3 / 3
-血塊-
しおりを挟む
〝あの方に、もう一度逢いたくて……〟
それは、許されぬ願いだったのでしょう。
『屍櫻の怪』……。
わたくしは、いつしかそう呼ばれておりました。
人々を薄紅の花弁で誘い出し、命の雫を喰らい尽くす、恐ろしい怪に。
すでに人でないわたくしに、人の頃のような自由は無く、業を重ねる日々は、この心をただひたすらに擦り潰していくようでありました。
何もかもが花の香りの向こうへ消えていく中で、わたくしは、冷たく優しい鋼のような慈しみを持つ貴方と出逢ったのです。
……沙丘 秋也さま。
わたくしは、あなたになら……。
* * * * *
午前2時、夕弦坂西胡、蔘代記念病院。
ぺたりと、肌を濡らす様な不快な空気が漂う廊下を、抜き身の刀を肩に担いで疾る。
まるで谷底に溜まる呻き声のような風鳴りは、ヒトの恐怖という思念を餌にしてカタチを得ようと、不気味に響き渡っていた。
これは、思念の劣化が激しい低級死霊の手口だ。
先日閉鎖されたその病院は、今はそんな虚ろなモノどもの巣窟だった。
曰く、医療ミスにより命を落とした患者が、それを起こした執刀医に対する怨念となって毎夜渦を巻き、入院患者達に悪夢を見せていたのだとか……。
『だが、悪夢、っつうのはマズい』
それは、ここへ来る途中、車のハンドルを握りながら戸張さんが溜め息混じりに呟いた一言だ。
悪夢という怪異はヒトの頭の中で起こる。
だから、怪異を斬って祓う、僕の刀は届かない。
夢に取り憑かれた人たちは、怨念によって見る目に衰弱し、その恐怖は他の人へ伝播する。
そうして複数人が意識下で共有した恐怖は、また新たな恐怖の形を得る。それは人の想像力によって強力に肉付けされてゆく怪異だ。
相変わらず式神さんの考えは分からないけど、今まで定期的なお祓いをするだけで、それ以上の事はしてこなかったらしい。
それが最近になって、患者や医師、看護士の原因不明の昏睡や集団幻覚などの怪現象が立て続けに起こるようになり、ついには渦中の執刀医が手術中に自身の頸動脈をメスで切り裂いて自殺してしまい、状況が一変した。
先の怪現象に加えて、大きな事件を起こした蔘代病院は緊急措置として畳まざるを得なくなり、患者達は市外のあちこちへと転院して行った。
そして残されたのは、強い怨念が渦を巻き続けるこの建物だけになった、というのが事の顛末なんだそうだ。
「…………!」
突然眼前に躍り出てきた青白い死霊に刀を通す。
傘に当たった雨粒のように弾けるそれを見届けることなく、僕は走り続ける。
こちらを妨害しようという、明らかな意志を感じ、その異常さに唇を強く結んだ。
次々と現れる死霊を、その無念ごと斬って祓いながら突き進む。
彼らが立ちはだかる先に、恐らく答えがあるからだ。
『根っこは、件の手術室だろうな』
僕の頭の中で、タブレットのフロアマップを差す戸張さんの節ばった指と横顔と声が甦る。
その言葉を信じて、病棟と手術室のある新棟を繋ぐ空中通路へ向かう。霊安室に近付かずに到達するには、このルートが最適解だった。
大きな窓から差し込む月光が、死霊の揺らめきで屈折して床に落ちる。
不気味な光景を見せて、不安を煽ろうとしているんだろうけど、生憎、僕は普通の人間じゃない。
新棟に入ると、景色が見慣れた病棟とは異なる構造に変わり、響き渡る死霊の呻き声も、明確な敵意を感じるようになった。
刀を構える。
力を込める必要は無い。
つるり、さらりと刀身に弧を描かせ、寄る辺を求める思念を斬り、祓うだけだ。
警察の黄色いテープが掛かったまま放置されている三重構造の滅菌室を抜け、冷やりとした手術室に押し入る。
赤い非常灯に照らされた手術台の上に、〝それ〟は在った。
黒ずんだ岩のような塊にも、裏返った内臓の様にも見える、奇怪な物体。
……でも、そこからは確かにまとわりつくような視線を感じる。
ごぽっ、と不快な音を立てて、あちこちから泥のようなモノが噴き出した。
「なるほど。〝根っこ〟ね……」
僕はその塊を見据えて、愛刀を構える。
悪夢は斬り祓えないけど、収束して物質化した怪異なら、僕の刀も通用するというワケだ。
(とはいえ、コレは……)
無形物相手では無いのだから、刃の当て方を間違えれば、300年祀られていた玉鋼で鍛えた『秋月』と言えど、折れるかも知れない。
この怨念の渦の中心で刀が折れれば、その瞬間に僕の運命は決する。
こんな時……頭に浮かぶのは、いつも同じ。
『なぁ、秋也』
こちらを向いて、少し擦れた笑顔を浮かべる、髭面の男。
僕は、もう一度あの笑顔に会いたい。
だから、こんな場所で、死ぬ訳にはいかないんだ。
* * * * *
一昨日。
「珍しいね、秋也くんが戸張くんを通さずに僕に会いに来るなんて」
その人は、観葉植物に囲まれた大きなソファの上に胡座をかいたまま、笑顔で僕を迎え入れた。
白い着流しの上にペルシャ絨毯みたいな柄の翠のショールを掛け、頭には臙脂色のターバンを巻いている。……相変わらずだ。
「ご無沙汰してます、式神さん」
「やだなぁ、暫く顔を見てないからって、そんな他人行儀にしないでよ」
コロコロと楽しそうに笑う彼の正面の椅子に腰を下ろして、僕はほっと溜め息をついた。
式神 兼人。
この工房の主人にして、幽界と現界の狭間にある街……夕弦坂をただ一人調律できる、稀代の才人。
「それで、今日はどんな用事かな」
その彼が、徐ろにそう尋ねてきたので、
「……言わなくても、判ってるんじゃないですか?」
僕は、視線を逸らし、少し口籠もりながら問い返す。
すると、
「おっとォ? ああ、それは狡いよ、秋也くん。君は自白をするべきだ」
式神さんは一転して厭な笑顔を浮かべた。
「………………」
思わず僕は、言葉を詰まらせる。
「……どうしてです? 僕が言っても言わなくても、事実は変わらないじゃないですか」
彼の達観したまま揺るがない様子を見て、僕は余計な事だと思いつつも、つい反抗的な態度を取ってしまう。
「君の身に起きた事ばかりが事実じゃない。まぁ、確かに、そんな事態じゃあ僕に縋るしかないよね。うん、それは判る。……けどね、問題は、なんでそんな事になってしまったか、なんだよ。因果関係や事象の連続性は無視すべきじゃないんだ。特に、この界隈ではね」
ずばり言い当てつつも、彼は責めるでも咎めるでもなく、ただ好奇心に満ちた目を僕に向けていた。
「君さ、僕の警告を無視したね?」
それは、我が子のイタズラを発見した母親のような目と声色だった。
「……はい、……すみませんでした」
僕は仕方なく、項垂れたまま、そう答える。
それを見た式神さんは、「うんうん」と満足そうに頷いて、
「ふむ…………」
改めて僕の顔を、しげしげと覗く。
「君が自分の役割に従順なところ、そこそこ買ってたんだけどねぇ。安定した性能を約束された防人は僕の手札の中では希少だし」
続けざまの一言は、皮肉というより、僕が想定外の行動をした事に興味を持ったような口振りだった。
「……〝怪〟という情報体に共感は禁物だと、初めに言ったね? 彼らはその存在の殆どを、人間の脳に依存している。怪異に遭遇した時、人は普段は制御できず閉じている危険な才能を、無理矢理引き摺り出され、発揮させられているような状態になる。生殺や妄想具現の才を持っていると、彼らの触媒となって現実を改変させられてしまう。生命を刈り取る万年桜となった〝屍櫻〟や──」
