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1巻
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「それで、今後の流れだが」
「はい」
「今日の時点で、俺も君もお互いを気に入って、結婚前提の交際を開始。二、三ヶ月、デートでもして仲を深め、その後婚姻届提出を予定している」
「わかりました」
私が頷くと、楓さんは指を顎に当てて少し思案した。
「結婚式は」
「私は興味がないのでお任せします」
「わかった。一ヶ月で結婚を決めて、そこから挙式の準備に入ったことにする」
そんなに簡単に進むものだろうか。私はともかく、楓さんは一ノ瀬グループの御曹司だ。そんな人の結婚式となると、相応の準備が必要になるのでは。
「交際開始から一ヶ月でプロポーズという設定で結婚式の準備をする。式場はうちのブライダル部門に任せるし、招待客は……少し慌ただしくなるが、欠席でも問題ない」
むしろ欠席してほしいように聞こえるんですが。
今日から一ヶ月交際して結婚を決め、そこから二ヶ月かけて挙式の準備……という流れでいいのかな。
私の確認に、楓さんは頷いた。
「女性の方が支度は大変だろうから、君には苦労をかけるが」
「契約の一環ということでお受けします」
「すまないな」
少しだけ申し訳なさそうに言う楓さんに、私は苦笑した。私の方こそ申し訳ない事情がたくさんあるんだから、謝らなくてもいいのに。意外に律儀な人なのかもしれない。
「結婚式の費用ですが」
「それは俺が出す。結納も交わすつもりだ。少なくとも、金銭面では君に負担はかけない」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
私も少しは貯金があるけれど、楓さんが考えている挙式費用には絶対に足りない。半額どころか一割に届くかも怪しい。婚約指輪のお返しは、気持ち程度になりそうだ。
「今日はここまでにしておくか。次は君の都合に合わせる。いつがいい?」
「土日祝日でしたら大丈夫です」
「なら、次の土曜日、十時にこのホテルのラウンジで」
「わかりました」
――こうして、私と彼の結婚は仮契約された。
帰宅した私は、和室に入って振袖を脱いだ。代わりに、飾り気のないひよこ色のルームウェアに袖を通すと、いかに着物が体を締めていたかわかる。
すぐにクリーニングに出せるよう振袖や和風下着を片づけていたら、姉が声をかけてきた。
「桃香ちゃん、パパとママが呼んでる。リビングに来て」
「はーい」
お見合いの結果について聞きたいのだろう。どう答えるかは私に一任されているし、答えの方向性も決まっている。
立ち上がった私は和室の障子ガラスを開け、そこに立っていた姉を見て絶句した。
「お姉ちゃん……?」
姉は大きな目に涙を溜めていたのだ。涙もろい性格なのは知っているけれど、今は何を嘆いているのかわからない。
「ごめんなさい……私がお見合い結婚は嫌だって言ったから、そのせいで桃香ちゃんに……」
「今日のお見合いは私を名指ししてたから、お姉ちゃんの代わりじゃないでしょ」
「うん……でも……」
二つ年上の姉は、大学卒業後は跡取りとして父の会社で働いている。それもあってか、典型的な箱入りお嬢さまで世間に疎い。
「私は気にしてないから、お姉ちゃんも気にしないで。お父さんたちが呼んでるんでしょ? 早く行かなきゃ」
「……うん」
涙を拭って、姉が頷く。そんな姉を宥めながら、私は両親の待つリビングへ向かった。
コンコンコンと扉をノックし、返事を待たずに室内に入る。吹き抜けの広いリビングは開放感はあるが、プライバシーはない。
ソファに座った父と母に促され、私と姉もそれぞれの定位置に腰を下ろした。
「桃香。今日の見合いは……」
「いい人だった。結婚を前提にお話を進めたいって言われたから、お受けしてきた。来週、デートの予定」
私の答えに父が黙り、母が身を乗り出してきた。
「あちら、一ノ瀬グループの御曹司でしょう? あなたのどこをそんなに気に入ったの」
母は、いつものことだが娘に容赦がない。
「桃香ちゃんは可愛いでしょ⁉」
私の代わりに姉が抗議すると、母は溜息をついた。
「確かに顔は可愛い方だとは思うけれど、情緒がね……それに、身内贔屓というものがあるじゃない。あちらは誰が見ても綺麗な方だし」
「何故か、気に入ってくれたみたい。もちろん、この先破談になるかもしれないけど、少なくとも今のところは結婚前提」
