漱石先生たると考

神笠 京樹

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正保編・陸

第二十三話 柚の香

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 さて、湯から上がった。鍋之助はまだ入っているというので置いてきた。鮒屋にすぐ戻らなければならないというものでもないので、安左衛門は浴衣姿であたりを散策する。茶屋、軽食を売る店、多く並んでいる。今も昔もそのあたりの塩梅はあまり変わることがない。人気があるのは餅売りのようであった。だがこのあと御馳走が待っている都合上、あまり腹の膨れるものを口にするのはどうかな、と安左衛門が思っていると。

「お、あれは甘酒売りか。こんな季節に珍しい」

 現代の感覚では甘酒を冬に売っておかしいことはないように感じられるかもしれないが実は甘酒というものは古くは夏のものであった。温かくして飲むのだが、滋養のための飲み物ということで、暑気払いに用いることが一般的だったのである。特に京都・大阪ではその風習が長く続いた。もっとも江戸には通年で売る店もあった。

「あまさけを一杯……」
「あっ、二杯ですわ。あたしも飲みます」
「おや、喜代どの」
「ふふ」

 いつの間に近くにいたのか、喜代は安左衛門の隣、長椅子に腰を下ろした。

「今日は女湯の方も柚子湯だったんですよ。安左衛門さまの行かれた湯殿の方も、そうだったみたいですね」

 顔を肩のあたりに寄せられて、匂いを嗅がれた。当然、その距離ならば安左衛門にも喜代の身体から漂う柚子の香りが分かるのであった。

「き、喜代どの。甘酒がうまいですな」
「そうですね。それに、今夜のお食事も楽しみです」

 喜代は乙女の無邪気さと清廉さを纏いながら、同時に女であった。どんどん踏み込まれているなあ、と感じる安左衛門である。ちなみに、この時代、ほんらい武家の婚姻というものは親が一方的に縁組を決めて当人たちはそれに従うだけというのが一般的ではあるのだが。それはそれ、人に心というものがある限り、起こるべきところにはやはり、起こるべき感情というものが起こるのである。したがって、わけありの男女が密会するための場所、というのもこのような温泉地には当然、存在している。何もいま安左衛門がそこに喜代を誘うつもりでいるなどというわけではないが。

「安左衛門さまがあたしの家の離れに暮らすようになられて、もう季節が二つも変わりましたわね」
「然様にございますな。藩主様がお戻りになられたのが夏の遅く、それからのことですから」
「あたしにとっては、夢のような日々でした。でも、これももうそう長くは続かないのですよね」

 そもそもの話だが、安左衛門は別に勘之丞の家に住み着いているわけでも下宿しているわけでもなく、『たると』の研究のために十分な広さのある建物が必要であったから、勘之丞の家の離れを借りているだけなのである。当然、『たると』の献上が無事に相済めば、元の長屋に戻るなりなんなりすることになるだろう。

「あたし、きっと忘れません。この先、あたしの人生に何があろうとも、ですわ」

 踏み込んでくるなあ。

「そうですね。……拙者も、きっと忘れることはないでしょう」
「安左衛門さま……」

 喜代の目が潤む。だが安左衛門は言った。

「そろそろ宿に戻りましょう。お身体が冷えまする。夕食の時刻も近くなりましたでしょうし」
「……はい」

 二人は少しだけ距離を空けて歩き、鮒屋旅館に戻った。
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