上 下
6 / 12

木枯らし一号

しおりを挟む
「咳(せき)をしても一人」という尾崎放哉(ほうさい)の名句がある。

 あたしは、風邪をこじらせて、咳だけ残ってしまい、苦しんでいた。



 2DKのワンルームではひとしお、孤独感が増す。

 須川クリニックと印刷されているクスリ袋を手に取り、「ニポラジン」の赤いシートを取り出す。

 この錠剤は抗ヒスタミン剤の一種で、喘息性の咳の発作に効くのだった。



「綾鷹(あやたか)」でニポラジンを服用し、また横になった。

 横になると気道が締まるのか、また咳き込む。

 ゴホ、ゴホ…



「あ~あ」

 浅草の演芸場には咳を薬で抑えて、なんとか穴をあけないで来ることができた。

 相方の先輩、小山節生も狭心症の発作に怯えながら、どうにか耐えてくれている。



 コンビ「パロル」は青息吐息で低空飛行していたのだった。



 受けないが、熱心なファンは何人かいてくれている。

 その人達のおかげで、あたしたちは永らえていられのだった。



 太郎さんの食堂で遅い昼を食べた。

 客は一人もいなかった。準備中だったようだ。

「なんだい?こんな時間に」

 太郎さんがいぶかしんだけど、目は優しく笑っていた。

 読みかけの新聞をたたみながら、

「なんにする?なめろうはどうだい?」

「そうね、いただこうかしら」

「砂肝のいいのがあるんだ、焼いてあげよう」

「おねがいします」

 トントントンとまな板の上で鯵が叩かれ、キラキラ光る「なめろう」に仕上がっていった。

「はいどうぞ。ビールは?」

「いります。ビンでいいから」

「はいよ」

 ビールで景気付けてから舞台に上がるのが常になっていた。

 形だけは、もういっぱしの浅草芸人だった。



 今年(2008年)は日本はノーベル賞ラッシュに沸いた。

 南部陽一郎博士、小林誠博士、益川敏英博士、下村脩博士だった。

 あたしのネタ帳に一応、書いてあった。

 ビールを傾けながら、ペラペラとページをめくる。



「ねぇ、太郎さん、クォークってなんだか知ってる?」

「知らないね。ノーベル賞もらった先生が研究してんだろ?おいらにゃわかんねぇよ」

「あたしもね、漫談に取り入れようと思って調べてんだけど、難しすぎてわかんないの」

「やめとけ、やめとけ。そんな堅い話、受けねぇよ。浅草じゃ」

 砂肝が煙を上げてフライパンを転がっている。

 芳ばしい香りが漂ってくる。

 柚子胡椒だろうか?



 関西の芸人さんと一緒になることがあった。

 あの方たちは普段と舞台の上の差がほとんどない。

 いつもハイテンションだった。

 もっとも「のりお・よしお」さんたちは、オフのときは物静かで、あまり仕事の話をしなかったけれど。

 よく呑み、よく食べるのは共通していた。



 そんなおり、島田紳助のブラックな噂がよく耳に入った。

 文字通り怖い人だそうだ。

 あたしもマネージャーさんを怒鳴りつけているのを聞いたことがあった。

 フジテレビの番組で、うちの社長の櫓(やぐら)さんのカバン持ちで同行したときのことだった。

 ああいう人は芸能界にたくさんいて、傍若無人に振る舞うのを売れっ子のステータスと勘違いしているのだろう。

 不愉快極まりないことだ。

 ADとかスタッフも腫れ物に触るような態度で卑屈だった。



「紳助って嫌な感じ」

「ああ、おれもあいつの番組は見ない。大阪の人間自体が好きくねぇ」

「やっぱり…あたしも」

 カウンターの隅に無造作に置いてあったスポーツ紙に彼の顔写真があったから、そんな話題になってしまった。



 焼き立ての砂肝とササニシキのご飯で満足した。

 味噌汁はなんとカニ汁だった。

 季節だなぁ。



「ごちそうさま」

「どういたしまして。今日は何時から?」

「十八時開演」

「じゃ、がんばって」

「ありがとう」

 あたしは、お勘定をして、木枯らし一号の吹く街に出た。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

復讐の旋律

北川 悠
ミステリー
 昨年、特別賞を頂きました【嗜食】は現在、非公開とさせていただいておりますが、改稿を加え、近いうち再搭載させていただきますので、よろしくお願いします。  復讐の旋律 あらすじ    田代香苗の目の前で、彼女の元恋人で無職のチンピラ、入谷健吾が無残に殺されるという事件が起きる。犯人からの通報によって田代は保護され、警察病院に入院した。  県警本部の北川警部が率いるチームが、その事件を担当するが、圧力がかかって捜査本部は解散。そんな時、川島という医師が、田代香苗の元同級生である三枝京子を連れて、面会にやってくる。  事件に進展がないまま、時が過ぎていくが、ある暴力団組長からホワイト興産という、謎の団体の噂を聞く。犯人は誰なのか? ホワイト興産とははたして何者なのか?  まあ、なんというか古典的な復讐ミステリーです…… よかったら読んでみてください。  

四次元残響の檻(おり)