まだ、負債の肩代わりやその他の資金援助については話さないことにした。あんな超一流グループの御曹司が、会ったその日にそこまでするほどの魅力は、私にはない。
「桃香。もし、会社のことで無理しているなら……」
言いかけて、父はもどかしそうに口ごもる。私は、父を安心させる為に笑ってみせた。
「してない。話してみたら思ったより気さくな人だったし、結婚してもいいかなって思ったの。あちらもそう。まだ、結婚するかもっていうだけで、決めたわけじゃないし。だからデートして、お互いの気持ちを確かめるの」
「本当に、無理はしてないんだな?」
「会社の為に好きでもない人と結婚しなくていいのよ、桃香」
両親も姉も、私を心配してくれる。嘘をつくのは心苦しいけれど、私は「身内への表情は百面相なのに、情緒が死んでいるから本心はわかりづらい」そうで、この時も複雑な心情は顔に出ることはなかった。ちなみに他人に対しては殆ど無表情らしいので、情緒面を心配されるのは仕方ないと思っている。
「大丈夫。それよりもし本当に結婚になったら、お姉ちゃんより先にお嫁に行くことになるけど、いいかな?」
「そんなの気にしない。でも、桃香ちゃん……」
本当に嫌じゃないの? そう不安げに問う姉は、とても過保護だ。
「もう、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも! 楓さんに失礼だよ」
わざと拗ねたように言ってみせると、両親と姉はやっと安心したのか、全身から緊張が解けた。その空気がまた「心配」に変わる前に、私は外出することにした。
「お着物、クリーニングに出してくるね。帰りにコンビニに寄るけど、何かいる?」
「父さんはいい」
「お母さんも特にないわ」
「私、チョコレート」
「わかった。ナッツのチョコね?」
姉の好きな種類を確認し、私は手を振りながら部屋を出た。
――めちゃくちゃ焦った……!
廊下に出た瞬間、笑顔を貼りつけていた顔が強張る。無理はしていないけれど、会社の為に結婚する気ではないかと言われた時は、ちょっと心臓が跳ねた。
今後は、私の演技力が試されることが増えそうだ。本音を表情に出さない、尚且つ不自然に思われない演技。私は感情の機微に疎いけれど、家族には百面相らしいから気をつけないと。
そう思いながら和室に向かい、畳紙に包んだ着物や長襦袢などの小物を紙袋に入れた。
翌週、私は勤務先でのランチを早めに終え、昼休みに就業規則を読んだ。楓さんとは仕事について詳しく話していないものの、確か私を第二秘書にするという話だった。今の仕事は退職してほしい、みたいなことも言われたし。
退職の規定を読むと、退職一ヶ月前までに上司に報告、有休消化も認めると書いてあってほっとした。
今週末、楓さんに会ったら退職のタイミングも相談しなくては。私は脳内のTo Doリストに記録して、就業規則のページを閉じる。
今の仕事――中堅の貿易会社の海外営業事務は自力で就活して選んだから、辞めるのは惜しい。でもこのままでは十億円以上の負債分を稼げるはずもないので、この点は楓さんの意見を通すしかない。
私は、取引先や仲介会社から届いていた未読のメールを確認し、フランス語を英語や日本語に翻訳して一日の勤務を終える。
定時で終われたので、通勤ラッシュに巻き込まれることを覚悟して駅に向かう。その途中、バッグの中のスマホがヴーッと鳴った。
道の端に寄ってスマホを見たら、昨日連絡先を交換したばかりの楓さんからのメッセージ着信だった。そのままメッセージを開くと、デートという名の打ち合わせについての連絡だ。
「――服装はドレスコードに違反しない程度で、ですか……」
思わず溜息をついた。つまり、ドレスコードがあるお店での食事ということだ。そういった作法は幼少期から身につけさせられてはいるけれど、ほぼ初対面の男性と二人で食事というのはあまり楽しくない。
……返事は、帰ってからにしよう。既読はついてしまったけど、即返信しろなんてことはおそらく言われないだろう。言われたら、できない場合もあると主張すればいいだけだし。
負債の肩代わりという点で多大な恩を受ける予定ではあるものの、楓さんも必要に迫られての契約結婚だ。対等かどうかはわからないけど、私は卑屈になるつもりはない。
手帳タイプのスマホケースをぱたんと閉じ、私は足早に駅へと急いだ。
四月とはいえ、夜は冷える。桜は満開なので、これは花冷えというものだろうか。