彼は、不敵な笑みを浮かべて、僕を指差す。
「──胎内に子宮を得た、〝君〟のようにね」
僕の背筋が、ゾワリと凍りつくように震えた。
……そう、彼の言う通りだ。
屍櫻に関わった後、暫くして、僕の体内には新しい器官が生まれた。
そして……まだ、少し怖くて自分の目で確認してはいないけど、その器官が正しく作用する為に必要なモノも、一緒に備わったようだ。
これが幻覚や怪異の類でないのは、〝怪異を捉えられない〟体質である戸張さんが視認できた事でも明らかだ。
つまり、僕の身体は、現実に変容してしまったということになる。
僕も戸張さんも、それが何を意味するのか判らず、こうして専門家に相談しにきたというわけだ。
覚悟はしていたが、彼に……式神兼人にそれを言い渡されるのは、逃れられない事実を突き付けられた気分になった。
「非常に興味深い現象だね。屍櫻の怪……篠座 桜と云ったっけ。君の魂はすんでのところで斬祓いを拒絶してしまった。狂ったのは手元じゃない、思考さ。だから、君の刀は彼女と樹を分断するだけに留まり、〝彼女〟は新たな憑代として君の身体を選び、その体内に宿った。君の身体の変容は、君の思考と彼女の残滓に強い親和性が生まれた所為だろう」
「僕と、桜さんの……」
ぼうっとしたままオウム返しする僕に、式神さんは頷いて見せた。
「屍櫻は特異な存在だ。何十年も掛けて人の生命を吸いながら、その情報を保ってきた。彼女の思考や記憶が維持されていたのはその為だし、そもそも〝その為〟に生まれた怪異だったんだからね。君が見たのは、その片鱗だよ。死して尚働き続けた、篠座桜の生存本能みたいなモノだ」
「それって……自分が助かる為、同情を買うよう仕向けたのが、桜さんの考えだったって言うんですか?」
つい声を荒げた僕に、
「まあまあ、そんなに興奮しないで」
式神さんは眉を下げて宥める。
「君だって、今まで散々見てきたし、祓ってきたでしょう? 存在の為にそうやって誘ってくる死霊や怪異を、さ」
つい、と人差し指を立てる彼に、僕は、ぐ……と言葉を呑んだ。今度も、何も言い返せない。
彼の説明通りなら、後天的な病と、その後遺症のようなモノなんだろう。
怪異と融合した事で、僕の身体は、それに合った器に変わってしまったんだ。
男性の身体に突然女性の機能が備わる、なんて、科学的に説明がつかないけど、現実に僕自身の身体が引き起こしている変化だということらしい。
「……悔恨が見えないね」
「そんな事ないですよ。だってこんなの、色々……困るじゃないですか」
「それは現状に対しての感想でしょ? 現に君は、原因であるはずなのに、多くの人命を刈り取ってきた怪異である屍櫻を自然と擁護してるじゃない」
「………………」
「……あ、誤解しないでね、そこをなじったり説教をするつもりはないよ。おっかない付喪神に身体を明け渡し、人の世を護る男だっている。この稼業は多かれ少なかれ、怪異とどう向き合ったり、付き合ったりするかの方が重要なんだ。肝心なのは、どちらが主導し、何を成し得ているかだ。君と彼女は思考情報も融合しているけど、それが、〝誰〟の役に立つモノなのか……それが一番大事なんだよ」
静かにそう説く式神さんの目が、一瞬恐ろしい光を宿したように見えた。
それはつまり、『式神兼人の役に立たないなら、仇をなすなら、情け容赦なく排除するよ』という言葉だ。
「要するに全部君次第なんだよ、秋也くん。これで僕が言った言葉が忠告ではなく、警告だったという事がよく分かったでしょ? 怪異に同情や憐憫は御法度だ。むしろ、この程度で済んだのなら、教訓としては優しい部類じゃないかな。君にとっては複雑な心境だろうが……ま、腹を括るんだね」
話の大事な部分を終えて、式神さんはソファの背もたれに身体を沈めた。
……そう、終わってしまったのだ。
「それって……やっぱり、僕はもう、ずっとこのまま──って事ですか……?」
僕は食い下がるように訊ねる。
「うん、そうだよ」
返ってきたのは、ケロリとした調子の一言だけ。
……僕は黙ってお腹を押さえた。
「〝それ〟は、君が負うべき責任だ。その変容した身体で何を成すのか、じっくり考えるといい」
式神さんは、最後に一つ厭な笑顔を浮かべて、僕にそう言ったのだった。
* * * * *
刀を一度鞘に納め、手術台に乗った血塊の怪異を見据える。
「…………行くよ──」
僕は吐息を漏らすように囁いた。
誰に向けて云ったのか、自分でも判らない。
敵か、〝彼女〟か、それとも自分に対してか。
踏み込む脚は大きく……上体を倒し、更に低く、深く。
流れる時間が引き延ばされて、疾駆する自分の身体すら鈍重に感じる。
身体の底に漲り、全身を駆け巡る力は……ほのかに桜の香りがした。
赤い照明の下、手術台の塊から伸びた肉の触手が乱舞する。
まるで、のたうちまわるミミズか、水を吐きながら暴れ狂うホースのようだ。
僕は宙に舞う触手の下を駆け抜けて、こちらの顔を目掛け鋭く伸びた肉色を、床に滑り込みながら避ける。
肉の器に満ちた死者の怨嗟を毒の様に打ち込む、文字通り〝生きた〟呪い。迂闊に触れれば、あの肉の塊と同じモノになるだろう。
極限まで濃縮された怨み辛みは、基底となる現実の理を歪めて、あのような異形を生み出してしまうという。
そうなれば、もう二度と元には戻れない。
彼らを救う優しい〝力〟なんて、この世にもあの世にもありはしないのだと、式神さんは言っていた。
有象無象を区別無く斬り裂き清める、〝刀〟という象徴がもたらすイメージ。
それでも、触れ得ないモノを祓うだけなら、刀は要らない。
……そうだ。
万象を、ことごとく斬り払う為に、刀を用いる。
僕は、斬祓士なんだ。
ぶしゅり!
空気を裂く声は、縄や刃物が奔る音とは違う、湿度の高い不快さを含んでいた。
侵されてはいけない、という生理的な嫌悪感が足を引っ張ってしまわないよう、僕は己の感覚に蓋をしながら肉の触手を避ける。
幸い、相手の知能は低い。
先端は放たれた矢のような速度だとしても、本体である血塊との間を中継する蛇の胴体の様に湾曲した〝たわみ〟が、手の内を全て明らかにしてしまっている。
僕が足を着き、手で弾いた後の床や壁に触手が突き刺さって、金槌を落としたみたいな音が鳴り響き続けた。
僕の居る場所を狙っているだけなら、永遠に追い付かれることは無い。
薙ぐにしても、突くにしても、攻撃の予備動作が読めるのなら、避けるのは容易だからだ。
でも、長引けば持久力の低い僕の方が不利になる。
疲労で疾さが鈍る前にカタをつけないと──
その時。
ずぐん、と腰から脚の付け根に掛けて激痛が走った。
「ッ⁉︎」
途端に膝の力が抜けて、前につんのめりそうになる。
刹那、僕の頭頂を掠めて、汚れた肉色の触手が通り過ぎていった。
視界の端から、一本の触手が真っ直ぐこちらの眉間に伸びてくるのが見えた。
咄嗟に刀を抜いて翳す。
刀身に厭な衝撃。
火花と赤黒い粘液が飛び散り、僕の頬を呪いで灼いた。
間一髪。
ひゅ、と口から息が洩れる。
──安堵する暇はない。
血塊の方に目を凝らす。
ゆらりと踊る触手は、僕がとる次の動作を探っているかの様に、微かな迷いを見せていた。
……こちらの動きを、学習している……?
