溶けたチョコレート

若林亜季

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溶けたチョコレート

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 佐藤芳子さとうよしこは市役所の保健師をしている。今は高齢福祉課に勤務して、主に介護予防についての業務をこなす。入庁してもう八年目になる。ある程度のキャリアも積み、段々仕事の面白さも、難しさも感じている。特に今関わっている介護保険の制度は度々改訂され専門的で幅広い知識のアップデートを求められるが、日々の業務に追われて勉強する時間が取れていないのは事実だ。

 佳子は今年三十歳になる。このままでは出産どころか結婚もできないかもしれないと常々思う。市役所の先輩保健師は半分くらいは結婚している……と思う。なかなか未婚率が高い職場では聞きにくい話題なのだ。大学で同期の友人は、そのまま大学病院に就職したが、約五十パーセントの未婚率らしい。資格を持ち自立しているからだけではなく、どちらの職場も仕事に忙殺されていて、毎日の業務を問題なくこなすことで精いっぱいなのだ。

 それに保健師という職業を選択した性格上、夫や子どもの事を心身共に健康に保つ役割である「妻」や「母」としてきちんと対応したいと思っている。だが、芳子は仕事と両立して「妻」や「母」としてきちんと対応できる自信がなく、今一つ結婚に踏み切れないでいた。

 大学生の時から九年も付き合っている橋本一幸はしもとかずゆきは同じ市役所の議会事務局に今は所属している。芳子が激務でも同じ職場で、一幸のアパートが職場の市役所から徒歩五分なのでなんとか続いている関係だった。芳子も結婚をするなら一幸だろうなと漠然ばくぜんと思ってはいた。それなりに長いので、家族ぐるみでの付き合いもあるが、今の所、義理の両親とも関係は良好だ。

 そんな結婚への憧れよりも不安が先立っていた時、一幸が自身の三十歳の誕生日にいきなりプロポーズをしてきた。一幸曰く「けじめ」なのだそうだ。

 突然のプロポーズに戸惑いはあったが、このまま市役所勤務を続けながら妊娠、出産を行うならば三十代の初めにしないと、自分の体力、気力が持たないだろうと、プロポーズを受け入れた。結婚式の日取りは来年の移動先で決めようと、とりあえず結納を先に済ませた。

 ※ ※ ※

 一幸のアパートで風呂に入り、髪を乾かしていると、食事の準備をしてくれていた一幸が聞いてきた。

「なあ、そっちにもインターンシップ受け入れとかやってる?」

「うん。大学の後輩の看護学科の子が来るけど、私の所は健康教室の見学位だから、お世話はあんまりしなくていいよ」

「俺、担当になってさ。議会の説明とか面倒臭い」

「去年も思ったけどさ、大学生ってキラキラしているよね。若さのエネルギーって言うの?眩しくて、羨ましいな」

「そうか?交流会も企画任されちゃってさ。若すぎて気を遣うんだよね。何か言うとパワハラとか言われそうで」

「そこ、気を付けてね。一幸、酔うと説教おじさんになるから!」

 夕食を食べながら、芳子は説明しなくてもポンポンと続く会話を楽しむ。一幸とだったら、職場の事も理解できるから協力して、いい家庭を築けると思って嬉しくなる。

「なに?ニヤニヤして」

「んー?結婚してもあんまり変わらないって言うのも、逆にいいなって思ったから」

「俺も。芳子といると落ち着くんだよね。仕事から帰ってきた時に、アパートに芳子が居るとホッとする。だてに九年も付き合ってないよね」

「あ、お義母さんから電話あって、今度おじいちゃんの傘寿のお祝いするって。私たちのお祝い何にする?」

 芳子は穏やかな日々が続くことを確信していた。

 ※ ※ ※
 
 慌ただしく日々は過ぎていく。

 二月の議会が終わり、一幸は仕事に余裕が出たようだ。だが、芳子は全国のブロック会議の為の資料作りと、全国生活習慣病予防月間の啓発活動でなかなか会う時間が取れない。日曜日にモールに行くと一幸が言うので、お金を渡していつものご褒美チョコレートを買ってきてもらうことにした。

 芳子は、夜、金色に輝く高級ミルクチョコレートを一枚、ゆっくり食べることを、自分のご褒美にしているのだ。

 月曜日、栄養価やいろどりにも注意して作った弁当を持って、早めに一幸のアパートに向かう。おにぎりも握ってきたから、朝食を一緒にとって出勤できる。まだ寝ていたら悪いので合鍵でアパートに入ろうとする。

 ガチャン!

