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木枯らし一号
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「咳(せき)をしても一人」という尾崎放哉(ほうさい)の名句がある。
あたしは、風邪をこじらせて、咳だけ残ってしまい、苦しんでいた。
2DKのワンルームではひとしお、孤独感が増す。
須川クリニックと印刷されているクスリ袋を手に取り、「ニポラジン」の赤いシートを取り出す。
この錠剤は抗ヒスタミン剤の一種で、喘息性の咳の発作に効くのだった。
「綾鷹(あやたか)」でニポラジンを服用し、また横になった。
横になると気道が締まるのか、また咳き込む。
ゴホ、ゴホ…
「あ~あ」
浅草の演芸場には咳を薬で抑えて、なんとか穴をあけないで来ることができた。
相方の先輩、小山節生も狭心症の発作に怯えながら、どうにか耐えてくれている。
コンビ「パロル」は青息吐息で低空飛行していたのだった。
受けないが、熱心なファンは何人かいてくれている。
その人達のおかげで、あたしたちは永らえていられのだった。
太郎さんの食堂で遅い昼を食べた。
客は一人もいなかった。準備中だったようだ。
「なんだい?こんな時間に」
太郎さんがいぶかしんだけど、目は優しく笑っていた。
読みかけの新聞をたたみながら、
「なんにする?なめろうはどうだい?」
「そうね、いただこうかしら」
「砂肝のいいのがあるんだ、焼いてあげよう」
「おねがいします」
トントントンとまな板の上で鯵が叩かれ、キラキラ光る「なめろう」に仕上がっていった。
「はいどうぞ。ビールは?」
「いります。ビンでいいから」
「はいよ」
ビールで景気付けてから舞台に上がるのが常になっていた。
形だけは、もういっぱしの浅草芸人だった。
今年(2008年)は日本はノーベル賞ラッシュに沸いた。
南部陽一郎博士、小林誠博士、益川敏英博士、下村脩博士だった。
あたしのネタ帳に一応、書いてあった。
ビールを傾けながら、ペラペラとページをめくる。
「ねぇ、太郎さん、クォークってなんだか知ってる?」
「知らないね。ノーベル賞もらった先生が研究してんだろ?おいらにゃわかんねぇよ」
「あたしもね、漫談に取り入れようと思って調べてんだけど、難しすぎてわかんないの」
「やめとけ、やめとけ。そんな堅い話、受けねぇよ。浅草じゃ」
砂肝が煙を上げてフライパンを転がっている。
芳ばしい香りが漂ってくる。
柚子胡椒だろうか?
関西の芸人さんと一緒になることがあった。
あの方たちは普段と舞台の上の差がほとんどない。
いつもハイテンションだった。
もっとも「のりお・よしお」さんたちは、オフのときは物静かで、あまり仕事の話をしなかったけれど。
よく呑み、よく食べるのは共通していた。
そんなおり、島田紳助のブラックな噂がよく耳に入った。
文字通り怖い人だそうだ。
あたしもマネージャーさんを怒鳴りつけているのを聞いたことがあった。
フジテレビの番組で、うちの社長の櫓(やぐら)さんのカバン持ちで同行したときのことだった。
ああいう人は芸能界にたくさんいて、傍若無人に振る舞うのを売れっ子のステータスと勘違いしているのだろう。
不愉快極まりないことだ。
ADとかスタッフも腫れ物に触るような態度で卑屈だった。
「紳助って嫌な感じ」
「ああ、おれもあいつの番組は見ない。大阪の人間自体が好きくねぇ」
「やっぱり…あたしも」
カウンターの隅に無造作に置いてあったスポーツ紙に彼の顔写真があったから、そんな話題になってしまった。
焼き立ての砂肝とササニシキのご飯で満足した。
味噌汁はなんとカニ汁だった。
季節だなぁ。
「ごちそうさま」
「どういたしまして。今日は何時から?」
「十八時開演」