この僅かな時間に重ねた戦闘経験が、血塊の怪異を成長させてしまっているのか。
僕は痛みを無視しながら、次の一歩を踏み込もうとして、今まで感じたことのない違和感に襲われた。
力が、上手く入らない。
まるで、腰から下が僕のモノじゃ無くなってしまったみたいだ。
「………………え?」
戸惑いを振り払って、踏み出す。
つるりと滑らせてしまいそうな足を、力一杯、がむしゃらに動かした。
そうしている内に、形容し難い違和感の正体が、おぼろげに浮かび上がってくる。
怪異と向き合う事で、肉体の変質が、さらに進んでいるのだ。
子宮に続いて、たぶん、骨盤が変形している。
腰から大腿部の動きが、まるで別モノだ。
その推察が確信に変わる前に、刀を返して、床や壁に刺さり、伸び切った肉の触手を斬り落とす。
ひとつ。ふたつ。
飛び散った体液が、ぐちゃりとスニーカーの底を濡らした。
全力で剣山を踏んだような鋭い痛みに、口元が歪む。
「っ……!」
我慢だ。
無様なミスを連発しても、今はこれしか手段がない。
今は刀身が呪いで穢れてしまうことよりも、足を侵されて機動力を削がれることよりも、ただ生き延びることを優先しなければいけない。
余力を残す事を考えていたら、命を落としてしまう。
こうなれば、一気呵成だ。
「フ……ゥ…………」
酸素を身体に溜め込む。
刀の切先を正面に向けたまま、弦を引き絞る様に、柄を胸に引き付ける。
取り込んだ燃料を、足元で爆発させるイメージ。
爆ぜるように踏み込んで、触手を大きく咲かせた血塊に突っ込む。
しかし…………。
──駄目だ。
これでは、駄目だ。
速さが足りない。
加速していくのは認識ばかりで、両眼は滝の様に降り注ぐ触手に向いたまま、四肢は自覚する限界を遥かに下回る鈍重に空を游ぐ。
追い付かれる。
あの、生命を冒涜する肉の槍。
ソレに貫かれ、耐え難い激痛と苦悶の中でこの身が滅ぶ想像が、今まで感じたことの無い恐怖を呼び起こしていた。
死の手触りを識ってしまったような感覚だ。
生き延びたいという意志が照らす、あのくしゃりとした笑顔が、闇に閉ざされて、もう殆ど見えない。
ひたひたと背中をなぞっていた、冷たく柔らかい諦念は、もう、この頸に掛かってしまった。
ああ。
〝こんな事なら、
あの時、戸張さんを受け入れておくんだった──〟
最後の最期に浮かんだ言葉が、酷くやましくて。
……でも、それを愛おしいと思えたのは、ほんの少しだけ、幸福だった。
………………。
ふと、
微かに花の香りがした。
春を告げ、儚く散ってゆく、優しい桜の薫い。
咲いては散り、咲いては散る。
その巡りが円環に見えるのは、人の視野や時間が狭い所為だ。
花が散っても、生命は続く。
ましてや、僕の此処に根差したのは、気が遠くなる程の季節の中を生きた櫻だ。
ただ独りで、愛すべき一人を待ち続けた、桜だ。
だから、これは、
この温かい脈動は……。
『生命を繋げたい』という、僕の中の〝桜〟の意思なのかも知れない。
………………。
前を見据える僕の眉間の三センチ先で、肉の槍の先端が、ピタリと止まる。
左脇腹と右腿上面を狙っていた触手も同様だ。
やがて、それらは音も無く、もろりと崩れて僕の足元に土くれのように広がった。
……冷え切った死に体に温かい湯を浴びたような感覚だ。
強張った四肢に体温がもどっていく、むず痒い快感。
僕を中心とした半径数メートルは、今や僕らの口になってしまったみたいだ。
周囲の生命を喰らう、屍櫻の怪……近づくモノの生命を吸い続け、一年中咲き誇る、呪いの桜。
斬祓う事を躊躇ったせいで、この身体に残置された屍櫻……いや、篠座桜の力が、僕らの生命を繋いだ。
風船が萎んでいくように、目の前で血塊の怪は枯れていく。
この怪異の根幹を支える生命を、僕が吸い上げてしまったからだ。
この瞬間、どちらが生き残り、どちらが死ぬかという意味では、勝負はついた。
しかし、それでも、と僅かな疑念が胸の中に翳を落とす。
『怪異に、怪に、共感してはならない』
僕は今、それをこの身体を通して実感している。
だからこそ、この怪異に対しても、同情や情けは持つべきではない。
僕に出来るのは、祓った後に、彼らを思い起こして悼む事だけだ。
愛刀をすらりと構え、風を切る音、それよりも速く。
銀の閃光を、赤黒い怪異に、深く突き刺した。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎──────ッ‼︎
それは、苦痛の啼泣なのか、歓喜の嬌声なのか。
耳に障る忌まわしい叫びに心を塞ぎながら、僕は刀を捻り上げた。
ずぐりとした柔らかい手ごたえの後、砂山のように溶けていく怪異を見下ろして、唇を噛む。
刀身を通じて感じたのは、この怪異の本質だったのかも知れない。
そこで視えたヴィジョンを、心の深い場所に刻みつけながら、僕は静かに刀を納めた。
………………。
荒んだ手術室に、静寂が戻る。
僕は、スマホで事後処理の申請をした後、しばらく呆となっていた。
身体の奥が、ずくり、と疼いた。
自分の下腹部を指先で触れる。
そしてそのまま、ゆっくりとなぞり上げ、胸に手をやった。
……そこには、微かな膨らみがある。
忘れていた呼吸を取り戻しながら、かぶりを振って踵を返す。
不思議と、不安や恐怖は感じない。
ただ、ひとつだけ知りたい。
僕は、いつまで〝僕〟でいられるのだろう──?
* * * * *
刀を下げ、足を引き摺りながら病院の外へ出ると、月明かりの下、車に寄りかかって、戸張さんは煙草を吸っていた。
本数が増えたし、僕にあまり隠さなくなったのは、この身体のせいだ。
ぼんやりと月を見上げている、少しくたびれた背中に忍び足で近付くと、彼は僕の足音に気がついて、火を消して振り向いた。
その直後、怪訝な顔をする。
「……秋也、だよな?」
その言葉に、僕はピクリと肩を震わせた。
「え……あ? いや、ワリ。ナニ言ってんだ、俺。はは……」
「そんなに変わった?」
嫌味ったらしく、そう吐いて、
「──────!」
僕は自分の口から出た声の高さに、思わず口元を押さえ、顔を顰める。
「秋也……」
「待って。……いらないよ、同情なんか」
そして、振り払うように早足で車の後方に回った。
「……そんなんじゃねえって。何があった?」
「別に……。いつも通り、祓ってきただけだよ」
「いつも通りに見えねえから聞いてるんだ」
戸張さんの厳しい言い方に、
「………………」
僕は唇をギュッと結んだまま、車のトランクの前に立ち、その中に刀袋を納めた。
「変わらないよ、いつもと。異変の源泉は血塊……大きさから見て、執刀中に亡くなった医師だと思う」
……斬った瞬間、彼は嘆いていた。
個人的な所見だが、彼をああしたのは、恐らく最初に亡くなった患者と遺族の逆恨みだ。
……そう、全ては勘違いだったんだ。
医師は、ミスなどしていなかった。
亡くなった患者の意識が、医療ミスだと断定して疑わない遺族に憑依して、それが噂と共に病院の内外を汚染していった。
医師は取り憑き殺されてしまった挙句、生者に伝播していた悪夢の怪異を収束させる憑代となり、あの血塊の怪異が誕生してしまったんだ。
……僕は……。
一体、何と戦っていたんだろう。
「なぁ……怪異に肩入れするなよ」
戸張さんの言葉に、唇を噛む。
「してない」
「怪異は、怪異になっちまった時点で、人じゃねえんだ。……自分にとって都合の良い記憶しか覗かせない」
……戸張さんは怪異を捉えられない。
だから、この話はそっくり、式神さんの受け売りだ。
死線にいる時は、あんなに焦がれて求めていたはずの声だけど、……僕が聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。
苛ついた気分のままトランクを閉じた手に、背後に立つ戸張さんが手を重ねる。
その温かさに、喉の奥がギュッと詰まった。
「……離して。穢れるよ」
今の僕の身体は、怪異との戦いで汚染されている。
いくら戸張さんが〝怪異と交わらない〟体質で、それらを無毒にできるといっても、やっぱり、気分がいいものじゃない。
「構わない」
「いくら無害だからって」
「そうじゃねぇ……!」
重なった手に、少しだけ力がこもる。
「……判れよ。 俺は、お前が戻ってきてくれて、やっと安心できたんだ」
「こんな姿でも?」