父と姉は残業だったので、母と二人の夕食を終える。その後は少し長めに入浴し、部屋に戻ってドライヤーで髪を乾かした。胸元まである髪の毛先が傷まないよう、ヘアトリートメントを付けておく。
その時になって、私は楓さんへの返事がまだだったことに気がついた。時計を見たら二十時。今から返信しても失礼な時間ではない。
「わかりました。ワンピースで行きます。――送信、と」
オフホワイトのチュール生地にピンクベージュのレースと刺繍をあしらった、ロング丈のワンピースは、この春買ったばかりで一度も着ていない。それにシルバーのレースパンプスなら、お食事には問題ない……と思う。
ただ、そういうファッションだとバッグは小さめにしなくてはいけない。契約の打ち合わせにタブレットを持ち込みたかったけれど、USBにするしかなさそうだ。
クローゼットの中を眺めてそう考えていたら、メッセージアプリの着信音が鳴る。
『食事の好みは?』
素っ気ない問いかけに、私も端的に返信した。
「好き嫌いもアレルギーもありません」
少しして、更に返信が届く。
『フランス料理を予約しておく』
了解です、とスタンプを送って、私はベッドに寝転んだ。
私が望んだ契約結婚。それを知らない家族の疑念はなかなか解けない。誤魔化し続けるのも気詰まりなので、いっそのこと早く結婚したいと言ったら、楓さんはどんな反応をするだろう。
「まずは退職の相談からだけど」
呟いた後、私は体を起こしてスマホを取り、秘書の仕事について検索した。何冊かお勧めの書籍も紹介されていたので、購入する。
――こういうところが生真面目で融通が利かないって言われるんだけど、性分だものね。
私はスマホをテーブルの上に置いて、今度こそ眠る為にベッドに潜り込んだ。
***
先日お見合いしたホテルまでタクシーに乗り、料金を支払ったタイミングでドアマンがさりげなく近づいてくる。待ち合わせですと告げると、既に楓さんは到着しているらしく、その席まで案内される。
お見合いの時と違うのは、その席がどちらかというと入り口に近いこと、それから楓さんのスーツが少しカジュアルにドレスダウンしていることだ。プルシャンブルーのスリーピーススーツにベビーピンクのシャツ、ネクタイは深いローズマダー色で、桜の花型のラペルピンが綺麗だった。
男性が着こなすのは難しそうな華のある組み合わせだけど、彼の為だけに誂えたように似合っている。それに、私のワンピースとは図らずしもリンクコーデになってしまった。
私に気づいて、楓さんが手を挙げる。その向かいに座ると、すぐにウェイターが来たので、アイスティーを注文した。
「どこか行きたい場所はある?」
さほど興味なさげに訊かれ、私は首を横に振った。
「いいえ、特にありません」
「そうか。――反応しないで聞いてほしいんだが」
「はい?」
「このラウンジに一組、うちの両親が手配した興信所の人間がいる」
何気ない口調で言われた内容に、飲み物を口にしていなくてよかったと思う。思わず咽せるところだった。
「君との見合いの後、すぐに話を進めたいと言ったのを不審がっているみたいだな」
「私も疑われましたけど……さすがに興信所はつけられてませんよ?」
「俺も、好ましく思ったとしか言ってない。残念ながら、両親の信用は得られていないらしい」
楓さんが淡々と告げた直後、私の前にアイスティーが置かれた。ミルクだけ入れてストローを差し、一口飲んで気持ちを落ち着かせる。
「それで……?」
「楽しげに会話しているのを見せるか、デートの様子を見張らせれば納得するだろう。今日は契約の細部を打ち合わせしたかったが、初回のデートでホテルの部屋に入るのは君の印象を悪くする」
「でしょうね」
私はその意見に頷いた。身持ちの悪い女だと思われては困る。この先、二十年か三十年は楓さんの妻として生きるのだから、ご両親に悪印象は持たれたくない。
「買い物にでも行くか」
「何を買うんです? 初回から男性にプレゼントしてもらう女というのも、あまりいいイメージはありませんが」
「それもそうか」
楓さんも納得したが、そうなると本当に行き先が決まらない。私はアイスティーを、楓さんはコーヒーを堪能しながら、お互いしばらく無言で考える。
映画は、興信所の人たちに見張らせるのが難しいから却下。遊園地も、今日の私たちはそんなカジュアルなファッションではない。
会話が少なくて、でもそこそこ楽しそうに見える場所……水族館? それとも美術館?
