漱石先生たると考

神笠 京樹

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明治編・4

第16話 子規の血

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 子規が血を吐いた。九月二十日、金曜日。この日は子規は弟子の一人を連れて松山近郊石出寺のあたりに吟行、つまり句作のための小旅行に出ていたのだが、四十五句を読み意気揚々と帰還したあと、愚陀仏庵で喀血したのであった。

「大変だ」

 金之助が飛んで行って、医者を連れて戻ってきた。子規の喀血は既に治まっており、たいしたことはないが、とりあえず無理はしないように、という医者の言葉であった。医者は帰っていった。

「金之助、出前を取ってくれ。鰻重を二つ」
「君、さっきの今だというのに鰻重を、それも二つ喰おうと言うのかい」
「粥を啜って寝ていても、元気にはならんさ」
「そういうもんだろうか」

 金之助が呆れるやら感心するやら、子規は鰻重を二つ平らげた。愚陀仏庵にはまだ血の香りがかすかに漂っているというのに。

「さて、今日も吟行をしてくるよ」
「おい、寝て居なくて大丈夫なのかい」
「構いはしないさ」

 子規は今日は弟子を三人連れて、城の北あたりを歩いた。二十四句を詠む。

「吟行というのは、そんなにいいものなのかな。僕はまだやったことがないが」
「ああ、いいぜ。大切なものだ。君も一つやってみるといい」

 というので、翌日、日曜日で学校は休みであるから、金之助はきのう子規が歩いたのと同じ城北方面に散策をした。三十二句を詠んだ。

「どれか選んで、また海南新聞に送ってみようと思う。どれがいいかな」
「おれが特にいいと思ったのは、この作だな」

 鶏頭は 黄色は淋し 常楽寺

「じゃあ、これを送ってみる」
「うむ」

 夜、子規の弟子ふたりを交え、愚陀仏庵で運座が開かれた。運座というのは、まあ句会の一種だが、同じ一つの題で数人が句作をし、互いに良いと思ったものを選び合うのである。題は『曼殊沙華』、『城』、『秋の水に礫』『僧』などなど。

 静かさに 礫うちにけり 秋の水 子規
 投げ込んだ 礫沈みぬ 秋の水 漱石

 子規と漱石の句才のあまりに埋めがたい差というものを、当然のこととしてほかの二人も気付いていたが、子規の親友であると分かっている手前、露骨に酷評してみせる者はやはりいなかった。

 次の日、九月二十三日は彼岸の中日であったので、子規の親戚の家からおはぎが届いた。持ってきたのは子規の従弟にあたる小学生の子供であるのだが、子規は真面目くさって受取書を書き、おはぎの色ごとの数までそこに書き入れた。子供は変な顔をしていた。

「きみ、これで菓子でも食いなさい。おはぎをありがとう」

 と言って小遣いを渡してやったのは金之助である。

「おはぎか。常規君、おはぎは好きか」
「そりゃあ好きさ」

 子規がおはぎについて詠んだ句が一首、残っている。

 お萩くばる 彼岸の使 行き逢ひぬ

「うむ。ぼくも好きだ。いま茶を淹れよう」

 金之助が一つ食べる間に、子規は二つ、三つのおはぎを食べる。

「しかし、彼岸にはなんでおはぎを喰うものなのだろうか」

 と、言ったのは子規である。

「そういえば、いま読んでる古書に少しそれに触れた記述があった」
「というと?」
「彼岸に供え物をする風習はごく古くからあったのだが、江戸のはじめの彼岸の頃、江戸でおはぎを大々的に売り出す店があり、大いに流行った。人々は好んでそれを買い求め、彼岸であるからとそれを仏前に供えた」
「うん」
「そんなことが毎年続いたので、いつしか、彼岸にはおはぎを供えるものだという認識が人々の間に生まれた。おしまい」
「それだけなのか?」
「それだけ、らしい。特になにかそれ以上もっともらしい理由があって彼岸とぼたもちが結びついたわけではないんだそうだ。その本によると」
「そんなもんか」
「ああ。案外と、そんなものなのさね」
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