僕は彼の方に向き直り、ズイ、と胸を反らせて見せつける。
「どんな姿でもだ」
返す刀で戸張さんは言った。
その目は、僕の目を見ている。
彼の顔を真っ直ぐに見れなくて、背を向けた。
「……ああ、そうか。戸張さんは〝どっち〟でも構わないんだもんね」
顔も見ずにこんな乱暴な言い方をしてしまった事を、後で絶対に後悔するだろう。
案の定、戸張さんは不快そうに息を吐いた。
それが聞こえても、僕は胸に溜まった感情を吐き出さずにはいられなかった。
何に腹を立てて、何故ムキになってしまっているのか……今の僕には、僕自身がよく判らない。
「どうしちまったんだよ、秋也……」
「……そんなの、僕の方が知りたいよ……」
こんな曖昧な身体になる前から、僕は幾度も怪異と対峙してきたし、その度に、死に曝される恐怖を戸張さんにぶつけてきた。
彼が受け入れ、求めてくれるのを良い事に、そこに付け込んできた。
それどころか、その倒錯した感情の取り引きを、僕らの利害関係だと信じて疑わなかったし、確かめようともしなかった。
戸張さんが、男の身体を持つ僕を受け入れてくれる事で、安心という保証を得ようとしていたのかも知れない。
自分自身の身体の変容は怖くない。
ただ、今までの関係が築いてきた感情と信頼が、足元が崩れてしまうような、この不安は……とても抱えきれない。
だから、きっと……本当に狡いのは、僕の方だ。
「………………」
冷たい風に一つ身震いして、腕を組む。
「……秋也……」
戸張さんは、徐ろに羽織っていたコートを脱いで、僕の肩に掛けてくれた。
いつの間にか冷え切っていた身体に、彼の温もりが沁みてくる。
「……行こうぜ。俺、怪異は無害だけど、風邪は引いちまう」
優しい声で冗談を言って、戸張さんは僕の肩を優しく押した。
促されるまま車の助手席に座り、ドアミラーに写る景色だけを見つめる。
走り出したら車内は密室だ。二人の息遣いだけが響く空間は、どんどん息苦しくなっていく。
「……なぁ、独りで不安を抱え込もうとするなよ。俺たちは公私混同の相棒だろ?」
徐ろに口を開く戸張さんは、それに耐え切れなかったんだろう。
「お前は怪異に決定的な最後をくれてやれる、唯一の斬祓士で、俺はお前の為にいる、鈍感な補給係だ。お前が怪異相手に命を張ってくれる分、俺はそれ以外の場所で全力でお前をサポートする。……だろ?」
「……うん」
「歳だって一回り違うし、現場だって、ベッドの上だって、俺たちは対等じゃない。でも、俺もお前も好きにやってきたじゃないか。俺はそんなお前が好きだし、……だから何もかもを預けられる」
いつもの軽薄な喋り方とは違う、少し真剣な口振りだった。
「……ありがとう。……でも──」
掠れる様な声で答える。
「……僕には、その気持ちが重いよ」
彼の信頼に、期待に、応えてあげられる自信がない。
……そんな状態で、彼と一緒にいるべきじゃないと思う。
「見損なうなよ」
その言葉に、
「え……?」
僕は少し驚いて、戸張さんの方を見た。
彼はハンドルを握って、まっすぐ前を向いている。
「俺が信じてるのは、結果じゃない。お前だよ、秋也」
「………………」
「俺はお前がイイ奴だって知ってる。いつも真剣だし、真面目だ。そんなお前がそうなったのは、屍櫻の斬祓いに失敗したからじゃない。優しかったからだ。正しいとか間違ってるとか、そんな事、俺にはどうだっていい。怪異に肩入れして欲しくねぇのは、お前が大事だからだ。……俺は、式神とは違う。沙丘秋也を信じてる」
「………………っ」
やめて。
そんな事を言われたら、我慢していたものが溢れ出てきそうだ。
戸張さんに気付かれないように、僕は鼻を啜って、こっそりと目を拭った。
「俺は、お前についていくよ、秋也」
「……うん」
肩を下ろして、僕は車のシートに背中を預けた。
頭の中を駆け巡っていた嫌なことが、少しずつ治まっていくのを感じる。
……自分がどうなってしまうのかという事より、まず、僕はまだ幼いのだと実感した。
その事実は、それほど頭に来る事でもなくて、僕自身がこれ以上自分を痛め付けずに済む、優しさに近い。
「少しミスったくらい、気にすんな」
「……うん。少し……って感じじゃないけどね」
僕が言うと、戸張さんは「ははっ」と笑った。
……なんだか、やっと、生きて帰ってこれた事を嬉しく思えてきた。
「今のお前も好きだぜ」
「それ、複雑だよ」
「考えすぎだって。……俺の事、嫌いになったか?」
「………………すこし」
「マジか。本当に?」
「うん」
「ふぅん。……なぁ、確かめてもいいか?」
「今日は、疲れちゃった」
「冗談だよ。安心しな、部屋の前まで送ってやるから」
ウィンカーを出して交差点を曲がる。この道を行った先には、誰も待っていない、僕の家がある。
チラとカーナビの左端の時計を見て、夜明けまでの時間を計算して、考える。
「……ううん」
「?」
「どこか……寄って」
……心臓が、少しだけうるさい。
「いいのか? 帰らなくて」
「早く、シャワー浴びたいし……」
口が重たくて、思ってる事をなかなか言い出せないのが、もどかしい。
「……そのついでに、朝まで一緒に、いてよ」
やっとの事で言葉を出したら、妙に緊張してきた。この身体のせいかも知れない。
戸張さんは無言のまま、しばらく車を走らせて、
「……わかった」
短く、そう答えてくれた。
* * * * *
「痛むか?」
僕のバスローブの裾から覗く、紫色の足を見つめながら、戸張さんは訊ねてきた。
「ううん。見た目ほど酷くないよ」
言って、ベッドに腰掛けている彼の横に腰を下ろす。
部屋は広くて良いけど、アメニティのボディソープの匂いがキツいのは少し不快だった。
「……文句言うなよ? 今日は用意してもらってなかったんだから」
「何も言ってないでしょ。心を読まないでよ」
「顔に出てんの」
「あっそう」
僕は頭に掛けたバスタオルを椅子に向かって投げた。
「……ん、用意って?」
「仕事の時は避難場所っつって、いつも申請してんだよ」
「え、式神さんに?」
「ばぁか。安納さんだよ。いつもアシとかメシとか宿の手配してくれてんの」
「そうだったんだ」
どうりで、こういうホテル繁盛する時期でも良い部屋に泊まれてるなと思った。
まぁ、どのみち式神さんにも伝わるんだろうけど、営業的にクリーンなホテルを幾つかおさえてるのか……いや、もしかするとオーナーなのかも知れない。
「なんか、風俗みたいだ……」
「知ったようなクチきくなよ」
「………………」
「……は? 秋也、お前まさか」
「別にいいでしょ、それくらい。一般教養みたいなものじゃない」
「おまっ……嗜み感覚で言うなよ。どっかのエロオヤジじゃねぇんだから」
「なに、自分の事?」
「うっせ」
トン、と肩を押されるままに、僕はベッドの上に仰向けに倒れた。
……胸まわりと、股からお腹の奥にかけて、ヘンに疼く。
頭から切り離そうとしても、こうして実感を伴ってしまう。無駄な足掻きなんだろう。
ふと見やると、戸張さんの目が、少しはだけた僕のバスローブの胸元に注がれている。
「見てる」
「そりゃ……見るだろ」
「やらしい目で」
「お前だって。エロガキじゃないか」
「……大人になるまで生きてるか分からないんだし、それくらい良いじゃない」
「………………」
渋い顔で黙ってしまった戸張さんを放っておいて、僕は身を捩ってシーツに潜り込む。
「……何してるの? 早くこっち来てよ」
鼻の頭までシーツに埋めて、動けないでいる戸張さんにジト目を向ける。
すると、彼は徐ろに僕の隣に横たわり、肘枕でこちらを見下ろしてきた。
「腕、貸して」
「………………」
言われるまま差し出した腕を僕は枕にして、身体を寄せる。
腕を彼の胸元に、脚を少しだけ絡ませて。
人の体温に包まれていると、自分が生きているんだって思い出せる。
だから、腕枕は好きだ。
「……次は?」
「……なにもしないで、このまま朝まで居てくれる?」
「……わかったよ……」
「ごめん」
「いいさ」
「……ありがと」
僕が礼を言うと、彼は「しょうがねぇな」と言わんばかりに嘆息して、僕の髪をそっと撫でてくれた。
まるで子どもをあやすみたいに、優しい手付きで、何度も何度も……。
「秋也」
「………………」
戸張さんの声に、僕は寝たフリを続ける。
「……俺が守ってやるから」
耳元で、そうごちた言葉は、僕に届いてると知っているんだろうか?