「水族館か美術館でどうでしょう」
「水族館は行ったことがない」
「楓さんが興味ないなら、美術館でもいいですよ。会話しなくていいですし。楽しそうに笑う演技くらいは私にもできます」
私が答えると、楓さんはスマホを取り出して何か検索し始めた。都内の美術館の展示内容を調べているらしい。
「今なら、至高のジュエリー展というのが人気らしい」
「私は興味ありませんが、女性人気は高そうですね」
「そこは妥協してくれ。刀剣展示もあるが……日本刀ならうちにも何本かあるしな。俺がわざわざ観に行くほどの関心がないことは、親は知っている」
それはつまり、一ノ瀬家は国宝レベルの刀剣を個人所有しているということだろうか。しかも複数。
「水族館……か」
そう呟いた楓さんの表情が、少しだけやわらかくなっていることに気づいた。やわらかいというか、わくわくしているように見える。
これは――もしかしなくても、水族館に行きたいのではないだろうか。
「……楓さん。水族館に行ってみたいんですか?」
私の言葉に、楓さんは一瞬にして無表情になった。図星だったらしい。意外とわかりやすい人なのかもしれない。ちょっと可愛いと思ってしまった。
「水族館に行きましょう。大丈夫です、楽しい会話でなくても笑顔をキープしますから」
私はハイジュエリーには興味がないし、水族館も久しぶりだ。どちらでもいいので、楓さんの行きたい方に合わせることにした。私も楓さんも、水族館デートにしては少し浮きそうなファッションだけど、そこは仕方ない。
「ありがとう」
小さく笑いながら礼を言って、楓さんが立ち上がる。途端、ラウンジ内の女性たちが静かにざわめいた。
「あ、私、払います」
「このくらいは奢らせてくれないか」
そう言われたら、食い下がることもできない。だけど、夕食だけは絶対に割り勘にしてもらおうと心に誓う。
「それから、桃香さん」
「はい?」
「その服、君に似合っている」
さらっと言って、楓さんは伝票を持ってレセプションに向かった。……褒められ慣れていない私の頬が熱くなったのは、仕方ないと思う。何というか、女性の扱いが自然体でスマートな人なんだなと感心した。
どうせ水族館に行くなら、行ってみたいところがあったのでそこをお願いしてみた。水族館未体験の楓さんにとってはどこでもいいらしく、すんなりOKしてくれる。
タクシーに乗って目的地に着いた後、楓さんがチケットを買ってくれた。自然に会計しているから、私はお財布を出すタイミングを失ってしまう。
「……奢られてばかりです」
私たちは恋愛関係じゃないから、奢られるのは気が引ける。いや、恋愛関係だとしても奢られっ放しというのは、私は嫌だ。まして、私と楓さんは契約結婚する「取引相手」だ。奢られる道理はないと思う。
そう思って不満を口にすると、楓さんが小さく首を傾げる。
「デートは男が払うものじゃないのか?」
「そういう場合もあるとは思いますが、私は自分の分は払いたいんです」
私の答えに、楓さんは頷いた。
「わかった。なら、中のカフェでは個別に払おう」
妥協したように言われたけれど、私が気になってしまうのは夕食の方だ。
「ディナーは俺に格好をつけさせてほしい」
先手を打たれてしまった。でも、万単位――ワインを入れたら十万単位のお食事をご馳走になるのは気が引ける。
そう思っていると、楓さんは諭すように言葉を重ねた。
「俺にも世間体というものがある」
「世間体?」
「馴染みの店を予約したから。――女性と一緒なのに支払いは別というのは、少し困るんだ」
楓さんが「馴染み」というほどのお店なら、従業員教育はしっかりしているだろうから、空気を読んでくれると思うんだけど。
でも、そういう懸念はわからなくもない。一応、私の意見も提案してみた。
「じゃあ、お店を出た後で精算するというのは?」
「それはそれで気が進まない。君の厚意だけ受け取っておく」
そんな会話を、私たちは興信所の調査員にどう見られるか意識し、微笑みを貼りつけてこなしている。楓さんがチケットを渡しながら少し身を屈め、私の耳元に唇を寄せた。
「――俺の後ろ、黒のシャツにジーンズの男と、花柄のプリントドレスの女。それが興信所」
声を潜めた囁きは、ぞくっとするほど甘く響いた。楓さんは顔立ちだけでなく骨格も綺麗なので、声も良い。その艶やかな声に、彼は男の人なんだと強く意識させられた。
