漱石先生たると考

神笠 京樹

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明治編・8

第29話 虚子の帰郷

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 さて金之助は松山に戻って来た。神戸で一日観光をしていたら新学期に間に合わなくなり、始業式は欠席するはめになった。金之助は松山での暮らしを色々な意味で厭うようになっていた。子規と文通しているのだが、そこに「日々東京へ戻りたくなるのみ」などと記す。理由は色々あるだろうが、最大の理由は鏡子の存在であろう。もう年度明けが近いということもあろうが、金之助はどうしても松山で所帯を構える気にはならないのだった。そういうわけで、なんとか東京に職を得られないものかと、金之助は就職活動を始めた。

「夏目先生、今日は」

 高浜虚子がまた松山に帰郷した。今度は兄の病のためということで、しばらく滞在するという。

「その後、『たると』の御研究はどうなっておられます?」
「ああ、幸いにして、久松伯爵の知遇を得ることができてね。書庫に出入りさせてもらっている。なかなか、これという典籍には巡り合っていないが」

 菅五郎左衛門の日記が空振りに終わってから、どうにもめぼしい収穫には出会えていない金之助である。置かれている史料の数が多すぎて、探すこと自体が一苦労ということもあった。

「ところで、これから道後へ行かんか」
「いいですね。今日はお供させていただきます」

 そういうわけで、いつも通り八銭を払って、温泉に浸かって三階へ上がる。ちなみに虚子は子規とは違い、自分の風呂代は自分で払った。金之助は奢ろうとしたのだが、遠慮された。これは子規の行動の方がおかしいのであるが、ちょっと妙な心持のする金之助であった。

「そういや、鮒屋が西洋料理を売り出したそうじゃないか。行ってみようかね」
「そうなんですか。松山で西洋料理とは珍しい」

 そういうわけで、行ってみた。メニューには墨痕淋漓『ビーフステーキ』と記されている。ふたりでそれを食った。金之助は西洋料理に慣れているからまあまあの味だと感心しているが、ビーフステーキなんていうものは初めて食べる虚子の方はだいぶ苦戦して、目を白黒させていた。

 それから愚陀仏庵に帰ったら、手紙が届いていた。大学時代の友人で、いまは熊本の第五高等学校というところに勤めている菅虎雄すがとらおからのものなのだが、「松山に愛想が尽きたのなら、第五高等学校に講師として来ないか。月給は百円出る」という話であった。

「く、熊本か……ううむ」

 月給百円は魅力的ではあったが、熊本では松山よりもっと鏡子が遠くなる。金之助は悩んだ。とりあえず、返事は保留させてもらうことにした。

「御邪魔いたします」

 金之助は久松家にやってきて、いつものように書庫に入れてもらった。本を探す。

「ん?」

 古い本が束になっている中に、『安久庵由緒書』なる一書があった。

「こんなところに、あの店の記録が。面白いな。確か、あの店は正保年間の創業と言ったよな。借りてゆくか」
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