『守ってやる』……か。
ずっと、僕が彼を守ってるつもりだったのに。
いま、やっと判った。
……それは、
その言葉は、本当に一番、僕が欲しい言葉だったんだ。
了
それは、許されぬ願いだったのでしょう。
『屍櫻の怪』……。
わたくしは、いつしかそう呼ばれておりました。
人々を薄紅の花弁で誘い出し、命の雫を喰らい尽くす、恐ろしい怪に。
すでに人でないわたくしに、人の頃のような自由は無く、業を重ねる日々は、この心をただひたすらに擦り潰していくようでありました。
何もかもが花の香りの向こうへ消えていく中で、わたくしは、冷たく優しい鋼のような慈しみを持つ貴方と出逢ったのです。
……沙丘 秋也さま。
わたくしは、あなたになら……。
* * * * *
午前2時、夕弦坂西胡、蔘代記念病院。
ぺたりと、肌を濡らす様な不快な空気が漂う廊下を、抜き身の刀を肩に担いで疾る。
まるで谷底に溜まる呻き声のような風鳴りは、ヒトの恐怖という思念を餌にしてカタチを得ようと、不気味に響き渡っていた。
これは、思念の劣化が激しい低級死霊の手口だ。
先日閉鎖されたその病院は、今はそんな虚ろなモノどもの巣窟だった。
曰く、医療ミスにより命を落とした患者が、それを起こした執刀医に対する怨念となって毎夜渦を巻き、入院患者達に悪夢を見せていたのだとか……。
『だが、悪夢、っつうのはマズい』
それは、ここへ来る途中、車のハンドルを握りながら戸張さんが溜め息混じりに呟いた一言だ。
悪夢という怪異はヒトの頭の中で起こる。
だから、怪異を斬って祓う、僕の刀は届かない。
夢に取り憑かれた人たちは、怨念によって見る目に衰弱し、その恐怖は他の人へ伝播する。
そうして複数人が意識下で共有した恐怖は、また新たな恐怖の形を得る。それは人の想像力によって強力に肉付けされてゆく怪異だ。
相変わらず式神さんの考えは分からないけど、今まで定期的なお祓いをするだけで、それ以上の事はしてこなかったらしい。
それが最近になって、患者や医師、看護士の原因不明の昏睡や集団幻覚などの怪現象が立て続けに起こるようになり、ついには渦中の執刀医が手術中に自身の頸動脈をメスで切り裂いて自殺してしまい、状況が一変した。
先の怪現象に加えて、大きな事件を起こした蔘代病院は緊急措置として畳まざるを得なくなり、患者達は市外のあちこちへと転院して行った。
そして残されたのは、強い怨念が渦を巻き続けるこの建物だけになった、というのが事の顛末なんだそうだ。
「…………!」
突然眼前に躍り出てきた青白い死霊に刀を通す。
傘に当たった雨粒のように弾けるそれを見届けることなく、僕は走り続ける。
こちらを妨害しようという、明らかな意志を感じ、その異常さに唇を強く結んだ。
次々と現れる死霊を、その無念ごと斬って祓いながら突き進む。
彼らが立ちはだかる先に、恐らく答えがあるからだ。
『根っこは、件の手術室だろうな』
僕の頭の中で、タブレットのフロアマップを差す戸張さんの節ばった指と横顔と声が甦る。
その言葉を信じて、病棟と手術室のある新棟を繋ぐ空中通路へ向かう。霊安室に近付かずに到達するには、このルートが最適解だった。
大きな窓から差し込む月光が、死霊の揺らめきで屈折して床に落ちる。
不気味な光景を見せて、不安を煽ろうとしているんだろうけど、生憎、僕は普通の人間じゃない。
新棟に入ると、景色が見慣れた病棟とは異なる構造に変わり、響き渡る死霊の呻き声も、明確な敵意を感じるようになった。
刀を構える。
力を込める必要は無い。
つるり、さらりと刀身に弧を描かせ、寄る辺を求める思念を斬り、祓うだけだ。
警察の黄色いテープが掛かったまま放置されている三重構造の滅菌室を抜け、冷やりとした手術室に押し入る。
赤い非常灯に照らされた手術台の上に、〝それ〟は在った。
黒ずんだ岩のような塊にも、裏返った内臓の様にも見える、奇怪な物体。
……でも、そこからは確かにまとわりつくような視線を感じる。
ごぽっ、と不快な音を立てて、あちこちから泥のようなモノが噴き出した。
「なるほど。〝根っこ〟ね……」
僕はその塊を見据えて、愛刀を構える。
悪夢は斬り祓えないけど、収束して物質化した怪異なら、僕の刀も通用するというワケだ。
(とはいえ、コレは……)
無形物相手では無いのだから、刃の当て方を間違えれば、300年祀られていた玉鋼で鍛えた『秋月』と言えど、折れるかも知れない。
この怨念の渦の中心で刀が折れれば、その瞬間に僕の運命は決する。
こんな時……頭に浮かぶのは、いつも同じ。
『なぁ、秋也』
こちらを向いて、少し擦れた笑顔を浮かべる、髭面の男。
僕は、もう一度あの笑顔に会いたい。
だから、こんな場所で、死ぬ訳にはいかないんだ。
* * * * *
一昨日。
「珍しいね、秋也くんが戸張くんを通さずに僕に会いに来るなんて」
その人は、観葉植物に囲まれた大きなソファの上に胡座をかいたまま、笑顔で僕を迎え入れた。
白い着流しの上にペルシャ絨毯みたいな柄の翠のショールを掛け、頭には臙脂色のターバンを巻いている。……相変わらずだ。
「ご無沙汰してます、式神さん」
「やだなぁ、暫く顔を見てないからって、そんな他人行儀にしないでよ」
コロコロと楽しそうに笑う彼の正面の椅子に腰を下ろして、僕はほっと溜め息をついた。
式神 兼人。
この工房の主人にして、幽界と現界の狭間にある街……夕弦坂をただ一人調律できる、稀代の才人。
「それで、今日はどんな用事かな」
その彼が、徐ろにそう尋ねてきたので、
「……言わなくても、判ってるんじゃないですか?」
僕は、視線を逸らし、少し口籠もりながら問い返す。
すると、
「おっとォ? ああ、それは狡いよ、秋也くん。君は自白をするべきだ」
式神さんは一転して厭な笑顔を浮かべた。
「………………」
思わず僕は、言葉を詰まらせる。
「……どうしてです? 僕が言っても言わなくても、事実は変わらないじゃないですか」
彼の達観したまま揺るがない様子を見て、僕は余計な事だと思いつつも、つい反抗的な態度を取ってしまう。
「君の身に起きた事ばかりが事実じゃない。まぁ、確かに、そんな事態じゃあ僕に縋るしかないよね。うん、それは判る。……けどね、問題は、なんでそんな事になってしまったか、なんだよ。因果関係や事象の連続性は無視すべきじゃないんだ。特に、この界隈ではね」
ずばり言い当てつつも、彼は責めるでも咎めるでもなく、ただ好奇心に満ちた目を僕に向けていた。
「君さ、僕の警告を無視したね?」
それは、我が子のイタズラを発見した母親のような目と声色だった。
「……はい、……すみませんでした」
僕は仕方なく、項垂れたまま、そう答える。
それを見た式神さんは、「うんうん」と満足そうに頷いて、
「ふむ…………」
改めて僕の顔を、しげしげと覗く。
「君が自分の役割に従順なところ、そこそこ買ってたんだけどねぇ。安定した性能を約束された防人は僕の手札の中では希少だし」
続けざまの一言は、皮肉というより、僕が想定外の行動をした事に興味を持ったような口振りだった。
「……〝怪〟という情報体に共感は禁物だと、初めに言ったね? 彼らはその存在の殆どを、人間の脳に依存している。怪異に遭遇した時、人は普段は制御できず閉じている危険な才能を、無理矢理引き摺り出され、発揮させられているような状態になる。生殺や妄想具現の才を持っていると、彼らの触媒となって現実を改変させられてしまう。生命を刈り取る万年桜となった〝屍櫻〟や──」
