絡新婦悲話

四季人

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絡新婦悲話

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絡新婦悲話

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 弥助やすけの母が死んだのは先の冬、二人でささやかな喜寿の祝いをした翌朝の事である。
 嫁を取ることも諦めて久しい弥助がその時思ったのは、これから何をして暮らせば良いのか、という悩みひとつであった。
 野良仕事も、飯炊きも、水汲みも、洗濯も一人でこなし、母の世話をせねば、という使命感だけが生きる糧であった。
 つまり、老いた母を大事にしていたわけではなく、只々日課として面倒を見ていたというのが正しい。弥助とは、そのような男だ。


 春になり、遠くの山でやおら桜が咲き始めると、それを見た弥助は、ふと漫遊まんゆうに出ようと思い立った。
 老いた母が生きている内は、当然その様な事ができなかったので、胸中は明るかった。
 母と暮らした家から離れ、知らぬ景色の場所へ踏み入ると、彼はようやくそれまでの生が伽藍堂がらんどうであったと考え至った。
 その事で母を恨んだりはしないが、自らの人生が空虚だったと惜しむ様になったのである。


 魅勒みろくの滝とは、深く切り立った荒久根あらくね山の西側に在る、高さ二十間程の瀑布ばくふである。
 遥か上方から止めどなく直下する水塊は、さながら永遠に切れる事のない絹糸の大束のようであり、谷間に響き渡る轟音は、それ以外の音をすっかり食い尽くし、最早静寂と変わらぬ。弥助は初めて観る圧巻の光景に、言葉を失いながら立ち尽くしていた。
 この世のものとは思えぬ美しさは、底無しの恐怖に似ている。
 弥助の中には褒められた理屈も道理もないが、魅勒の滝は、それら全てを押し潰し、洗い流してしまう暴力的なまでの美に満ちていた。

 何刻その様にしていたか判らぬ。気がつくと、真上に在った筈の陽が何処へか消え失せていた。
 もう行かねば、と心の中で固く呟き、弥助は惜しむ様に滝の全てを目に焼き付ける。
 漠然と、母親の死から己の人生が始まったような心持ちがしていたが、この景色はそれを確信に変えてくれたと思った。

 ふと、
 弥助の横に、一人の女が立っていた。

 宵闇よりも深い漆黒に金の霞雲が浮いた、艶やかな着物に緋色の帯を締めた、白磁のような肌の細面である。
 かんざしから下がる銀の鈴が、音も無く揺れた。
 滝の飛沫と音の所為か、何処からやって来て、いつからそこにいたのか皆目判らぬ。
 女の、長い睫毛に彩られた虚ろな目が、つつうと動いて、弥助を捉えた。
「━━━━━━」
 間近で女を見た事が無かった弥助は、堪らず息を呑んだ。
 その女は、滝のように弥助の心を押し潰し、洗い流した。
 …………否、それ以上かも知れぬ。
 弥助の胸の内には、先刻あれ程焼き付けた筈の滝の姿が、もう微塵も残っていない。
 それは滝のような広大な自然が作り出す壮観とは明らかに違う、浮世から離れた面妖な気配が漂う美しさである。
 女が吐息を漏らす。その唇から、甘い蜜のような香りが漂い出した。
 くらくら、と景色が揺れる。
 世間を知ろうが無知であろうが関係ない。弥助の理性は、とうに灼かれている。
 物言わぬ女のカタチをしたソレを、一刻も早く奪い尽さねばならないが、手段を知らぬ。ただ、頭の芯と、胸の内と、尻と逸物の間が苛々いらいらした。
 苦悶する弥助を眺めて、女は妖しげに媚笑した。

