漱石先生たると考

神笠 京樹

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正保編・陸

第二十二話 鮒屋の冬至

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「へーっくしょん」

 勘之丞が風邪を引いた。武士だろうが侍だろうが、人間には変わりはないのでそれは風邪の一つくらいする。しかし御膳番というお役目の都合上、風邪を引いていたのでは仕事にならない。結局、しばらく役目は他人に任せて、非番を与えられることになった。御家老の菅様から文が届けられた。

「いつまでも風邪を引いていられては困る。湯治などして、早うに体を治すがよい」

 とのことである。なお江戸時代、湯治をするのは七日間を一回りと言い、治療をするのには三回り、つまり三週間の冬至が望ましいと言われていた。次は行先であるが、松山の人間が湯治と言ったらそれは道後と相場が決まっている。そういうわけで、行くことになった。近場であるから、とりあえずは家族みんなを引き連れて。ちなみに勘之丞の水野家は、現在勘之丞の妻、嫡男鍋之助、そして末娘の喜代の四人家族である。上級の武家であるから家族に数えない奉公人使用人などはもっと大勢いる。勘之丞本人以外は三日で帰る日程にしてはあったが、その間の留守番は彼らがすることになる。

「お前も来い」

 安左衛門は勘之丞にそう言われた。

「それは有難きお言葉。しかし拙者は別に非番ではありませんが」
「道後では割合に新しい、鮒屋という旅館に泊まるのだが。うまい飯を食わせるというので評判なんだ。何が何の参考になるか分からんからな。つまり、半分は仕事だ。お前も、わしもな」
「そういう次第であれば」

 というわけだから、安左衛門も一泊だけ参加することになった。ちなみに、この鮒屋というのはもちろんあの鮒屋である。寛永四(一六二七)年に創業しているという以上は、この時点でもう存在している。

 さて、江戸時代の家族旅行、というものについて詳しく考えるとなればなかなか今とは事情の異なることが多く色々難しいのだが、松山城から道後温泉までの距離は別にどの時代だろうと変わることはないので、つまり徒歩で日帰りもできる程度の旅行であるからそんなに大変なことはない。ちょっとした小旅行である。

「お早いお着きで。ささ、おみ足を」

 明治時代には既に失われている風習だが、江戸時代の人間は素足に草履などを履いて歩くから、旅人が宿に上がる際にはまず湯桶が出され、足を洗うものであった。

「じゃ、温泉行ってきまーす」

 と、元気に言うのは喜代である。この時代の道後温泉は、複数の浴槽に分けられていた。定行が入府から間もない頃、命じて整備させたのだが、まず一之湯は貴人用、つまり武士と僧侶のためのものであった。次に二之湯、これが婦人用である。三之湯は庶民の男子用。馬が浸かるための専用の湯殿というのまであったし、そのほかにそれぞれ十五銭・十銭の銭湯もあり、湯治客用の養生湯というのも別に分かれていた。実にまったく、至れり尽くせりである。なお、もちろん喜代が行ったのは二之湯である。勘之丞は湯治が目的だから、養生湯に行った。安左衛門は一之湯に行くことになるわけだが、鍋之助も一緒になった。風呂の面倒を見てやらなければならないほどの子供ではなく、鍋之助はもう十二歳になるが、露天の風呂場で話しかけられた。

「安左衛門どの、いい湯加減でございますね」
「そうですな」
「柚子が湯に利いて、よい塩梅でございますね」
「ええ、まったく」

 説明が遅れたが、「本日冬至につき柚湯也」の立札がそこに立っている。ほかの風呂がどうなっているかは安左衛門には分からないが、一之湯は柚子湯であった。そう、もう柚子の実が黄色く色づいて旬を迎えた頃なのである。

「ところで安左衛門どの。ずっと気になっていたことがあるのですが」
「はい」
「安左衛門どのは、わたくしの兄上になられるのですか?」

 安左衛門は湯船の中でひっくり返りそうになった。

「……どこでそんな話を耳にされましたか、鍋之助さま」
「喜代姉さまが申しておりましたので。そのようなお話を」

 外堀が埋まっていくのを感じる安左衛門である。しかし。

「ご質問の答えですが、分かりません。いま、拙者は松山のお城で、とても重要なお役目を与えられております。それが済むまでは、余事を考えるわけには参らぬのです」

 何しろ、今後の展開いかんでは腹を切る羽目になるかもしれないのである。もちろん安左衛門も喜代のことを憎からず思っているのだが、しかし今は婚儀など進めている場合ではないのだった。『たると』でもって定行様にご満足を頂ける、その日その瞬間までは。

「そのお役目については、わたくしも伺っております。上の首尾を達せられること、お祈り申し上げております」
「ありがとうございます。鍋之助様」
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