「わ、かりました」
思わず返答に詰まった私を不思議そうに見つめて、楓さんが離れる。そこそこの人混みの中だから目立たなかったとは思うけれど、綺麗すぎる顔のアップと色気のある声のダブルパンチは心臓に悪い。
「は、入りましょう」
やや挙動不審な自分に気づかれないよう、私は楓さんに先を促した。
春ということで、水族館内は桜をテーマにした演出がされているらしい。
舞い散る桜吹雪や満開の桜を、彩り豊かなグラデーションで演出した空間。そこに配置された透明な円柱型の水槽の中で、煌めく光にライトアップされた魚たちはとても美しかった。写真を撮っている人たちもいる。私は記録ではなく記憶するタイプなので、とにかく観賞した。
「綺麗ですね」
「そうだな。クラゲがこんなに綺麗だとは思わなかった」
微笑む楓さんの横顔も綺麗だ。幻想的な空間を抜けて先に進むと、今度は海中トンネルのような場所に出る。
「わあ……」
水の中にいるような不思議な感覚に囚われ、私は思わず見惚れていた。その時、隣にいたカップルの女性にぶつかりそうになってしまう。
「危ない」
瞬間、少しだけ強く楓さんに抱き寄せられる。すんでのところで、衝突を避けることができた。相手の女性と謝罪の会釈をし合って、私は楓さんの胸元から離れた。
「すみません……」
「いや。俺こそ、乱暴に扱ってしまった」
謝罪したら逆に反省されてしまったので、私は表現を変えた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「……ああ」
今度は、楓さんも少し微笑んだ。気遣いに気遣いで返してくれる人は、いい人だと思う。
「手を繋ぐか」
「そこまで子どもじゃありません」
「さっきの二人は腕を組んでいたから。俺たちも、デートらしく見えるように」
そう言って差し出された楓さんの手に、私は躊躇いながら指を絡めた。私の手を包み込むくらい大きな手は、爪の形まで綺麗だった。
私たちが海中トンネルのような通路を抜けた頃には、周りの人も少し減った。もっとゆっくり堪能するものなのかもしれないけれど、私は繋いだ手が恥ずかしくてそんな余裕がない。
「イルカのショーがあるみたいだ」
見ていくか? と問われ、頷く。少なくとも、座ったら手を繋ぐことは終わるはずだ。
プールを囲む観客席はまだ余裕があったので、真ん中くらいの場所に並んで座る。休日なのにスーツ姿の楓さん、フォーマルなワンピースの私は、周囲からはやはり少し浮いていた。
「私たち、浮いてますね」
「そうか?」
いつもこんな感じだと言って、楓さんはステージになるプールを眺めている。この浮世離れした綺麗な人は、周囲の視線は気にならないらしい。若い女性連れが何組もこちらをチラチラ見ているのに。
「イルカだけじゃなく、ペンギンもショーをするのか」
プールサイドにペンギンの群れが現れたのを見て、楓さんは感嘆したように呟く。本当に水族館は初めてなんだなあと思うけれど、私もそんなに詳しいわけではない。
飼育員の女性が現れ、挨拶した後でショーが始まった。ここにも桜の映像が投影され、光と音で更に華やかになっている。
プールの中の女性に指示され、舞うように高くジャンプするイルカ。飼育係の手から餌を食べ、もっととねだるペンギン。器用なその様子に、私はずっと拍手していた。隣を見ると、楓さんも楽しそうだ。
「――そろそろ終わりか?」
ショーが終盤になった時、腕時計を見て楓さんは私の肩に軽く触れた。
「出よう。カフェが混みそうだ」
「はい」
可愛いイルカが名残惜しくて振り返りながら通路に戻っていると、楓さんがくすっと笑った。
「イルカのぬいぐるみなら、買わせてもらうが」
「……自分で買います」
顔を合わせたのは今日で二回目。なのに、私たちはそんな軽口が叩ける程度に打ち解けていた。
水族館の中のカフェは、海をイメージした水槽があり、深い青と白い壁のコントラストが綺麗な空間だ。私は座り心地のいいソファ側を勧められ、楓さんが向かいの椅子に腰を下ろす。
時間的にお昼を食べてもいいのだけれど、私は夕食が「ディナー」になる場合は、昼食を抜くようにしている。でないと、コースの最後まで入らなくて、お店に失礼になってしまう。