 何故かチェーンまでしている。何も考えずインターホンを鳴らす。途端にバタバタと慌てた一幸がチェーンの隙間から顔を出す。二月だと言うのにアンダーウェアのみ着ている。

 ふーん。そっか。芳子は満面の笑みで迎え撃つ。

「おはよう。お弁当作ってきたんだ。朝ごはんもあるから開けて」

「あ。あっ。おはよう。お弁当ありがとう。で、でも、もう、俺、出るから行ってて良いよ。弁当は後で取りに来るから。朝早めに行って資料作ろうと思ってたからさ」

 締め出す気か?そうはさせるか。

「待ってるよ。せっかく朝ごはん作ったから一緒に食べたい」

 どう来るか。早く入れてよ。寒い。

「寒いから車で待ってて。あっちで食べよう」

 白々しい……。言いなりになるわけ無いじゃん。

「庁舎、まだ暖房入ってないから寒いよ。あ、頼んでたチョコは?私、冷蔵庫から取ってくる。一幸、準備したら?」

「いや、俺取ってくるからさ、待っててよ」

 再度ガチャンとドアが閉められてしまう。これは、黒だな。九年間そんな事全くなかったのに。相手を確認してやる!ここは三階。外部への逃走は無いだろう。

 バタバタとしたあわただしさが中から聞こえてくる。芳子は、ほとんど取った事のない有休を課長にどう連絡するか、頭を巡らせていた。今日は内勤の日だ。大丈夫だろう。課長にはとりあえずメールして、後で電話しよう。一幸は十分近くもかかって玄関から十歩もない冷蔵庫からチョコを取ってきたらしい。そして、チェーンの隙間からチョコレートを渡してくる。

「チョコ、ありがとう」

 芳子はビジネスバッグにチョコレートを無造作に突っ込み、一幸に言う。

「開けて!」

「ほら、もう行こう!」

 急いでスーツに着替えた一幸がアパートから芳子を押すようにして出てきた瞬間、芳子は一幸の脇から滑り込み、寝室まで走った。靴のまま。そして、どこも見ずに直行したゴミ箱をビニール袋ごと確保した。

「な、なにしてる?」

「え?浮気の証拠集めですけど?お相手の方はどこに?」

 芳子は靴のまま探す。1LDKだ。クローゼットに居ないなら、トイレか風呂場だろう。トイレが使用中になっている。一幸が必死に止めようとするが、これは仕方がない。小銭入れから十円を出し、鍵を開ける。そこには若くて可愛い女の子が怯えた顔で荷物をもって立っていた。芳子は今までで一番いい笑顔を作り言った。

「朝ごはん、一緒に食べましょう?」
 
 ※ ※ ※

 二人を台所のテーブルに着かせる。二人の前にはインスタントのみそ汁と、芳子の握ったおにぎりが並べられている。手を付ける様子はないが、精神的プレッシャーにはなっているだろう。

「で、一幸。ご紹介してくれる?」

「あの、勘弁してくれないか?彼女は飲み過ぎて具合が悪くなって、泊めただけだよ」

「そう?どういったお知り合いなのかなって。私達、九年も一緒にいて、一幸の御親戚の方も、地元のお友達も大体知っているのに」

「あ、従妹。従妹なんだ」

「え?そうだっけ?お名前は?」

「そんな、問い詰めなくたって」

「一幸には聞いてない!」

「か、佳澄です」

「苗字は?」

 一幸と佳澄は盛んにアイコンタクトを取っている。

「あ、あの、橋本です」

「そう。身分証明書見せて」

「そこまでする必要無いじゃないか!俺を信じてくれないのか?九年も一緒にいて、結納まで済ませてるんだぞ!もう帰ってもらうから」

 そう言うと、一幸は佳澄の手を取って立ち上がり、玄関に行こうとする。

「待って!」

 強い口調で呼びかけると、二人は顔を上げた。

 カシャリ。スマホのシャッター音が響く。

「お義母さん、いえ、直接お義父さんに聞いてみるわ。橋本姓だからお義父さんの姪って事でしょう?」

「まて、待て。実家まで話を大きくするな!」

「じゃあ、正直に話して。あ、ちょっと待って、課長に今日休む事メールするから。……はい、送信。さっき外で待ってるとき下書きしてたんだよね。仕事早いでしょ?一幸も連絡しといた方が良いよ」

