漱石先生たると考

神笠 京樹

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正保編・陸

第二十五話 柚甘煮

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 さて、安左衛門は奥歯の奥の方で幸福を噛み締めつつも、しかしそればかり考えているわけにはいかない、『たると』製作の最終の仕上げにかからなければならない。期限は正月、つまりあと丸一ヶ月である。

「やはり、柚子の甘煮ということになるか」

 いつだったか喜代に『黄色く、酸っぱいもの』について問いを発し、「柚子」と返答されたのが遠い記憶になっている。殿がポルトガル船の上で「それ」を賞味したのは夏のことであったというのが引っかかるといえば引っかかるのだが、そもそも他にあまり選択肢が残っていなかった。季節のものであるからその点は問題ない。種がたくさんつく、というのも、子だくさんに通じるので武士に好まれる縁起の良い要素である。定行公にはとっくに御嫡子がいて、ついでにそのまた嫡子、つまり嫡孫までがいるのだがそのようなことは問題ではなかった。そして或いは南蛮では柚子に似たものが夏に実るということもあるのかもしれないし、そこはもう賭けるしかない。何が賭かるかと言えばおのれの命がかかるのではあるが、それはもうやむを得ないことであった。とりあえず、いつもの果物屋で籠いっぱいの柚子を買ってきた安左衛門は、少量の黒砂糖で柚子を皮ごと煮てみた。

「うわ! 苦! 酸っぱ苦っ!」

 それは人間の食べ物と呼ぶにすら値しない何かであった。鳥の餌にもなりそうにない。

「とりあえず、皮は全部除いて実のみを煮てみるか」

 そうしてみたら、味の面では甘煮として問題のない仕上がりになった。酸味もある。しかし。

「……色がよくない。皮も用いた方が、殿の仰られている条件には適うようだ。ということは」

 苦いのであれば、茹でて湯を捨てればよい。いわゆる「ゆでこぼし」という工程である。とりあえず皮と実を分け、皮を一回ぐつぐつ煮て湯を捨て、甘煮を作った。

「……まだだいぶ苦い」

 ゆでこぼしの過程を三回にしてみた。

「……ううむ。まだ苦味がある」

 基本的に、ゆずジャムを苦味のないように作るのはかなり難しい。しかし、巻きカステラの製法は既にほぼ完成しているので、研究している時間的余裕はまだ残っている。というわけで、毎日毎日柚子を相手にいろいろな実験を繰り返す安左衛門である。それで、色々試して分かったことはすりこぎですり潰した柚子の皮は苦味がかなり薄れる、ということであった。

「なるほど。皮を圧して潰せばよいのか」

 安左衛門には理屈までは分からないが、ゆずの苦み成分は油胞と言って、皮の表面部分に多く含まれている。これを潰すとよい香りがする。というわけで、ゆずジャムは手間をかければかけるほど風味が増していい味になるものなのである。

「すりこぎでこうして、皮を念入りに圧して……と」

 油胞を潰した柚子の皮を千切りにして、取り分けていた実とともに甘く煮る。そして寝かせる。

「ふむ。どうやらこれで良さそうだ。次は、かすていらを焼こう」

 この頃になると、毎日毎日離れの先まで来て心配そうに見守っている喜代の存在すら意識しているのかいないのか、安左衛門はたると作りに熱中している。

「まずは、今日採れたばかりの新鮮な卵を割って、と」

 まず、たまごは卵白と卵黄を分かち、別々に泡立てる。たまごと同じ重さの分だけ白砂糖を加え、上州のまんじゅう粉をふるったものを少なめに。これをさらに捏ねて、型に流してやや強めの火で焼き上げる。焼き上がったものの粗熱が取れたら、そこに柚子の皮ごと甘煮を刷毛で塗り、そして。

「ここからが、かすていら巻きの極意となる」

 ロールケーキを巻くときは躊躇ってはいけない。熱いうちに一気に巻き上げるのが、割れが出ないようにするコツである。この技術に到達するまでが長かったが、安左衛門はもはやこの技に関していえば日の本一の達人と言ってよかった。

「安左衛門たると、ここに完成に御座る!」

 わー、と離れの入口で喜代と、既に元服を終え月代を剃り上げたその弟が拍手をしていることに、安左衛門はようよう気付いた。
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