バレリーナの夫

海山堂

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バレリーナの夫

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 髪をシニヨンに束ねた二人の女の子が手を繋いで、公園を渡って行った。一人は七つか八つくらい、もう一人は五つか六つくらいの、色の白い女の子だった。二人は姉妹なのかと、背格好は違っていても同じ髪型と同じ化粧とで整えられた顔がそっくりなので、そう思った。
 公園の先にあるビルの一室に、女の子たちが通うバレエ教室がある。そのビルと道を隔てた並びに、この町でいちばん大きな市民病院があった。ちいさなバレリーナたちを見送ると、姉は病院の門をくぐった。悪性腫瘍におかされた二つ年下の妹を、これから見舞うところだった。
「りんごとバナナと桃のかんづめと、それから秋谷のいちごジャムね。でもジャムなんて食べていいのかしら。まぁ、いいのよね、あなた好きだから。」と、姉はせわしなく買い物をならべはじめている。
「お姉ちゃん、しまっておいてよ。そんなとこに出されても困るからさ。」と、妹はそんな姉にそっけない。
「それとね、櫛の歯がもう欠けちゃってるでしょう。これね、つげのブラシと櫛のセット。櫛のほうはつげじゃなくてヒノキでできてるみたいなんだけど。」
「私が新しいのもらってもしょうがないわ。お姉ちゃん使ってよ。」
「自分のために買ったんじゃないんだから、だめよ。ずっと寝てると癖がついちゃうでしょう。これでちゃんと梳いてあげてね。」
「いいのに櫛なんて。もうすぐ梳く髪なんてなくなっちゃうんだから。」
 バレリーナだった妹は背筋の通った細身で、長くしなやかな脚は姉から見ても憎らしいほどに美しかった。それが今では病の衰えのために、青白い瘦せぎすの小枝のような心細さだ。この頃は、病室で姉妹の会話が途切れたりすると、姉は横たわる妹の脚をさすってやるのが日課のようになっていた。そうしてやりながら、かかとの浮いた甲高でつま先立ちに歩く、在りし日の妹を思い浮かべることもあった。
 姉も妹と一緒にバレエを学んだのだった。ただ、かよわくできた妹がまだ若いうちにバレエを辞めたのにくらべて、図太くできたものかもしれない姉は、まだバレエを続けていた。しかし、バレリーナというのではなく、ショーガールという仕事柄である。踊りの方ももはやバレエというものでもなかったが、姉は今でもバレエのレッスンを休まず続けているのだった。
 今、姉は妹のトゥシューズを履いている自分が、なんだかおかしかった。子供の頃の昔なら、妹は姉のおさがりを受けて、泣いているようなこともあった。それが今では妹のトゥシューズを姉である自分が履いて、それがなんだか悲しいようなおかしさだった。
「お姉ちゃん、いつまでいるの?もうごはんの時間でしょ。さっさと帰った帰った。」と、妹が窓の外を見ながら言った。
「そうね、もうそろそろいい時間ね。ごめんごめん。」
 からだが利かなくなってからの方がむしろ、妹は姉の世話に対してつっけんどんに物を言うようになってきた。甘えにも遠慮がなくなって、ますます図々しく、しつけのされていない子供のようだった。姉はこれから帰って、妹の夫のために夕飯を支度するのだ。
 妹の夫はどこを取っても平凡という切り口しかないような男だった。バレリーナの夫にはまったくふさわしくない風貌と押し出しの弱さばかりとが目についた。だが、妹の結婚相手に、周りからつまらぬものと見られたこの男が推されたのには、姉の一声が大きかった。
 巷の水商売に身をやつしたような暮らしぶりが長い姉だった。もとよりの世話好きという性質も災いしてか、男で苦労をしてきた節もあった。結婚などというあこがれを遠い昔に思ったようなこともあったけれど、男が自分の上を通り過ぎてゆくたび、いつしか姉にそんな甘い感傷は、うつつのまぼろしと思われるのが当たり前となっていた。だからというべきなのか、かよわくできた妹のしあわせには、乱暴なものを一切遠ざけたいという気持ちが姉に強かったのだ。それで選ばれるようにして前に押し出されてきたのが、今の夫というわけだった。
「寡黙で、誠実そうで、亭主の鑑みたいないい人じゃないの。」と、姉はよく知った風に語ったものだ。妹のしあわせは、姉にとってはかけがえのない宝ものだった。姉は自分がしあわせそのものになれなくとも、ためつすがめつできる妹のしあわせをよりどころに、救われる思いがあったのだ。
 ところが、結婚してまもなくから妹は、姉に不平不満をこぼすようになった。夫の男としてのあまりの平凡が、不甲斐なさが、物足りないのだとかいうらしい。しかし、姉には妹がまくし立てる愚痴のたぐいが、夫婦間のたやすい倦怠としか映らない。結婚というしあわせを放棄することはしないで、夫を罵ることができるとはなんという贅沢だろうと、妹に言ってやりたかった。絶えずよどみに浮かぶ泡のような暮らしをしてきた姉にとっては、つまりそうした平凡と安定とが、女のいちばんのしあわせと思うのだった。
 だが病を患ってから妹は、ますます夫を遠ざける風だった。まるで感染を怖れるよそよそしさで、病をいいわけに夫と距離を置こうとするのである。そろそろ入院が始まるという頃に、妹はよく姉の家へ来て寝泊まりしていった。
 よく眠る妹の寝顔を見下ろして、姉はふと、