彼は、不敵な笑みを浮かべて、僕を指差す。
「──胎内に子宮を得た、〝君〟のようにね」
僕の背筋が、ゾワリと凍りつくように震えた。
……そう、彼の言う通りだ。
屍櫻に関わった後、暫くして、僕の体内には新しい器官が生まれた。
そして……まだ、少し怖くて自分の目で確認してはいないけど、その器官が正しく作用する為に必要なモノも、一緒に備わったようだ。
これが幻覚や怪異の類でないのは、〝怪異を捉えられない〟体質である戸張さんが視認できた事でも明らかだ。
つまり、僕の身体は、現実に変容してしまったということになる。
僕も戸張さんも、それが何を意味するのか判らず、こうして専門家に相談しにきたというわけだ。
覚悟はしていたが、彼に……式神兼人にそれを言い渡されるのは、逃れられない事実を突き付けられた気分になった。
「非常に興味深い現象だね。屍櫻の怪……篠座 桜と云ったっけ。君の魂はすんでのところで斬祓いを拒絶してしまった。狂ったのは手元じゃない、思考さ。だから、君の刀は彼女と樹を分断するだけに留まり、〝彼女〟は新たな憑代として君の身体を選び、その体内に宿った。君の身体の変容は、君の思考と彼女の残滓に強い親和性が生まれた所為だろう」
「僕と、桜さんの……」
ぼうっとしたままオウム返しする僕に、式神さんは頷いて見せた。
「屍櫻は特異な存在だ。何十年も掛けて人の生命を吸いながら、その情報を保ってきた。彼女の思考や記憶が維持されていたのはその為だし、そもそも〝その為〟に生まれた怪異だったんだからね。君が見たのは、その片鱗だよ。死して尚働き続けた、篠座桜の生存本能みたいなモノだ」
「それって……自分が助かる為、同情を買うよう仕向けたのが、桜さんの考えだったって言うんですか?」
つい声を荒げた僕に、
「まあまあ、そんなに興奮しないで」
式神さんは眉を下げて宥める。
「君だって、今まで散々見てきたし、祓ってきたでしょう? 存在の為にそうやって誘ってくる死霊や怪異を、さ」
つい、と人差し指を立てる彼に、僕は、ぐ……と言葉を呑んだ。今度も、何も言い返せない。
彼の説明通りなら、後天的な病と、その後遺症のようなモノなんだろう。
怪異と融合した事で、僕の身体は、それに合った器に変わってしまったんだ。
男性の身体に突然女性の機能が備わる、なんて、科学的に説明がつかないけど、現実に僕自身の身体が引き起こしている変化だということらしい。
「……悔恨が見えないね」
「そんな事ないですよ。だってこんなの、色々……困るじゃないですか」
「それは現状に対しての感想でしょ? 現に君は、原因であるはずなのに、多くの人命を刈り取ってきた怪異である屍櫻を自然と擁護してるじゃない」
「………………」
「……あ、誤解しないでね、そこをなじったり説教をするつもりはないよ。おっかない付喪神に身体を明け渡し、人の世を護る男だっている。この稼業は多かれ少なかれ、怪異とどう向き合ったり、付き合ったりするかの方が重要なんだ。肝心なのは、どちらが主導し、何を成し得ているかだ。君と彼女は思考情報も融合しているけど、それが、〝誰〟の役に立つモノなのか……それが一番大事なんだよ」
静かにそう説く式神さんの目が、一瞬恐ろしい光を宿したように見えた。
それはつまり、『式神兼人の役に立たないなら、仇をなすなら、情け容赦なく排除するよ』という言葉だ。
「要するに全部君次第なんだよ、秋也くん。これで僕が言った言葉が忠告ではなく、警告だったという事がよく分かったでしょ? 怪異に同情や憐憫は御法度だ。むしろ、この程度で済んだのなら、教訓としては優しい部類じゃないかな。君にとっては複雑な心境だろうが……ま、腹を括るんだね」
話の大事な部分を終えて、式神さんはソファの背もたれに身体を沈めた。
……そう、終わってしまったのだ。
「それって……やっぱり、僕はもう、ずっとこのまま──って事ですか……?」
僕は食い下がるように訊ねる。
「うん、そうだよ」
返ってきたのは、ケロリとした調子の一言だけ。
……僕は黙ってお腹を押さえた。
「〝それ〟は、君が負うべき責任だ。その変容した身体で何を成すのか、じっくり考えるといい」
式神さんは、最後に一つ厭な笑顔を浮かべて、僕にそう言ったのだった。
* * * * *
刀を一度鞘に納め、手術台に乗った血塊の怪異を見据える。
「…………行くよ──」
僕は吐息を漏らすように囁いた。
誰に向けて云ったのか、自分でも判らない。
敵か、〝彼女〟か、それとも自分に対してか。
踏み込む脚は大きく……上体を倒し、更に低く、深く。
流れる時間が引き延ばされて、疾駆する自分の身体すら鈍重に感じる。
身体の底に漲り、全身を駆け巡る力は……ほのかに桜の香りがした。
赤い照明の下、手術台の塊から伸びた肉の触手が乱舞する。
まるで、のたうちまわるミミズか、水を吐きながら暴れ狂うホースのようだ。
僕は宙に舞う触手の下を駆け抜けて、こちらの顔を目掛け鋭く伸びた肉色を、床に滑り込みながら避ける。
肉の器に満ちた死者の怨嗟を毒の様に打ち込む、文字通り〝生きた〟呪い。迂闊に触れれば、あの肉の塊と同じモノになるだろう。
極限まで濃縮された怨み辛みは、基底となる現実の理を歪めて、あのような異形を生み出してしまうという。
そうなれば、もう二度と元には戻れない。
彼らを救う優しい〝力〟なんて、この世にもあの世にもありはしないのだと、式神さんは言っていた。
有象無象を区別無く斬り裂き清める、〝刀〟という象徴がもたらすイメージ。
それでも、触れ得ないモノを祓うだけなら、刀は要らない。
……そうだ。
万象を、ことごとく斬り払う為に、刀を用いる。
僕は、斬祓士なんだ。
ぶしゅり!
空気を裂く声は、縄や刃物が奔る音とは違う、湿度の高い不快さを含んでいた。
侵されてはいけない、という生理的な嫌悪感が足を引っ張ってしまわないよう、僕は己の感覚に蓋をしながら肉の触手を避ける。
幸い、相手の知能は低い。
先端は放たれた矢のような速度だとしても、本体である血塊との間を中継する蛇の胴体の様に湾曲した〝たわみ〟が、手の内を全て明らかにしてしまっている。
僕が足を着き、手で弾いた後の床や壁に触手が突き刺さって、金槌を落としたみたいな音が鳴り響き続けた。
僕の居る場所を狙っているだけなら、永遠に追い付かれることは無い。
薙ぐにしても、突くにしても、攻撃の予備動作が読めるのなら、避けるのは容易だからだ。
でも、長引けば持久力の低い僕の方が不利になる。
疲労で疾さが鈍る前にカタをつけないと──
その時。
ずぐん、と腰から脚の付け根に掛けて激痛が走った。
「ッ⁉︎」
途端に膝の力が抜けて、前につんのめりそうになる。
刹那、僕の頭頂を掠めて、汚れた肉色の触手が通り過ぎていった。
視界の端から、一本の触手が真っ直ぐこちらの眉間に伸びてくるのが見えた。
咄嗟に刀を抜いて翳す。
刀身に厭な衝撃。
火花と赤黒い粘液が飛び散り、僕の頬を呪いで灼いた。
間一髪。
ひゅ、と口から息が洩れる。
──安堵する暇はない。
血塊の方に目を凝らす。
ゆらりと踊る触手は、僕がとる次の動作を探っているかの様に、微かな迷いを見せていた。
……こちらの動きを、学習している……?