「休むほどじゃないから。彼女は岩崎佳澄さん。インターンシップの時に来てた子。大学のゼミの後輩なんだ。来年市役所の採用試験受けるらしいから、相談に乗ってたんだ」

「そうなの?」

 芳子は佳澄に尋ねる。

「はい。インターンシップの時にお世話になってて、親身になって聞いていただいたので、今回も相談させてもらいました」

 すっぴんが眩しい大学生。肌も張りがあって隈やシミ一つない、流行の髪型と髪色。ほっそりとしているのにグラマー。何もかも違って、打ちのめされた。

「そう。でも、男性の部屋に泊まる必要は無いじゃない?」

「俺が、緊張しないように、酒でも飲みながら話そうって店に誘って、そしたら彼女酒に弱くて、具合が悪くなって危ないから泊めたんだ」

「じゃあ、なんで最初からそう言わないの?浮気を疑われてもしょうがないでしょ?」

「何にもないよ。何疑ってんの?俺が信じられないのか?」

 少し強めに反論する一幸。

 どんな理論なんだろう。何をもってこの状況で疑わない、信じられる要素があると言うのだろうか。情に訴えるつもりなのだろうか。芳子はそんなモノには流されない。こちらは学生の時から、エビデンス、エビデンスと言われて育った保健師だ。客観的事実から、真実を導き出すのは得意なのだ!

「では、この寝室のゴミ箱の中身は何ですか?」

 ビニール袋を広げると使用済み避妊具が数個。それだけでも負けた気がした。芳子とはレスではないが、毎回一回だけなのに。

「なっ!そ、それは俺が自己処理したときに使用したんだ。そんなゴミ、早く捨ててくれ!」

「では、佳澄さんとは使用していないと?」

「そうだよ!もういいか?くだらない事で遅刻したくない!」

 芳子は仕事用バッグを探る。あった。以前インフルエンザの検査を説明する時に使用したサンプル。鞄から取り出した、滅菌パックに入った長い綿棒を二人に見せる。

「じゃあ、佳澄さん。貴女の頬の粘膜を少し頂戴。DNA検査をさせていただきます」

 佳澄はすっかり怯えた様子だ。一幸も青ざめてきている。

「貴女の身の潔白を証明する為に必要なんですよ。責めているんじゃありません。ちょっと拭うだけです。痛くはありませんよ。できないと言われたら浮気を疑います」

 一幸は真っ青になって、急遽謝罪に転じる。

「すまない!俺も彼女も一時の気の迷いなんだ」

 二人は息もぴったりに頭を下げて謝罪する。佳澄はハラハラと涙を流し始めた。
 
「じゃあ、佳澄さんは私たちが婚約中であることも、私が一幸と同じ職場だって事も知ってたの?」

 ギリと睨みつけ返事を促す。否とは言わせないと目力を込める。ますます怯え、芳子と距離を取ろうと少しのけぞって一幸にすがろうとしている。

「……はい」

 はい! 言質取りました!

 芳子はスーツの胸ポケットに入れたボイスレコーダーを取り出す。こうなるかと外で待っている時にスイッチを入れておいたのだ。

「私は貴女にも慰謝料を請求いたします」

「そんな!」

「いくら何でも酷いじゃないか!こんな卑怯な手を使って!」

「じゃあ、一幸は卑怯じゃないの?九年間も付き合って結納まで交わしてるのよ。大学生と浮気して許されると思ってるの?相手に嘘までつかせて、恥ずかしくは無いの?あ、脅迫とかになったら嫌だから、今から弁護士さんの所に相談に行ってくるね。お二人も私と直接交渉するの嫌でしょ?弁護士さんを立てた方が良いと思うよ。あ、これ、お弁当。二人分あるからお二人でどうぞ!」

