漱石先生たると考

神笠 京樹

文字の大きさ
上 下
40 / 65
正保編・伍

第二十話 小麦の秘密

しおりを挟む
「もっと上等のうどん粉はないか?」

 心中に焦りを得た安左衛門は、そんなことを言って城下の粉屋を困らせていた。

「いままでお売りしていたものが、最上級の小麦でございますよ。讃州丸亀の産です。これを上と為し、饅頭にして色白しと申します。それをよく粉に引き、何度もふるいにかけて作ったものが今までお売りしていた小麦粉です。これ以上はありません」
「ううむ。では逆に考えてみよう。下等の小麦粉を寄こせと言ったら、どれを出す?」
「そうですね……なれば、上州(現在の群馬県)の小麦でしょうな。うどんにしても粘りが出ず、あまり良い粉ではありませんが、現地では饅頭を蒸すに向いているとして重宝される、と聞き及んでおります」

 前に述べた話に繋がるが、小麦にはもっとも一般的な区分として強力粉・中力粉・薄力粉がある。江戸時代の日本に強力粉はほぼ流通していなかったが、中力粉と薄力粉は両方あった。だが、中力粉・薄力粉という言葉それ自体は知られていなかった。ただ、収穫時期の早い・遅いによって三種類に分けられるのと、産地ごとの品質の違いというのは知られていた。讃岐の粉はうどんに向くと言われていた以上、中力粉である。一方、蒸し饅頭に向く粉というのは、薄力粉であろう。上州は今でも関東地方では屈指の小麦産地だが、当時は薄力用の小麦を主に産出していたのである。

「それはいいかもしれぬ。在庫はあるか?」
「……裏を見て参ります。少々お待ちくださいませ」

 相手が武家だからむげに出来ずにいるだけで、粉屋の方はしつこい客にうんざりさせられていた。だが、幸いなことに粉屋の倉庫には上州の小麦が一俵、在庫されていた。

「粉にお挽きするのにお時間をいただきますが」
「いや。俵ごと売ってくれ。研究せねばならんから、まるごと買っていって、自分で粉に挽いてみる」
「かしこまりました。では、のちほどお届けさせていただきます」

 この頃の製粉は主に回転式の石臼を使って行われていた。現代の製粉技術に比べれば原始的なものだが、それでも手の力だけで粉を挽くやり方の石臼しかなかった時代に比べればそれは長足の進歩と言うべきものなのであった。

「石臼も買って帰らねばならんな」

 安左衛門は落ち込んでいたが、落ち込んでいる分だけやる気も出している。へこたれない性格なのである。臼屋の近くだから、今日は何を買おうというわけでもないが、いつもの果物屋にも顔を出してみる。

「水野さま。珍しい果実があるのですが」
「なんだ」
「まるめろ、と申す南蛮渡来の果実で御座います。今は信州にても産するのだそうで、行商人が置いて行ったのですが、店に出すには数が少のう御座いますから。よろしければお試しになりませぬか」
「ほう。南蛮渡来か。有難い、貰おう」

 まるめろは、日本ではのちにかりんの名で知られるようになっていく果実である。非常に酸味が強く、生では食せないが、砂糖漬け、蜂蜜漬けなどに適する。そしてもちろん、ジャムにもなる。

「うーむ。これも、甘煮にすると風味がよい。南蛮渡来ということは、万が一という可能性もある。しかし……量が手に入らぬでは、いかんともし難いな」

 珍しいのは有難くはあるが、痛し痒しであった。結局そのまるめろのジャムは試作品として安左衛門の腹に入るにとどまった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

〖完結〗二度目は決してあなたとは結婚しません。

藍川みいな
恋愛
15歳の時に結婚を申し込まれ、サミュエルと結婚したロディア。 ある日、サミュエルが見ず知らずの女とキスをしているところを見てしまう。 愛していた夫の口から、妻など愛してはいないと言われ、ロディアは離婚を決意する。 だが、夫はロディアを愛しているから離婚はしないとロディアに泣きつく。 その光景を見ていた愛人は、ロディアを殺してしまう...。 目を覚ましたロディアは、15歳の時に戻っていた。 毎日0時更新 全12話です。

寵妃にすべてを奪われ下賜された先は毒薔薇の貴公子でしたが、何故か愛されてしまいました!