この僅かな時間に重ねた戦闘経験が、血塊の怪異を成長させてしまっているのか。
僕は痛みを無視しながら、次の一歩を踏み込もうとして、今まで感じたことのない違和感に襲われた。
力が、上手く入らない。
まるで、腰から下が僕のモノじゃ無くなってしまったみたいだ。
「………………え?」
戸惑いを振り払って、踏み出す。
つるりと滑らせてしまいそうな足を、力一杯、がむしゃらに動かした。
そうしている内に、形容し難い違和感の正体が、おぼろげに浮かび上がってくる。
怪異と向き合う事で、肉体の変質が、さらに進んでいるのだ。
子宮に続いて、たぶん、骨盤が変形している。
腰から大腿部の動きが、まるで別モノだ。
その推察が確信に変わる前に、刀を返して、床や壁に刺さり、伸び切った肉の触手を斬り落とす。
ひとつ。ふたつ。
飛び散った体液が、ぐちゃりとスニーカーの底を濡らした。
全力で剣山を踏んだような鋭い痛みに、口元が歪む。
「っ……!」
我慢だ。
無様なミスを連発しても、今はこれしか手段がない。
今は刀身が呪いで穢れてしまうことよりも、足を侵されて機動力を削がれることよりも、ただ生き延びることを優先しなければいけない。
余力を残す事を考えていたら、命を落としてしまう。
こうなれば、一気呵成だ。
「フ……ゥ…………」
酸素を身体に溜め込む。
刀の切先を正面に向けたまま、弦を引き絞る様に、柄を胸に引き付ける。
取り込んだ燃料を、足元で爆発させるイメージ。
爆ぜるように踏み込んで、触手を大きく咲かせた血塊に突っ込む。
しかし…………。
──駄目だ。
これでは、駄目だ。
速さが足りない。
加速していくのは認識ばかりで、両眼は滝の様に降り注ぐ触手に向いたまま、四肢は自覚する限界を遥かに下回る鈍重に空を游ぐ。
追い付かれる。
あの、生命を冒涜する肉の槍。
ソレに貫かれ、耐え難い激痛と苦悶の中でこの身が滅ぶ想像が、今まで感じたことの無い恐怖を呼び起こしていた。
死の手触りを識ってしまったような感覚だ。
生き延びたいという意志が照らす、あのくしゃりとした笑顔が、闇に閉ざされて、もう殆ど見えない。
ひたひたと背中をなぞっていた、冷たく柔らかい諦念は、もう、この頸に掛かってしまった。
ああ。
〝こんな事なら、
あの時、戸張さんを受け入れておくんだった──〟
最後の最期に浮かんだ言葉が、酷くやましくて。
……でも、それを愛おしいと思えたのは、ほんの少しだけ、幸福だった。
………………。
ふと、
微かに花の香りがした。
春を告げ、儚く散ってゆく、優しい桜の薫い。
咲いては散り、咲いては散る。
その巡りが円環に見えるのは、人の視野や時間が狭い所為だ。
花が散っても、生命は続く。
ましてや、僕の此処に根差したのは、気が遠くなる程の季節の中を生きた櫻だ。
ただ独りで、愛すべき一人を待ち続けた、桜だ。
だから、これは、
この温かい脈動は……。
『生命を繋げたい』という、僕の中の〝桜〟の意思なのかも知れない。
………………。
前を見据える僕の眉間の三センチ先で、肉の槍の先端が、ピタリと止まる。
左脇腹と右腿上面を狙っていた触手も同様だ。
やがて、それらは音も無く、もろりと崩れて僕の足元に土くれのように広がった。
……冷え切った死に体に温かい湯を浴びたような感覚だ。
強張った四肢に体温がもどっていく、むず痒い快感。
僕を中心とした半径数メートルは、今や僕らの口になってしまったみたいだ。
周囲の生命を喰らう、屍櫻の怪……近づくモノの生命を吸い続け、一年中咲き誇る、呪いの桜。
斬祓う事を躊躇ったせいで、この身体に残置された屍櫻……いや、篠座桜の力が、僕らの生命を繋いだ。
風船が萎んでいくように、目の前で血塊の怪は枯れていく。
この怪異の根幹を支える生命を、僕が吸い上げてしまったからだ。
この瞬間、どちらが生き残り、どちらが死ぬかという意味では、勝負はついた。
しかし、それでも、と僅かな疑念が胸の中に翳を落とす。
『怪異に、怪に、共感してはならない』
僕は今、それをこの身体を通して実感している。
だからこそ、この怪異に対しても、同情や情けは持つべきではない。
僕に出来るのは、祓った後に、彼らを思い起こして悼む事だけだ。
愛刀をすらりと構え、風を切る音、それよりも速く。
銀の閃光を、赤黒い怪異に、深く突き刺した。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎──────ッ‼︎
それは、苦痛の啼泣なのか、歓喜の嬌声なのか。
耳に障る忌まわしい叫びに心を塞ぎながら、僕は刀を捻り上げた。
ずぐりとした柔らかい手ごたえの後、砂山のように溶けていく怪異を見下ろして、唇を噛む。
刀身を通じて感じたのは、この怪異の本質だったのかも知れない。
そこで視えたヴィジョンを、心の深い場所に刻みつけながら、僕は静かに刀を納めた。
………………。
荒んだ手術室に、静寂が戻る。
僕は、スマホで事後処理の申請をした後、しばらく呆となっていた。
身体の奥が、ずくり、と疼いた。
自分の下腹部を指先で触れる。
そしてそのまま、ゆっくりとなぞり上げ、胸に手をやった。
……そこには、微かな膨らみがある。
忘れていた呼吸を取り戻しながら、かぶりを振って踵を返す。
不思議と、不安や恐怖は感じない。
ただ、ひとつだけ知りたい。
僕は、いつまで〝僕〟でいられるのだろう──?
* * * * *
刀を下げ、足を引き摺りながら病院の外へ出ると、月明かりの下、車に寄りかかって、戸張さんは煙草を吸っていた。
本数が増えたし、僕にあまり隠さなくなったのは、この身体のせいだ。
ぼんやりと月を見上げている、少しくたびれた背中に忍び足で近付くと、彼は僕の足音に気がついて、火を消して振り向いた。
その直後、怪訝な顔をする。
「……秋也、だよな?」
その言葉に、僕はピクリと肩を震わせた。
「え……あ? いや、ワリ。ナニ言ってんだ、俺。はは……」
「そんなに変わった?」
嫌味ったらしく、そう吐いて、
「──────!」
僕は自分の口から出た声の高さに、思わず口元を押さえ、顔を顰める。
「秋也……」
「待って。……いらないよ、同情なんか」
そして、振り払うように早足で車の後方に回った。
「……そんなんじゃねえって。何があった?」
「別に……。いつも通り、祓ってきただけだよ」
「いつも通りに見えねえから聞いてるんだ」
戸張さんの厳しい言い方に、
「………………」
僕は唇をギュッと結んだまま、車のトランクの前に立ち、その中に刀袋を納めた。
「変わらないよ、いつもと。異変の源泉は血塊……大きさから見て、執刀中に亡くなった医師だと思う」
……斬った瞬間、彼は嘆いていた。
個人的な所見だが、彼をああしたのは、恐らく最初に亡くなった患者と遺族の逆恨みだ。
……そう、全ては勘違いだったんだ。
医師は、ミスなどしていなかった。
亡くなった患者の意識が、医療ミスだと断定して疑わない遺族に憑依して、それが噂と共に病院の内外を汚染していった。
医師は取り憑き殺されてしまった挙句、生者に伝播していた悪夢の怪異を収束させる憑代となり、あの血塊の怪異が誕生してしまったんだ。
……僕は……。
一体、何と戦っていたんだろう。
「なぁ……怪異に肩入れするなよ」
戸張さんの言葉に、唇を噛む。
「してない」
「怪異は、怪異になっちまった時点で、人じゃねえんだ。……自分にとって都合の良い記憶しか覗かせない」
……戸張さんは怪異を捉えられない。
だから、この話はそっくり、式神さんの受け売りだ。
死線にいる時は、あんなに焦がれて求めていたはずの声だけど、……僕が聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。
苛ついた気分のままトランクを閉じた手に、背後に立つ戸張さんが手を重ねる。
その温かさに、喉の奥がギュッと詰まった。
「……離して。穢れるよ」
今の僕の身体は、怪異との戦いで汚染されている。
いくら戸張さんが〝怪異と交わらない〟体質で、それらを無毒にできるといっても、やっぱり、気分がいいものじゃない。
「構わない」
「いくら無害だからって」
「そうじゃねぇ……!」
重なった手に、少しだけ力がこもる。
「……判れよ。 俺は、お前が戻ってきてくれて、やっと安心できたんだ」
「こんな姿でも?」
僕は彼の方に向き直り、ズイ、と胸を反らせて見せつける。
「どんな姿でもだ」
返す刀で戸張さんは言った。
その目は、僕の目を見ている。
彼の顔を真っ直ぐに見れなくて、背を向けた。
「……ああ、そうか。戸張さんは〝どっち〟でも構わないんだもんね」
顔も見ずにこんな乱暴な言い方をしてしまった事を、後で絶対に後悔するだろう。
案の定、戸張さんは不快そうに息を吐いた。
それが聞こえても、僕は胸に溜まった感情を吐き出さずにはいられなかった。
何に腹を立てて、何故ムキになってしまっているのか……今の僕には、僕自身がよく判らない。