「じゃ、がんばって」
「ありがとう」
あたしは、お勘定をして、木枯らし一号の吹く街に出た。
あたしは、風邪をこじらせて、咳だけ残ってしまい、苦しんでいた。
2DKのワンルームではひとしお、孤独感が増す。
須川クリニックと印刷されているクスリ袋を手に取り、「ニポラジン」の赤いシートを取り出す。
この錠剤は抗ヒスタミン剤の一種で、喘息性の咳の発作に効くのだった。
「綾鷹(あやたか)」でニポラジンを服用し、また横になった。
横になると気道が締まるのか、また咳き込む。
ゴホ、ゴホ…
「あ~あ」
浅草の演芸場には咳を薬で抑えて、なんとか穴をあけないで来ることができた。
相方の先輩、小山節生も狭心症の発作に怯えながら、どうにか耐えてくれている。
コンビ「パロル」は青息吐息で低空飛行していたのだった。
受けないが、熱心なファンは何人かいてくれている。
その人達のおかげで、あたしたちは永らえていられのだった。
太郎さんの食堂で遅い昼を食べた。
客は一人もいなかった。準備中だったようだ。
「なんだい?こんな時間に」
太郎さんがいぶかしんだけど、目は優しく笑っていた。
読みかけの新聞をたたみながら、
「なんにする?なめろうはどうだい?」
「そうね、いただこうかしら」
「砂肝のいいのがあるんだ、焼いてあげよう」
「おねがいします」
トントントンとまな板の上で鯵が叩かれ、キラキラ光る「なめろう」に仕上がっていった。
「はいどうぞ。ビールは?」
「いります。ビンでいいから」
「はいよ」
ビールで景気付けてから舞台に上がるのが常になっていた。
形だけは、もういっぱしの浅草芸人だった。
今年(2008年)は日本はノーベル賞ラッシュに沸いた。
南部陽一郎博士、小林誠博士、益川敏英博士、下村脩博士だった。
あたしのネタ帳に一応、書いてあった。
ビールを傾けながら、ペラペラとページをめくる。
「ねぇ、太郎さん、クォークってなんだか知ってる?」
「知らないね。ノーベル賞もらった先生が研究してんだろ?おいらにゃわかんねぇよ」
「あたしもね、漫談に取り入れようと思って調べてんだけど、難しすぎてわかんないの」
「やめとけ、やめとけ。そんな堅い話、受けねぇよ。浅草じゃ」
砂肝が煙を上げてフライパンを転がっている。
芳ばしい香りが漂ってくる。
柚子胡椒だろうか?
関西の芸人さんと一緒になることがあった。
あの方たちは普段と舞台の上の差がほとんどない。
いつもハイテンションだった。
もっとも「のりお・よしお」さんたちは、オフのときは物静かで、あまり仕事の話をしなかったけれど。
よく呑み、よく食べるのは共通していた。
そんなおり、島田紳助のブラックな噂がよく耳に入った。
文字通り怖い人だそうだ。
あたしもマネージャーさんを怒鳴りつけているのを聞いたことがあった。
フジテレビの番組で、うちの社長の櫓(やぐら)さんのカバン持ちで同行したときのことだった。
ああいう人は芸能界にたくさんいて、傍若無人に振る舞うのを売れっ子のステータスと勘違いしているのだろう。
不愉快極まりないことだ。
ADとかスタッフも腫れ物に触るような態度で卑屈だった。
「紳助って嫌な感じ」
「ああ、おれもあいつの番組は見ない。大阪の人間自体が好きくねぇ」
「やっぱり…あたしも」
カウンターの隅に無造作に置いてあったスポーツ紙に彼の顔写真があったから、そんな話題になってしまった。
焼き立ての砂肝とササニシキのご飯で満足した。
味噌汁はなんとカニ汁だった。
季節だなぁ。
「ごちそうさま」
「どういたしまして。今日は何時から?」
「十八時開演」
「じゃ、がんばって」
「ありがとう」
あたしは、お勘定をして、木枯らし一号の吹く街に出た。
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