 女は、物の怪だった。

 弥助は、欲と畏怖とに挟まれて、身じろぎも出来ず、考えも一向に纏まらぬ。
 しなを作りながら近寄る女は、弥助の首筋に、そっと指を伸ばした。
 ひたり、と冷たくて柔い感触に、臍の下が痺れた。
 そこから、するりと、女の指先が下りて、胸の辺りをなぞっていくと、弥助は情けない声をあげながら、息を吐いた。
 喰われる覚悟まで解けてしまいそうだ。
 女は、もう一方の手を、自分の着物の衿元にやる。そして、固く閉じた合せに差し込み、下ろした。
 ふるり、と。青白い乳房が溢れ出す。
 その先端の茜色に、目が釘付けになった。
 弥助の衝動は明白である。だが、まるで乳飲子のような行為に掻き立てられる道理が判らず、困惑する。それでも、滝の飛沫がしとしとと降り注いで濡らす、その柔らかそうな房の先に口を寄せずにはいられない。

 おれは、一体、何をしている……?

 口の中に、生臭く、甘い、腐りかけの桃のような味が広がっていく。

 気持ち悪い。

 喉の奥から腹の中身が込み上げて、吐き出しそうになるが、腐った乳汁ごと飲み下してしまう。
 轟轟と響く滝の音。ぢゅうぢゅうと必死に乳に吸い着く自分が、まるで自分でなくなってしまったようで、 懼おそろしい。

 虚を憑かれた弥助は着物を優しく剥ぎ取られ、女の細い指で逸物をなぞられていた。
 この、小便を垂れるだけの粗末な器官を、かつて百日紅さるすべりの木に押し当てた事があるが、乱暴にした所為で切傷だらけになった。物の怪は、それを見透かしているのか。
 するり、するりと女の手が動く。何も知らぬ弥助は、躰中を支配される快感に、腰を抜かして尻をついた。
 岩肌に落ちた腰骨がおかしな音を立てた。だが、痛みがない。
 弥助の痛覚は、女の乳房を吸った所為で、壊されていた。
 だらしなく足を開き、おそれ乍らも女の手を求めるように、腰が浮き上がる。
 己の股座を見下ろして、黒ずんだ逸物の周りを蠢き回る白い指に、ぞくりとした。

 ああ、蜘蛛が。蜘蛛が這っている━━━━。

 腰の中で暴れ回る何かが、快感と共に搾り出されそうだ。この緊張が切れたら、もう己は己じゃなくなる。そう確信する。

 弥助が堪らず呻き声を上げると、女は唆り立つ逸物を手放し、立ち上がって、徐ろに帯を解いた。
 岩場に広がる、宵闇と金の霞雲。……その上に簪が、ちりん、と落ちた。
 とっぷりと日の暮れた、滝壺の傍ら。弥助の目の前に現れたのは、夜の中に揺らり浮かび上がる、女の白い裸である。
 なまめく曲線が、弥助の腰を跨ぐ。
 白い二匹の蜘蛛めいた両手が、その両脚の付け根、一筋の切れ間を、開いた。

 ━━━━糜爛びらんが、よだれを垂らす。
 
 ぶつりと、弥助の理性が千切れる音がした。
 女が腰を下ろす。弥助の逸物は、熟れた傷口に呑み込まれた。
 じゅくり、と不気味な音が背骨を伝う。
 腰は既に泥のように蕩けてしまっていて、形が判らない。
 膝と肘を外に張って、四ツ脚の白い蜘蛛が、荒く息を吐きながら、闇の底で男を貪っている。
 弥助は悲鳴をあげた。……あげたつもりだった。
 だが、鼓膜の奥に響くのは、己のモノとは思えない、ぎゃらぎゃらという下卑げび嬌声こえだ。
 痺れるような快感に溺れ、弥助だったものは怒涛の内に擦り潰されていく。

 しかし、その渦中にいても、弥助の心は壊れなかった。
 今際の際に思い返した人生の中身が、あまりにも惨めであった為だろう。
 男の本能に訴えかける物の怪の妖術は、空虚うつろな男には通用しなかった。

 …………そればかりか。

 弥助の手が、女の頬に触れる。そして、慈しむように、その白い身体を抱き寄せた。
 女の姿をした物の怪の意図は、痛みを壊し、快楽に溺れさせ、その精到せいとうの中で男を喰らう事であろう。