「どうしちまったんだよ、秋也……」
「……そんなの、僕の方が知りたいよ……」
こんな曖昧な身体になる前から、僕は幾度も怪異と対峙してきたし、その度に、死に曝される恐怖を戸張さんにぶつけてきた。
彼が受け入れ、求めてくれるのを良い事に、そこに付け込んできた。
それどころか、その倒錯した感情の取り引きを、僕らの利害関係だと信じて疑わなかったし、確かめようともしなかった。
戸張さんが、男の身体を持つ僕を受け入れてくれる事で、安心という保証を得ようとしていたのかも知れない。
自分自身の身体の変容は怖くない。
ただ、今までの関係が築いてきた感情と信頼が、足元が崩れてしまうような、この不安は……とても抱えきれない。
だから、きっと……本当に狡いのは、僕の方だ。
「………………」
冷たい風に一つ身震いして、腕を組む。
「……秋也……」
戸張さんは、徐ろに羽織っていたコートを脱いで、僕の肩に掛けてくれた。
いつの間にか冷え切っていた身体に、彼の温もりが沁みてくる。
「……行こうぜ。俺、怪異は無害だけど、風邪は引いちまう」
優しい声で冗談を言って、戸張さんは僕の肩を優しく押した。
促されるまま車の助手席に座り、ドアミラーに写る景色だけを見つめる。
走り出したら車内は密室だ。二人の息遣いだけが響く空間は、どんどん息苦しくなっていく。
「……なぁ、独りで不安を抱え込もうとするなよ。俺たちは公私混同の相棒だろ?」
徐ろに口を開く戸張さんは、それに耐え切れなかったんだろう。
「お前は怪異に決定的な最後をくれてやれる、唯一の斬祓士で、俺はお前の為にいる、鈍感な補給係だ。お前が怪異相手に命を張ってくれる分、俺はそれ以外の場所で全力でお前をサポートする。……だろ?」
「……うん」
「歳だって一回り違うし、現場だって、ベッドの上だって、俺たちは対等じゃない。でも、俺もお前も好きにやってきたじゃないか。俺はそんなお前が好きだし、……だから何もかもを預けられる」
いつもの軽薄な喋り方とは違う、少し真剣な口振りだった。
「……ありがとう。……でも──」
掠れる様な声で答える。
「……僕には、その気持ちが重いよ」
彼の信頼に、期待に、応えてあげられる自信がない。
……そんな状態で、彼と一緒にいるべきじゃないと思う。
「見損なうなよ」
その言葉に、
「え……?」
僕は少し驚いて、戸張さんの方を見た。
彼はハンドルを握って、まっすぐ前を向いている。
「俺が信じてるのは、結果じゃない。お前だよ、秋也」
「………………」
「俺はお前がイイ奴だって知ってる。いつも真剣だし、真面目だ。そんなお前がそうなったのは、屍櫻の斬祓いに失敗したからじゃない。優しかったからだ。正しいとか間違ってるとか、そんな事、俺にはどうだっていい。怪異に肩入れして欲しくねぇのは、お前が大事だからだ。……俺は、式神とは違う。沙丘秋也を信じてる」
「………………っ」
やめて。
そんな事を言われたら、我慢していたものが溢れ出てきそうだ。
戸張さんに気付かれないように、僕は鼻を啜って、こっそりと目を拭った。
「俺は、お前についていくよ、秋也」
「……うん」
肩を下ろして、僕は車のシートに背中を預けた。
頭の中を駆け巡っていた嫌なことが、少しずつ治まっていくのを感じる。
……自分がどうなってしまうのかという事より、まず、僕はまだ幼いのだと実感した。
その事実は、それほど頭に来る事でもなくて、僕自身がこれ以上自分を痛め付けずに済む、優しさに近い。
「少しミスったくらい、気にすんな」
「……うん。少し……って感じじゃないけどね」
僕が言うと、戸張さんは「ははっ」と笑った。
……なんだか、やっと、生きて帰ってこれた事を嬉しく思えてきた。
「今のお前も好きだぜ」
「それ、複雑だよ」
「考えすぎだって。……俺の事、嫌いになったか?」
「………………すこし」
「マジか。本当に?」
「うん」
「ふぅん。……なぁ、確かめてもいいか?」
「今日は、疲れちゃった」
「冗談だよ。安心しな、部屋の前まで送ってやるから」
ウィンカーを出して交差点を曲がる。この道を行った先には、誰も待っていない、僕の家がある。
チラとカーナビの左端の時計を見て、夜明けまでの時間を計算して、考える。
「……ううん」
「?」
「どこか……寄って」
……心臓が、少しだけうるさい。
「いいのか? 帰らなくて」
「早く、シャワー浴びたいし……」
口が重たくて、思ってる事をなかなか言い出せないのが、もどかしい。
「……そのついでに、朝まで一緒に、いてよ」
やっとの事で言葉を出したら、妙に緊張してきた。この身体のせいかも知れない。
戸張さんは無言のまま、しばらく車を走らせて、
「……わかった」
短く、そう答えてくれた。
* * * * *
「痛むか?」
僕のバスローブの裾から覗く、紫色の足を見つめながら、戸張さんは訊ねてきた。
「ううん。見た目ほど酷くないよ」
言って、ベッドに腰掛けている彼の横に腰を下ろす。
部屋は広くて良いけど、アメニティのボディソープの匂いがキツいのは少し不快だった。
「……文句言うなよ? 今日は用意してもらってなかったんだから」
「何も言ってないでしょ。心を読まないでよ」
「顔に出てんの」
「あっそう」
僕は頭に掛けたバスタオルを椅子に向かって投げた。
「……ん、用意って?」
「仕事の時は避難場所っつって、いつも申請してんだよ」
「え、式神さんに?」
「ばぁか。安納さんだよ。いつもアシとかメシとか宿の手配してくれてんの」
「そうだったんだ」
どうりで、こういうホテル繁盛する時期でも良い部屋に泊まれてるなと思った。
まぁ、どのみち式神さんにも伝わるんだろうけど、営業的にクリーンなホテルを幾つかおさえてるのか……いや、もしかするとオーナーなのかも知れない。
「なんか、風俗みたいだ……」
「知ったようなクチきくなよ」
「………………」
「……は? 秋也、お前まさか」
「別にいいでしょ、それくらい。一般教養みたいなものじゃない」
「おまっ……嗜み感覚で言うなよ。どっかのエロオヤジじゃねぇんだから」
「なに、自分の事?」
「うっせ」
トン、と肩を押されるままに、僕はベッドの上に仰向けに倒れた。
……胸まわりと、股からお腹の奥にかけて、ヘンに疼く。
頭から切り離そうとしても、こうして実感を伴ってしまう。無駄な足掻きなんだろう。
ふと見やると、戸張さんの目が、少しはだけた僕のバスローブの胸元に注がれている。
「見てる」
「そりゃ……見るだろ」
「やらしい目で」
「お前だって。エロガキじゃないか」
「……大人になるまで生きてるか分からないんだし、それくらい良いじゃない」
「………………」
渋い顔で黙ってしまった戸張さんを放っておいて、僕は身を捩ってシーツに潜り込む。
「……何してるの? 早くこっち来てよ」
鼻の頭までシーツに埋めて、動けないでいる戸張さんにジト目を向ける。
すると、彼は徐ろに僕の隣に横たわり、肘枕でこちらを見下ろしてきた。
「腕、貸して」
「………………」
言われるまま差し出した腕を僕は枕にして、身体を寄せる。
腕を彼の胸元に、脚を少しだけ絡ませて。
人の体温に包まれていると、自分が生きているんだって思い出せる。
だから、腕枕は好きだ。
「……次は?」
「……なにもしないで、このまま朝まで居てくれる?」
「……わかったよ……」
「ごめん」
「いいさ」
「……ありがと」
僕が礼を言うと、彼は「しょうがねぇな」と言わんばかりに嘆息して、僕の髪をそっと撫でてくれた。
まるで子どもをあやすみたいに、優しい手付きで、何度も何度も……。
「秋也」
「………………」
戸張さんの声に、僕は寝たフリを続ける。
「……俺が守ってやるから」
耳元で、そうごちた言葉は、僕に届いてると知っているんだろうか?
『守ってやる』……か。
ずっと、僕が彼を守ってるつもりだったのに。
いま、やっと判った。
……それは、
その言葉は、本当に一番、僕が欲しい言葉だったんだ。
了
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集
あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。
こちらの短編集は
絶対支配な攻めが、
快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす
1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。
不定期更新ですが、
1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書きかけの長編が止まってますが、
短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる