているのか、まるで分からないのですが……」
「君は美咲に手を付けて、子供まで作っておきながら、素知らぬ振りをするつもりなのかね」
「尚哉さん。お父様は私とあなたの結婚を反対しているわけではないの。ただ、式を挙げる前に子供を作ってしまったものだから、あなたに一言謝ってほしいと言っているだけなの。お父様のお気持ちは、分かってくれるでしょ」
俺の態度に気色ばんで俺を詰(なじ)った樫山専務を押し留めるように、美咲が貞淑なお嬢様を装い、俺を諭(さと)すように口を差し挟んできた。
そんな美咲の態度に、俺は反吐(へど)が出そうになった。それをなんとか堪え、達樹に助言されたことをできるだけ感情を込めないように言葉にした。
「私と美咲さんの子供とは、何の関わりもありません。ですから、謝れと言われても承服いたしかねます」
「何を言うの。あの時、あなたは真剣に私を求めて、私たちは心から愛し合ったでしょ。忘れてしまったと言うの」
今にも泣き出しそうな様子で、俺に詰め寄る美咲に俺は
“あの行為のどこをとったら、愛し合ったと言えるんだっ”
と怒鳴りつけたい衝動に駆られ、言葉が喉元までせり上がってきた。
だが、それを言うわけにもいかず、グッと飲み込み、代わりにこの場で伝えるべき言葉を紡ぎ出した。
「私には、そんな記憶は一切ありません。美咲さんは、私を他の誰かと取り違えているのではありませんか」
それから、樫山専務にどのような話を持ち出されても大丈夫なように、覚悟を決めて足を踏み出し暖簾をくぐった。
店の中に入り、身分と名前を告げると仲居に部屋まで案内された。
そこは離れのように店の奥に位置する部屋で、他のお客の目に触れることもなく話の内容を聞かれる心配もない場所だった。
部屋の中に入ると、床の間を背にして樫山専務が席に着いていた。そして、座卓の角を挟んで美咲も同席していた。
その様子を見ただけで呼ばれた理由を察した俺は、自分が言うべき言葉を心の中で確かめながら出入り口に近い席に座った。
俺を案内して来た仲居に、食事は話が済んでからにすると伝えて下がらせた樫山専務は、自分の正面の席に座っていた俺を見据えて徐(おもむろ)に話し掛けてきた。
「侘びの言葉はないのかね」
「お詫び、ですか」
樫山専務からの呼び出しが掛かってからここに来るまでの間に、樫山専務が口にしそうな事柄をあれこれと予想していた俺だったが、こういう状況は予想外だったため、演技でもなんでもなく本当に面食らっていた。
「私はがちがちの石頭ではなく、君の話を聞く耳くらい持っているつもりだ。君が正式に詫びを入れて手順を踏むのであれば、これまでの君の行いは不問としよう」
樫山専務から『俺の行いは不問とする』と言われ、美咲に視線を向けると、美咲は今までに見たことがない慈愛に満ちた微笑みを浮かべて俺に向かって小さく頷いた。
美咲のその動作を見て俺は、樫山専務が俺に対し美咲の妊娠について責任を取るように迫っているのだと悟った。
だが、俺には美咲との結婚を望む気持ちは微塵(みじん)もなく、万に一つ、美咲の子供が俺の子だったとしても自分に責任があるとは到底思えなかった。
「私には何について言われているのか、まるで分からないのですが……」
「君は美咲に手を付けて、子供まで作っておきながら、素知らぬ振りをするつもりなのかね」
「尚哉さん。お父様は私とあなたの結婚を反対しているわけではないの。ただ、式を挙げる前に子供を作ってしまったものだから、あなたに一言謝ってほしいと言っているだけなの。お父様のお気持ちは、分かってくれるでしょ」
俺の態度に気色ばんで俺を詰(なじ)った樫山専務を押し留めるように、美咲が貞淑なお嬢様を装い、俺を諭(さと)すように口を差し挟んできた。
そんな美咲の態度に、俺は反吐(へど)が出そうになった。それをなんとか堪え、達樹に助言されたことをできるだけ感情を込めないように言葉にした。
「私と美咲さんの子供とは、何の関わりもありません。ですから、謝れと言われても承服いたしかねます」
「何を言うの。あの時、あなたは真剣に私を求めて、私たちは心から愛し合ったでしょ。忘れてしまったと言うの」
今にも泣き出しそうな様子で、俺に詰め寄る美咲に俺は
“あの行為のどこをとったら、愛し合ったと言えるんだっ”
と怒鳴りつけたい衝動に駆られ、言葉が喉元までせり上がってきた。
だが、それを言うわけにもいかず、グッと飲み込み、代わりにこの場で伝えるべき言葉を紡ぎ出した。
「私には、そんな記憶は一切ありません。美咲さんは、私を他の誰かと取り違えているのではありませんか」
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