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正保編・陸
第二十六話 安左衛門たると
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安左衛門のたるとは、当然の手続きとして勘之丞が試食をし、それから菅五郎左衛門のところへ持ち込まれた。
「うむ。まだ結果が出たわけではないが……確かに、黄色く、酸く、甘く、そしてかすていらの巻いたものであるな。よくぞ、ここまでの儀を成し遂げた。美事、と言ってやりたいところじゃ。まあ、わしがそう言ったところで何にもならんのだがの」
ここまで来たら、次は奥平藤左衛門も試しをする番である。筆頭家老からは特に何の言葉もなかった。であるから、正月朔日の昼餉の菓子として、安左衛門のたるとがついに献ぜられることとなった。
安左衛門は三日の前から一切の飲食を絶ち、材料一式を城に持ち込んで準備をし、その日を迎えようとしていた。ここまで一睡もしていなかった。
「おい、そろそろ除夜の鐘が鳴り始めるぞ。せめて少し休んだらどうだ」
と、仲の良い同僚に言われるのだが。
「眠らないのではござらん。眠れないのでござる」
たるとは時間を置いた方が風味が増すので、そろそろ準備にかかる頃合いである。甘煮の方はもう出来上がっている。真っ青な顔をしてかすていらを焼く安左衛門を、その同僚や仲間たちが心配げな顔をして見守っていた。
一方、定行である。彼はといえば、殿様だとて正月は正月なので普段よりは少しは気を抜いて寛いでいた。この日の昼、食膳に『たると』が供されることになることは事前に知らされているので、それも楽しみに待っていた。
「お食事の刻限に御座います!」
そして、安左衛門のたるとが来た。
その『たると』を見て、定行はまず何と思ったか。それは、色が白かった。かすていらと同じ塩梅で焼く以上は生地に焼き色が付くのだが、安左衛門は自ら工夫して、その焼き目を内側に巻き込んでいた。だから表面は白く見える。しかし定行がポルトガル船の上で食べたTORTAは焼き目を外にして巻いてあったので、色が茶色だった。まずその点が違った。
「……」
定行は、たるとに箸を伸ばした。そして口に含む。
「……」
定行は一箸取ったたるとの半分を咀嚼し、残りを膳に戻した。傍に控えている奥平も、小姓たちも、ここまでどういういきさつがあってこういう事情になっているのか知らぬ者はないので、みな色めき立った。食膳は、担当の者の手で下げられた。貴人の食膳というのは一箸付けたら下げるのがお定めなのだからどうしようもない。
「ううむ……」
と、定行は絞り出すように呻いた。みながさらに色めき立った。何人かは青くなっている。
「畏れながら、御不審の状が御座いましたでしょうや」
奥平も、これはえらいことになったと内心思いつつ、背中に冷や汗をかきながらそう問いを発する。
「違う……」
結論から言えば、安左衛門が半年もかけて苦心惨憺の末に作り上げたたるとは、定行の記憶の中のたるととは「異なるもの」であった。そう、「異なる」のである。定行はいま、こう思っている。
(これはこれで、うまい菓子だ。だが、違う。違うのだ。見た目も違えば、味も違うのだ)
無慈悲な話ではあるが、当たり前である。味見していないどころか見たことも無いものを、唯一その味を知っている当の本人に詳しく確認すらせずに徒手空拳で再現しようとして、そっくりそのまま再現できるはずなど、無かったのであった。ここでたねを明かせば、あのとき定行がポルトガル船の上で食べた菓子は『トルタ・デ・ラランジャ』というものであった。オレンジのマーマレードを巻き込んだロールケーキである。それなら柚子で作っても決定的な差は出ないと思われるかもしれないが、船上のトルタ・デ・ラランジャにあって、安左衛門たるとにはなかった決定的な違いというのは、オヴォシュ・クリームの存在である。オヴォシュ・クリームは卵黄を練って砂糖を加えて作るもので、当然色はオレンジと同じように黄色い。だから定行はTORTAが「卵黄を利かせた菓子」であるということにまでは思い至らなかった。思い至らず、伝えていないのだから、安左衛門にその部分を再現できないのは当然であった。
しかし、定行はここでようやく、自分が何をしでかしたかということに思い至った。このままだと、これを作った名も知らぬ包丁侍と、責任者の御膳番と、それからこの件の担当になっている家老、その三人が腹を切るであろう。腹までは切らなくてもよい、と自分が言っても駄目だ。侍の誇りと節義はそんなに安くはないのである。というか、この事態を招いたのは自分であるのだから、自分がその三人を殺すも同然だ。なんとかせねばならぬ。なんとかせねば。自分は伊予松山藩十五万石の太守、神君家康の実の甥である。なんとかせずにおれるものか。そういうわけで、苦渋の末、定行はやっとの思いで見つけた言葉を口に出した。
「よき菓子であった。だが」
「ははっ」
「これは……このたるとは、柚子の菓子であるな」
「然様に御座いまする」
「たれか、答えよ。柚子の旬はいつか?」
小姓のひとりが答えた。
「は。冬にて御座いまする」
今は冬である。旬ではない食材を出した事に対する咎め立て、ではあり得ない。では定行は何を言おうとしているのか?