「寝てる時まで、そんなむずかしい顔しなくていいの……。」と、幼い子に話しかけるような自分に気がついて、はっとすることもあった。
 たしかに病状が進むほど、妹はだんだんと幼くなっていくようだった。
 抗がん剤治療がはじまると、妹の髪はだんだんと抜け落ちた。妹より姉の方が、バンダナやコットン帽子では病人のように見えるからと嫌って、元の髪の色に近いウィッグを探し回ったりした。この頃には悪心で胸がむかむかするからと、見舞いに行っても帰されることがたびたびあった。毎日風呂に入ることもできないので、病室は汗の臭いと薬の臭いとでむせ返る。血の気も失せて、見る見るやせ細っていく妹のかよわさは、今にもぽっきりと折れてしまいそうだった。そんな姿を見て心細くなってくるのか、姉は妹に化粧をしてやるつもりで、道具をひとそろい持ち込んできた。
「お化粧ぐらい自分でできるわよ。」と、妹はまた姉のお節介にあきれて言うのだが、その頃にはもう患者は末期だった。
 病室の窓からは、空が高くなった秋が見える。姉は妹の抜け落ちた眉の上にきれいな眉を描きこんだ。それからまつ毛のなくなった瞼を閉じさせると、そのまなじりから薄墨を二本引いた。こうすると、遠目からでもつけまつ毛をしているみたいに瞳が大きく見える。姉のこころに、幼い妹へ舞台化粧をしてやった時のことが思い出された。妹はわずか二つ下なのに、こんなにちいさい。こんなにちいさいということが、姉には途方もない哀しみに思われてきた。ふと、涙がこみあげた。
 そして妹は自分の夫に、何を遺して死んでゆくのだろうかと、姉は思いをめぐらせるのだった。瞼を閉じて無心に化粧をされるのを待つちいさな妹の姿を、姉は妹の夫に見せてやりたいと思った。妹の夫は、妹のうちにあるちいさきものを知ることもなく見送るつもりなのかと、姉はまた心細くなるのだった。
 妹が夫と二人で暮らす台所で、姉は妹の夫のために夕飯をこしらえるのだ。はじめは夕飯を作り置きしておくだけだったのを、この頃ではひとりで食べさせておくのも不憫に思って、食卓に向かい合う夜もあった。一緒に箸を運びながら、妹はこの夫と向かい合って、何を交わし合っていたのかと思う。どうかすると自分の夫を愚にもつかない男と罵るようになった妹は、この夫に何を望んでいたのだろうかと思うのだ。
 だが、不思議なことに、妹はいよいよ起き上がれなくなると、急に夫をそばへ呼び寄せるようになった。夫が休みの日などには一日中、病室で手を握り合って離さないこともあった。
「ねぇ、明日は何時に来てくれるの?」
「明日は何時?」
「明日は?」
 と、妹は甘えた声で夫にせがむばかりなのだ。家に引きこもりがちな夫はこれで、のべつ幕なしの出番だった。すると、姉は病室から追いやられるように、妹の家で妹の夫を待つことが多かった。
 台所に立っていると、背中で妹の夫の帰りが知れるようになった。
「おかえりなさい。」と、姉は妹の夫を出迎えるのだ。妹の夫はかしこまって、「ただいま。」と一言だけ言うと、あとはうつむいてしまう。妹と二つしか変わらない姉は、背格好や髪型や化粧や台所に立っている華奢な背中などが、どれも妹の姿なのだった。妹の夫の目には姉が、どうしようもなく妻に見えて来て、胸を突かれるのだ。
 姉は病院からまっすぐに、妹の家へ帰るようになった。もうなんの迷いもない足取りで、我が家のように帰ってゆく。そして夕飯をすませると、今度はほんとうの我が家へとまっすぐに帰ってゆく。
 その日は、雨が朝から降り続いていた。台風が近づいているというニュースを知ってはいたけれども、すでに町の半分は暗い雲の底に飲まれていた。雨が降り止むのを待っていると、朝を迎えることになる。バッグにしのばせた折りたたみ傘をたしかめると、姉は妹の家を駆け出して行った。
 駅まではそう遠くはなかった。車を呼んでもよかったのだが、これくらいならと雨の中をゆくことにした。しかしすぐに、雨足は姉の背中を追うように駆けて来た。
「おねえさん。」と、呼びかける声があった。
 足を止めて、だが振り返らないでいると、
「ゆり子さん。」と、今度はたしかに自分の名前を呼ばれて、姉は振り返った。
「すみません、お義姉さんと呼んだんですが、この雨だから、聞こえていないのかと思って……。」
 吹きさらしの雨を浴びて、妹の夫はまっすぐに姉を見つめていた。
 姉は釘づけにされたように立ち尽くして、ここまで小走りで来たから、息が弾んでいた。そうして雨音のひと呼吸ほどの間合いをはさんで、二人はどちらからともなく身を寄せ合った。
 雨宿りの木陰で、姉は妹の夫の胸に抱かれた。抱かれながら姉は、このひとの何処にこんな強さがあったのかと思った。からだの力が抜けて、支えられていないと、奈落まで沈んでしまいそうだった。
 今こうしているうちにも、妹は死にかけているー。
 死に近づくにつれてどんどん幼くなっていく妹の姿が、姉をよぎった。
 このひとは、この腕の強さで、妹を抱きしめてきたのか。
「愛しています。僕もゆり子さんと同じ気持ちです。」と、男はきっぱり言って、
「もう帰らないでください。」と、肩を強く抱き寄せた。
 妹の代役を、姉である自分がいつも引き受けてきたと考えていた。しかし、ほんとうは自分の代役を妹に担わせてきたのではなかったかと、ふと姉に思われた。よろこびともかなしみともつかない涙が、溢れてくるのだった。
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