 芳子は弁当をグイと一幸に押し付け、鞄を抱き、部屋を出た。始終冷静だと芳子は思っていたが、靴を履いたままだった。

 いつもはファンヒーターが直接当たらないテーブルの向かい側に一幸と並んで座っていたが、今日は直接温風が当たる椅子に座り、横の椅子に鞄を置いていた。抱いている鞄が少し熱い位だ。中のチョコレートは無事だろうか。自宅に帰ったら冷蔵庫で冷やそう。

 ※ ※ ※

 八時五十分。自宅に戻ると、十時からパートに行く予定の母と、先日定年退職し家事を勉強中の父と、大学院生の一番下の弟が台所でコーヒーを飲んでいた。家族の注目を集めながらも、何も言わず冷蔵庫のドアポケットにチョコレートの箱を押し込む。

「姉ちゃん。仕事は?」

 這ってでも仕事に行くような芳子だ。本日の朝食が豪華だったのも、芳子が婚約者の一幸に弁当を作ったからだと家族は知っている。体調不良で帰宅したとは考えられない。ドカリと椅子に乱暴に座る。家族が、さあ、話せと言った目で見てくるので答える。

「仕事、休んだ。一幸のアパート行ったら、浮気女がいた。大学生だった。私と違って、キラキラした今どきの可愛くてグラマーな大学生だった……一時の気の迷いと言われたけど、九年分裏切られた気がしてもう無理……」

「……そうか。お前がしたいようにしていいぞ。お前がどうしてほしいか言えるようになったらお父さんに言いなさい。向こうに話を付けに行くから」

 お父さん、男前。いつもはお母さんの尻に敷かれているのに。

 真面目だけが取柄で出世もしないしカッコいいイケオジでもないけど、結婚生活で相手に誠実な事は、すべての信頼関係の根本になっているのだと芳子は改めて父母を見て感じた。

「芳子ちゃん……」

 気遣わし気な母はソワソワと芳子の周りを回っている。芳子は幼少時からしっかり者で、甘えるのが下手なのだ。嫌な事や悲しい事があるとしばらく部屋に閉じこもり、自分で気持ちを切り替えてから出てくる、手のかからない良い子だった。心配症の母は手や口を出し過ぎないようにいつもセーブしてくれていた。

 ちょっとだけ甘えてみようかな?こんな時だもの、良い大人だけど良いよね?
 
 芳子は母の手を取り、十何年振りか腰に抱き着いてみた。母の匂いがして安心した。母は芳子らしくない行動にビックリし、そしてそっと頭を撫でてくれる。

 こんなに癒されるなら芳子はもっと甘えておけばよかったと後悔するくらい気持ちが和いでいくのを感じた。

「そんな奴、結婚前に分かってよかったじゃないか!姉ちゃんは悪くない!」

 いつもなら甘えん坊の末の弟が涙を流しながら怒ってくれている。

 これを反面教師として、君は女性に誠実である事を約束しておくれ。

 九時三十分。芳子は家族から十分な愛情を感じて気持ちを切り替える事ができていた。

「お父さん。お母さん。心配かけてごめん。もう、大丈夫!私、今から弁護士さんの所に行ってくる。できるだけ慰謝料ぶんどってくる!仕事辞めて、新しい事をする。四月に辞められるように調整してくるね」

 芳子は証拠の入った鞄を握りしめ、仕事を通して知り合った弁護士の所に行く準備をする。その前に、課長に電話して仕事を辞めることを伝えなければ。

 さあ、忙しくなるぞ! 仕事だと思うとウンザリしていたのに、今はやる気に満ちている。

 ※ ※ ※

 浮気については弁護士に丸投げした。証拠もそろっているし、相手側も裁判はしたくないので慰謝料は一幸から百万円、佳澄からは十万円が早々に支払われた。正直、弁護士費用と精神的苦痛を合わせれば少ないと思うが、相手の反省を促すための措置だと思っている。多分、一幸の百万円は結納金として準備していた分だろう。新しい方を見つける為に、貯蓄に励んでほしいと思う。

 職場で一幸が話しかけたそうにしているが、芳子は完全に無視している。弁護士を入れての取り決めで芳子との接触禁止を誓約事項に記載しているのだ。ただ、関係が良かった橋本家の方々の謝罪と復縁の懇願の電話にはグッときてしまった。しかし、「自分の性格上許せそうになく、醜い嫉妬を繰り返しそうな自分を見たくない。このまま結婚しても離婚するのが目に見えている」と復縁をお断りした。

