漱石先生たると考

神笠 京樹

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明治編・1

第2話 愛松亭

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 松山に来て数日、金之助はまだだらだらと城戸屋旅館の十五畳敷きに起居していたが、誰の目にも明らかなこととして、いくら高給取りでもいつまでもこんなところにいるわけはいかない。土曜日になって、同僚の教師の一人が下宿を世話してやると金之助に告げた。この人物は中村宗太郎なかむらそうたろうと言い、歴史の担任である。もっとも世話してやると言っても中村が個人的にどうという話ではなく、その場所というのは金之助の前任であったお雇い外国人が暮らしていた下宿なのだが。
「このあたりは昔、松山藩の家老を代々務めたかん家の屋敷だったんですよ」
「ほう。松山藩というと、定行公か」
「ええ。久松ひさまつ松平まつだいら家の伊予松山藩は、定行公から御一新まで、松山城を拠点に十六代続きました。よくご存じですね」
「いや、まあ、ちょっとね」
 松山城はいわゆる平山城で小高い山の上にあり、そのふもとの一角に菅家の屋敷があった。その屋敷跡はいま松山裁判所になっていて、その裏手をちょっと城の方に登ったところ、かつては菅家の下男小屋のあった場所に二階建ての建屋がある。そこは昔料理屋だったのだがそれは潰れてしまい、いまは骨董を商う男がその傍ら下宿を開いているという次第である。
 裁判所の脇を裏へ抜けて100メートルばかりも歩いていくとそこに木の門があって、その中にまた石段がある。石段を登っていくと、その建物はあった。誰が名付けたのやら、「愛松亭」という立派な名が付いている。
「下宿に貸している二階は二間ありまして。六畳と四畳半ですが、今は両方とも空いております」
 と骨董屋が言う。
「両方まとめて借り上げたい」
 と金之助は言って、結局そういう話になった。その日のうちに城戸屋を引き払い、ここに移ることになった。荷物を取るために城戸屋へと戻る道すがら、金之助は中村に尋ねた。
「定行公というのは、どのような御仁だったのかな」
「松山の歴史にご興味がおありで?」
「ええ、まあ」
 金之助が興味を持っているのは定行本人というより彼が作ったという『たると』についてなのだが、さすがにあまりはっきりそうと言うわけにもいかない。
「よろしい、一つご説明いたしましょう。まず、定行公はね、徳川家康とくがわいえやすの甥に当たります。家康について説明は要りますまいが、まず於大おだいかたというのはお分かりか?」
 金之助は少しだけ考えて、言った。
「ああ、家康の生母ですな。確か……号は、伝通院でんづういんでしたか」
「そうです。於大は家康、当時の名は竹千代たけちよですがそれを生んだ後、竹千代の父である松平広忠ひろただに離縁され、別の男に嫁ぎました。それが久松という家です。久松家で、於大は何人かの男児を儲けました。そのうちの一人、定勝さだかつは幼い頃から兄の家康に臣従し、松平姓を名乗りました。これが久松松平家の興りです」
「ふむふむ」
「定行公はこの定勝の息子です。父の死後久松家を相続し、寛永十二(一六三五)年、伊予に封じられて松山城主となりました。ここに久松松平家の伊予松山藩が始まります。親藩の有力な藩のあるじとして、単に伊予一国のみでなく、四国と瀬戸内海一円に睨みを利かせる重要な役回りを時の将軍家光いえみつから託されたわけです」
「えらい人物だったのですな」
「そして、二代藩主となるのは定行公の御嫡男の……」
「いや、ちょっと待ってください」
「ん?」
「二代藩主の話に進む前に、定行公の作られたという、『たると』についての話を伺いたい」
「……ほう? それに興味がおありか」
 中村はきらりと目を輝かせた。
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