 だが、弥助は、それでいと思った。

 この伽藍堂の人生の終わりに、美しい物の怪に抱かれ、その果てに糧となる終わりがるのなら、そうした意味を残せるのなら、それで良いと思ったのだ。

 それは、人として、生き物として、明らかに異常を来した心情である。
 故に、弥助の最後の願いは一つ。この美しい物の怪を、もっと近くで、少しでも長く眺めていたい、という未練であった。

 弥助が達してしまいそうになった刹那。
「━━━━━━」
 女は動きを止め、昏い穴のような瞳で、弥助をじっと見つめた。
 その顔。物の怪が、生来で初めて出逢う、傾慕けいぼという情が生み出した彼の面相が、不思議でならなかったのだ。
 偶々と片付ける事も出来よう。
 しかし、物の怪が気紛れを起こすには、それは充分な理由であった。
 色欲に狂うこともなく、諦念ていねんに身を投げ出すでもない弥助に、女も又、未練を感じたのである。
 深い場所で繋がり合ったままでいる所為もあろうか、言葉は無くとも、弥助にはそれが伝わった。

 女の虚ろな目が云うのだ。

 もっと、その目で妾を視てくれ、と。
 もっと、その貌を妾に視せてくれ、と……。

 弥助は、湧き上がる情動を表す言葉を知らぬ。
 理解できるのは、今生に於いてこの一日が……否、この女に遭遇してからの半刻程が、己の人生の全てなのだと云う実感だけだ。

 弥助は身体が崩れていく事も厭わずに、女の陰口ほとを突いた。
 悦びにくねる脇腹と、雫を滴らせる乳房を強く掴むと、女は甘い吐息を洩らして、弥助の首筋を噛んだ。
 最後に強く深く腰を押し込んで、弥助は女の中で果てる。
 同時に達した後、女は顎を震わせて、弥助の首を離した。

 ……人の種で、物の怪は孕まぬ。
 ……人を喰わねば、物の怪は生きられぬ。
 
 例えそれが、人と物の怪のことわりを踏み躙る行為であろうとも構わぬと、胸の内に生じた誠に従うと、決めたのである。



 * * * * *


 女夫めおとになった物の怪と弥助は、毎夜、人と物の怪の摂理に叛逆さからいながら、大層幸せに暮らしていた。
 だが、理から目を背け続けたとて、道理は覆らぬ。
 若鮎が川を上る頃には、弥助は杖一つで歩ける程になったが、女房は、見る間にやつれていった。
 それは、弥助には堪えられない光景であった。
 日に日に細く弱々しくなっていく女房に、弥助は段々と心の平衡を無くしていった。
 そして、床から起き上がれなくなった女房の、枯れ枝のような手に縋り付いて泣いた。

 わしを喰え。喰ってくれ。後生だからそうしてくれ。わしを置いて逝かないでくれ。もう独りは厭じゃ。伽藍堂は御免じゃ。

 女房は布団の中で、土気色の顔を笑みの形に歪めて首を振る。
 その愛おしむかおは弥助がもたらした。
 だが、その貌こそが、弥助を追い詰めるのだ。

 弥助は忘我の内に蔵へと走る。そして、奥から大鉈を掴んで、女房の傍に戻ると、一思いに左の肘に落とした。
 赤い飛沫が、二人の顔を濡らす。

 ……喰え。喰ってくれ……。
 わしを独りに。独りにしないでくれ……。

 赤く染まって悶えながら懇願する弥助に、女房は観念して起き上がった。
 涙を流して、落ちた腕を拾い上げる。

 ざむり、ぎじり。
 がじ、ぐぎ、ばき。
 ごり、ごり、ごり…………。

 弥助には、もう何も見えなかったが、その音は、とても心地良く耳に響いた。


 * * * * *


 魅勒の滝には、じょろうぐもがおるでよ。
 近寄つたらいかんぞえ。
 男は喰われ、をなごは仔蜘蛛の苗床じゃ。
 近寄ったらいかんぞえ。

 じょろうぐもがおるでよ。

                            了
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