 保健師の先輩方には「せっかくのキャリアが」と残念がられたが、庁舎に流れている「婚約破棄」の噂を知っているからか、強くは引き止められることは無かった。

 ※ ※ ※

 実家の冷蔵庫を開けると目の端に某有名チョコレート店の箱が見えた。ここ二週間の感情が入り乱れ過ぎて、好物のチョコレートの存在さえも忘れていた。

 ゴールドに輝く高級感漂う箱を開けると、芳子の好物のミルクチョコレートがずらりと並んでいる。包み紙を剥がすと、ぐにゃりとゆがんだロゴが見えた。いつもなら綺麗なキャラメル色だが、表面に白い斑点ができている。一度溶けたからだろう。食べてみるが滑らかさは消え、口の中がザラザラする。風味も損なわれていて、はっきり言って美味しくない。かと言って、もったいなくて捨てられない。

「こんなになると知ってたら二十枚入りじゃなくて四枚入りにしとくんだった」

 佳子はひとりごちる。

「そうだ。ホットチョコレートにして、みんなで飲もう」

 三月になったがまだまだ寒い。レンジで溶かしている間に居間に家族を呼ぶ。今日は芳子を心配して他県に就職している弟も帰ってきている。炬燵こたつを皆で囲み、ホットチョコレートをちびちび飲む。あんなに不味かったのに美味しくなった。まるで別のチョコレートの様だと思った。

 ※ ※ ※

 四月、芳子は全ての事から解放されフリーになった。仕事も、恋愛も。三十歳にもなって、何の肩書も無い。ああ、でも「娘」や「姉」ではいられるから、まだ安心していられるのかも。
 
 今月のご褒美チョコレートは自分で買った。今日も豊かな風味と滑らかなくちどけで最高だ。

 溶けたチョコレートはもう食べたくない。だけどリクルートスーツの眩しい新入社員を見かけると、あのザラリとした感触を思い出す。

 ※ ※ ※

 更に一年後……。

 来館者に退館のお知らせのアナウンスが鳴っている。

「橋本先輩!一緒に帰りましょう!」

 髪色を暗くした佳澄が一幸に手を振っている。周りを見回した一幸は困り顔で対応する。廊下の隅に呼び、小声で話す。

「岩崎さん。僕たちの事、噂になっているんだ。芳子が辞めた原因がインターンシップの大学生と関係を持ったと知られたらまずいんだよ」

「えー、そんなの、橋本先輩と私が付き合ってしまえば、パワハラやセクハラには当たらないんじゃないですか?」

「は?」

「私、芳子さんが提出した音声データや私に送られた内容証明書、橋本先輩が私を誘っているメールも全部保管してるんです。必要ならどこに提出したら良いんですかね?」

「何で……」

「全部、橋本先輩から誘われているんですよ。私の事が芳子さんより好きだったって事でしょ?違ったなら、どうしようかな。もしかして私、強要されたのかも。どうしても市役所に就職したかったから、我慢していたのかもしれないって思い出しそうです」

 ナチュラルメイクに見えるが作りこまれたその顔は、まだ少しあどけなさを残していて無垢に見える。

 芳子と九年付き合って婚約した。一幸は芳子以外の女性との経験が無かった。結婚前にちょっとだけ他の女性とも交際してみたかった。そんな時、インターンシップに来た佳澄がとても魅力的に見えたのは本当だ。自分には九年付き合った彼女がいて結納を交わしたが、君の様にかわいい子がいるなら早まったとメールのやり取りをした。

 もし、インターンシップの大学生に性的関係を強要したとなると新聞沙汰だ。データがあるなら何年経っても証明できる。最悪、市役所に居られなくなるかもしれない。

「私、モールに新しくできたパスタ屋さんに行きたいです」

「ああ。少し待っていて。準備してくる」

 もう佳澄には一生頭が上がらないだろう。


 あのモールには、芳子の「ご褒美チョコレート」の店がある。一日一枚をゆっくり味わうとろけるような笑顔を見せる芳子との穏やかな日々を思い出して一幸は深く後悔した。
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