「余はたるとを、年中を通じて用いられる、伊予松山の名産としたい」
おおっ、と声が上がった。
「まこと、御美事なる御案談と存じまする」
と言ったのは奥平である。
「されば」
「はっ」
「今後、たるとには……小豆餡を用いよ」
「うむ。まだ結果が出たわけではないが……確かに、黄色く、酸く、甘く、そしてかすていらの巻いたものであるな。よくぞ、ここまでの儀を成し遂げた。美事、と言ってやりたいところじゃ。まあ、わしがそう言ったところで何にもならんのだがの」
ここまで来たら、次は奥平藤左衛門も試しをする番である。筆頭家老からは特に何の言葉もなかった。であるから、正月朔日の昼餉の菓子として、安左衛門のたるとがついに献ぜられることとなった。
安左衛門は三日の前から一切の飲食を絶ち、材料一式を城に持ち込んで準備をし、その日を迎えようとしていた。ここまで一睡もしていなかった。
「おい、そろそろ除夜の鐘が鳴り始めるぞ。せめて少し休んだらどうだ」
と、仲の良い同僚に言われるのだが。
「眠らないのではござらん。眠れないのでござる」
たるとは時間を置いた方が風味が増すので、そろそろ準備にかかる頃合いである。甘煮の方はもう出来上がっている。真っ青な顔をしてかすていらを焼く安左衛門を、その同僚や仲間たちが心配げな顔をして見守っていた。
一方、定行である。彼はといえば、殿様だとて正月は正月なので普段よりは少しは気を抜いて寛いでいた。この日の昼、食膳に『たると』が供されることになることは事前に知らされているので、それも楽しみに待っていた。
「お食事の刻限に御座います!」
そして、安左衛門のたるとが来た。
その『たると』を見て、定行はまず何と思ったか。それは、色が白かった。かすていらと同じ塩梅で焼く以上は生地に焼き色が付くのだが、安左衛門は自ら工夫して、その焼き目を内側に巻き込んでいた。だから表面は白く見える。しかし定行がポルトガル船の上で食べたTORTAは焼き目を外にして巻いてあったので、色が茶色だった。まずその点が違った。
「……」
定行は、たるとに箸を伸ばした。そして口に含む。
「……」
定行は一箸取ったたるとの半分を咀嚼し、残りを膳に戻した。傍に控えている奥平も、小姓たちも、ここまでどういういきさつがあってこういう事情になっているのか知らぬ者はないので、みな色めき立った。食膳は、担当の者の手で下げられた。貴人の食膳というのは一箸付けたら下げるのがお定めなのだからどうしようもない。
「ううむ……」
と、定行は絞り出すように呻いた。みながさらに色めき立った。何人かは青くなっている。
「畏れながら、御不審の状が御座いましたでしょうや」
奥平も、これはえらいことになったと内心思いつつ、背中に冷や汗をかきながらそう問いを発する。
「違う……」
結論から言えば、安左衛門が半年もかけて苦心惨憺の末に作り上げたたるとは、定行の記憶の中のたるととは「異なるもの」であった。そう、「異なる」のである。定行はいま、こう思っている。
(これはこれで、うまい菓子だ。だが、違う。違うのだ。見た目も違えば、味も違うのだ)
無慈悲な話ではあるが、当たり前である。味見していないどころか見たことも無いものを、唯一その味を知っている当の本人に詳しく確認すらせずに徒手空拳で再現しようとして、そっくりそのまま再現できるはずなど、無かったのであった。ここでたねを明かせば、あのとき定行がポルトガル船の上で食べた菓子は『トルタ・デ・ラランジャ』というものであった。オレンジのマーマレードを巻き込んだロールケーキである。それなら柚子で作っても決定的な差は出ないと思われるかもしれないが、船上のトルタ・デ・ラランジャにあって、安左衛門たるとにはなかった決定的な違いというのは、オヴォシュ・クリームの存在である。オヴォシュ・クリームは卵黄を練って砂糖を加えて作るもので、当然色はオレンジと同じように黄色い。だから定行はTORTAが「卵黄を利かせた菓子」であるということにまでは思い至らなかった。思い至らず、伝えていないのだから、安左衛門にその部分を再現できないのは当然であった。
しかし、定行はここでようやく、自分が何をしでかしたかということに思い至った。このままだと、これを作った名も知らぬ包丁侍と、責任者の御膳番と、それからこの件の担当になっている家老、その三人が腹を切るであろう。腹までは切らなくてもよい、と自分が言っても駄目だ。侍の誇りと節義はそんなに安くはないのである。というか、この事態を招いたのは自分であるのだから、自分がその三人を殺すも同然だ。なんとかせねばならぬ。なんとかせねば。自分は伊予松山藩十五万石の太守、神君家康の実の甥である。なんとかせずにおれるものか。そういうわけで、苦渋の末、定行はやっとの思いで見つけた言葉を口に出した。
「よき菓子であった。だが」
「ははっ」
「これは……このたるとは、柚子の菓子であるな」
「然様に御座いまする」
「たれか、答えよ。柚子の旬はいつか?」
小姓のひとりが答えた。
「は。冬にて御座いまする」
今は冬である。旬ではない食材を出した事に対する咎め立て、ではあり得ない。では定行は何を言おうとしているのか?
「余はたるとを、年中を通じて用いられる、伊予松山の名産としたい」
おおっ、と声が上がった。
「まこと、御美事なる御案談と存じまする」
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