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第九章
Ⅴ
しおりを挟むリビングにつづく扉の前に立っている。
扉の向こうで、奏ちゃんが泣いている。
奏ちゃん、泣かないで。
僕がいるから。
僕がそばにいるから、泣かないで。
『…後悔はしてない。しない。
私はここまでの人生を演劇に捧げた。
後悔すれば、それこそ無駄になる。
私は、これまでの私を抱えて生きる。』
奏ちゃんの声が聞こえて、目の前が真っ暗になる。
扉の前に立っていたはずなのに、いつのまにか僕はどこかの劇場の客席にいた。
隣に誰かが座っている。
奏ちゃん。
隣の席に奏ちゃんが座っている。
おかしいな。
こんな劇場、奏ちゃんと来たことはないけれど。
彼女はまっすぐ舞台を見つめている。
劇場が暗転する。
はっきり見えていた彼女の横顔が暗闇に包まれた、かと思えば次の瞬間、隣の席の奏ちゃんにスポットライトが当たった。
相変わらず奏ちゃんは舞台を見つめている。
その瞳から涙が流れる。
でも口元には微笑みを浮かべている。
…笑わないで。
僕以外に、そんな幸せそうに笑わないで。
「兄さん!」
目を開けると龍海が僕を見下ろしていた。
「帰ってきてそのまま寝たのか?
体、痛めるぞ。」
「…あぁ」
ゆめ…
夢だったのか。
「シャワーだけでも浴びてきたらどうだ?」
「うん…」
確かに、体が痛い。
「はぁ…」
シャワーの前にとりあえずコーヒーを飲む。
頭の中ではさっきまでみていた夢が繰り返し自動再生されていた。
…余計、気持ちが沈む夢だった。
思い出したくない、思い出。
龍海はさっきまで僕が寝ていたソファーに腰かけて携帯を弄っていた。
「…たつみー…」
「なんだ?」
龍海が携帯の画面から目を離さずに返事をする。
「翠ちゃんが急に消えちゃった時のこと、覚えてる?」
龍海の動きがピタリと止まる。
まだ二人が恋人になる前、翠ちゃんが急に姿を消したことがあった。
あの時の龍海は見ていられなかった。
「…思い出したくはないな。」
「そうだよねぇ…」
やっぱり、大切な人との思い出であっても思い出したくないこともあるよね。
「でも、無駄なことではなかったと思う。」
そう続けた龍海に目をやる。
「彼女ともう会えないかもしれない状況になったから、俺は再会したときにもう絶対に離さないと…
離れないように、自分にできることはすべてやろうと決意できた気がする。」
自分にできることはすべて
僕も、そう思っていたはずなのに。
「どこまでもいつまでも、俺の自己満足だ。
でもそれでいい。
俺は彼女を愛している。
それでいい。」
僕も、そう思っていた、はず…
「…お前、凄いね。」
「…なんなんだ、急に…」
龍海は少し恥ずかしくなってきたのか、耳を真っ赤にしてまた携帯を弄り出した。
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