葉羽
ミステリー
音響学の権威である変わり者の学者、阿座河燐太郎(あざかわ りんたろう)博士が、古びた洋館を改装した音響研究所の地下実験室で謎の死を遂げた。密室状態の実験室から博士の身体は消失し、物証は一切残されていない。警察は超常現象として捜査を打ち切ろうとするが、事件の報を聞きつけた神藤葉羽は、そこに論理的なトリックが隠されていると確信する。葉羽は、幼馴染の望月彩由美と共に、奇妙な音響装置が残された地下実験室を訪れる。そこで葉羽は、博士が四次元空間と共鳴現象を利用した前代未聞の殺人トリックを仕掛けた可能性に気づく。しかし、謎を解き明かそうとする葉羽と彩由美の周囲で、不可解な現象が次々と発生し、二人は見えない恐怖に追い詰められていく。四次元残響が引き起こす恐怖と、天才高校生・葉羽の推理が交錯する中、事件は想像を絶する結末へと向かっていく。

リモート刑事 笹本翔

雨垂 一滴
ミステリー
 『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。  主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。  それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。  物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。  翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?  翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!

仏眼探偵 ~樹海ホテル~

菱沼あゆ
ミステリー
  『推理できる助手、募集中。   仏眼探偵事務所』  あるとき芽生えた特殊な仏眼相により、手を握った相手が犯人かどうかわかるようになった晴比古。  だが、最近では推理は、助手、深鈴に丸投げしていた。  そんな晴比古の許に、樹海にあるホテルへの招待状が届く。 「これから起きる殺人事件を止めてみろ」という手紙とともに。  だが、死体はホテルに着く前に自分からやってくるし。  目撃者の女たちは、美貌の刑事、日下部志貴に会いたいばかりに、嘘をつきまくる。  果たして、晴比古は真実にたどり着けるのか――?

はばたいたのは

HyperBrainProject
ミステリー
連続殺人事件発生―― 担当は川村正義35歳、階級は警部補。必死の捜査にも関わらず中々犯人の足取りを掴む事が出来ず行き詰まっていた矢先、部下であり相棒が被害者に……。 それにより本腰を上げた上層部が取った行動は、警視庁からの人員の派遣だった―― 今、この難事件を解決するが為に派遣された九条正美を新たに相棒に迎え、正義は事件解決に挑む。

影蝕の虚塔 - かげむしばみのきょとう -

葉羽
ミステリー
孤島に建つ天文台廃墟「虚塔」で相次ぐ怪死事件。被害者たちは皆一様に、存在しない「何か」に怯え、精神を蝕まれて死に至ったという。天才高校生・神藤葉羽は、幼馴染の望月彩由美と共に島を訪れ、事件の謎に挑む。だが、彼らを待ち受けていたのは、常識を覆す恐るべき真実だった。歪んだ視界、錯綜する時間、そして影のように忍び寄る「異形」の恐怖。葉羽は、科学と論理を武器に、目に見えない迷宮からの脱出を試みる。果たして彼は、虚塔に潜む戦慄の謎を解き明かし、彩由美を守り抜くことができるのか? 真実の扉が開かれた時、予測不能のホラーが読者を襲う。

硝子のカーテンコール

鷹栖 透
ミステリー
七年前の学園祭。演劇部のスター、二階堂玲奈は舞台から転落死した。事故として処理された事件だったが、七年の時を経て、同窓会に集まったかつての仲間たちに、匿名の告発状が届く。「二階堂玲奈の死は、あなたたちのうちの一人による殺人です。」 告発状の言葉は、封印されていた記憶を解き放ち、四人の心に暗い影を落とす。 主人公・斎藤隆は、恋人である酒井詩織、親友の寺島徹、そして人気女優となった南葵と共に、過去の断片を繋ぎ合わせ、事件の真相に迫っていく。蘇る記憶、隠された真実、そして、複雑に絡み合う四人の関係。隆は、次第に詩織の不可解な言動に気づき始める。果たして、玲奈を殺したのは誰なのか? そして、告発状の送り主の目的とは? 嫉妬、裏切り、贖罪。愛と憎しみが交錯する、衝撃のミステリー。すべての謎が解き明かされた時、あなたは、人間の心の闇の深さに戦慄するだろう。ラスト数ページのどんでん返しに、あなたは息を呑む。すべての真相が明らかになった時、残るのは希望か、それとも絶望か。

時の呪縛

葉羽
ミステリー
山間の孤立した村にある古びた時計塔。かつてこの村は繁栄していたが、失踪事件が連続して発生したことで、村人たちは恐れを抱き、時計塔は放置されたままとなった。17歳の天才高校生・神藤葉羽は、友人に誘われてこの村を訪れることになる。そこで彼は、幼馴染の望月彩由美と共に、村の秘密に迫ることになる。 葉羽と彩由美は、失踪事件に関する不気味な噂を耳にし、時計塔に隠された真実を解明しようとする。しかし、時計塔の内部には、過去の記憶を呼び起こす仕掛けが待ち受けていた。彼らは、時間が歪み、過去の失踪者たちの幻影に直面する中で、次第に自らの心の奥底に潜む恐怖と向き合わせることになる。 果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。

処理中です...