ユウ
恋愛
エリーゼは、王妃になる予定だった。 故郷を失い後ろ盾を失くし代わりに王妃として選ばれたのは後から妃候補となった侯爵令嬢だった。 聖女の資格を持ち国に貢献した暁に正妃となりエリーゼは側妃となったが夜の渡りもなく周りから冷遇される日々を送っていた。 日陰の日々を送る中、婚約者であり唯一の理解者にも忘れされる中。 長らく魔物の侵略を受けていた東の大陸を取り戻したことでとある騎士に妃を下賜することとなったのだが、選ばれたのはエリーゼだった。 下賜される相手は冷たく人をよせつけず、猛毒を持つ薔薇の貴公子と呼ばれる男だった。 用済みになったエリーゼは殺されるのかと思ったが… 「私は貴女以外に妻を持つ気はない」 愛されることはないと思っていたのに何故か甘い言葉に甘い笑顔を向けられてしまう。 その頃、すべてを手に入れた側妃から正妃となった聖女に不幸が訪れるのだった。

隣の芝は青く見える、というけれど

瀬織董李
恋愛
よくある婚約破棄物。 王立学園の卒業パーティーで、突然婚約破棄を宣言されたカルラ。 婚約者の腕にぶらさがっているのは異母妹のルーチェだった。 意気揚々と破棄を告げる婚約者だったが、彼は気付いていなかった。この騒ぎが仕組まれていたことに…… 途中から視点が変わります。 モノローグ多め。スカッと……できるかなぁ?(汗) 9/17 HOTランキング5位に入りました。目を疑いましたw ありがとうございます(ぺこり) 9/23完結です。ありがとうございました

さよなら、英雄になった旦那様~ただ祈るだけの役立たずの妻のはずでしたが…~

遠雷
恋愛
「フローラ、すまない……。エミリーは戦地でずっと俺を支えてくれたんだ。俺はそんな彼女を愛してしまった......」 戦地から戻り、聖騎士として英雄になった夫エリオットから、帰還早々に妻であるフローラに突き付けられた離縁状。エリオットの傍らには、可憐な容姿の女性が立っている。 周囲の者達も一様に、エリオットと共に数多の死地を抜け聖女と呼ばれるようになった女性エミリーを称え、安全な王都に暮らし日々祈るばかりだったフローラを庇う者はごく僅かだった。 「……わかりました、旦那様」 反論も無く粛々と離縁を受け入れ、フローラは王都から姿を消した。 その日を境に、エリオットの周囲では異変が起こり始める。

【完結】婚約破棄され処刑された私は人生をやり直す ~女狐に騙される男共を強制的に矯正してやる~

かのん
恋愛
 断頭台に立つのは婚約破棄され、家族にも婚約者にも友人にも捨てられたシャルロッテは高らかに笑い声をあげた。 「私の首が飛んだ瞬間から、自分たちに未来があるとは思うなかれ……そこが始まりですわ」  シャルロッテの首が跳ねとんだ瞬間、世界は黒い闇に包まれ、時空はうねりをあげ巻き戻る。  これは、断頭台で首チョンパされたシャルロッテが、男共を矯正していくお話。

[完結]病弱を言い訳に使う妹

みちこ
恋愛
病弱を言い訳にしてワガママ放題な妹にもう我慢出来ません 今日こそはざまぁしてみせます

婚約者が幼馴染を愛人にすると宣言するので、別れることにしました

法華
恋愛
貴族令嬢のメリヤは、見合いで婚約者となったカールの浮気の証拠をつかみ、彼に突きつける。しかし彼は悪びれもせず、自分は幼馴染と愛し合っていて、彼女を愛人にすると言い出した。そんなことを許すわけにはいきません。速やかに別れ、カールには相応の報いを受けてもらいます。 ※四話完結

婚約破棄!? ならわかっているよね?

Giovenassi
恋愛
突然の理不尽な婚約破棄などゆるされるわけがないっ!

処理中です...