だから軽くパンケーキと桜のアイスラテにしておく。楓さんはラテアートが気になったらしく、カフェラテとクラブハウスサンドイッチを選んだ。
少し待って、運ばれてきた料理をそれぞれ口にする。店内の雰囲気からしてお洒落優先かと思っていたけれど、かなりおいしい。
「あの、相談しておきたいことがあるんです」
「今?」
「早い方がいいんですが……ここだと内密にとはいきませんね」
「例のことに関わる内容なら、夕食の時に聞く。個室だから」
楓さんの答えに、私はほっとして頷いた。退職についての相談は、週明けには上司に相談できるよう、今日のうちに済ませたい。
そんな私に、楓さんが少し困った顔で問いかけてきた。アーモンド形の綺麗な目は、手元のマグカップを見つめている。
「……これは、どうやって飲めばいい?」
「ラテアートですよね。私は一通り見たらそのまま飲みます」
「そのまま? そういう作法なのか?」
「作法ではないと思いますけど、眺めてても冷めますし」
「はい」
「今日の時点で、俺も君もお互いを気に入って、結婚前提の交際を開始。二、三ヶ月、デートでもして仲を深め、その後婚姻届提出を予定している」
「わかりました」
私が頷くと、楓さんは指を顎に当てて少し思案した。
「結婚式は」
「私は興味がないのでお任せします」
「わかった。一ヶ月で結婚を決めて、そこから挙式の準備に入ったことにする」
そんなに簡単に進むものだろうか。私はともかく、楓さんは一ノ瀬グループの御曹司だ。そんな人の結婚式となると、相応の準備が必要になるのでは。
「交際開始から一ヶ月でプロポーズという設定で結婚式の準備をする。式場はうちのブライダル部門に任せるし、招待客は……少し慌ただしくなるが、欠席でも問題ない」
むしろ欠席してほしいように聞こえるんですが。
今日から一ヶ月交際して結婚を決め、そこから二ヶ月かけて挙式の準備……という流れでいいのかな。
私の確認に、楓さんは頷いた。
「女性の方が支度は大変だろうから、君には苦労をかけるが」
「契約の一環ということでお受けします」
「すまないな」
少しだけ申し訳なさそうに言う楓さんに、私は苦笑した。私の方こそ申し訳ない事情がたくさんあるんだから、謝らなくてもいいのに。意外に律儀な人なのかもしれない。
「結婚式の費用ですが」
「それは俺が出す。結納も交わすつもりだ。少なくとも、金銭面では君に負担はかけない」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
私も少しは貯金があるけれど、楓さんが考えている挙式費用には絶対に足りない。半額どころか一割に届くかも怪しい。婚約指輪のお返しは、気持ち程度になりそうだ。
「今日はここまでにしておくか。次は君の都合に合わせる。いつがいい?」
「土日祝日でしたら大丈夫です」
「なら、次の土曜日、十時にこのホテルのラウンジで」
「わかりました」
――こうして、私と彼の結婚は仮契約された。
帰宅した私は、和室に入って振袖を脱いだ。代わりに、飾り気のないひよこ色のルームウェアに袖を通すと、いかに着物が体を締めていたかわかる。
すぐにクリーニングに出せるよう振袖や和風下着を片づけていたら、姉が声をかけてきた。
「桃香ちゃん、パパとママが呼んでる。リビングに来て」
「はーい」
お見合いの結果について聞きたいのだろう。どう答えるかは私に一任されているし、答えの方向性も決まっている。
立ち上がった私は和室の障子ガラスを開け、そこに立っていた姉を見て絶句した。
「お姉ちゃん……?」
姉は大きな目に涙を溜めていたのだ。涙もろい性格なのは知っているけれど、今は何を嘆いているのかわからない。
「ごめんなさい……私がお見合い結婚は嫌だって言ったから、そのせいで桃香ちゃんに……」
「今日のお見合いは私を名指ししてたから、お姉ちゃんの代わりじゃないでしょ」
「うん……でも……」
二つ年上の姉は、大学卒業後は跡取りとして父の会社で働いている。それもあってか、典型的な箱入りお嬢さまで世間に疎い。
「私は気にしてないから、お姉ちゃんも気にしないで。お父さんたちが呼んでるんでしょ? 早く行かなきゃ」
「……うん」
涙を拭って、姉が頷く。そんな姉を宥めながら、私は両親の待つリビングへ向かった。
コンコンコンと扉をノックし、返事を待たずに室内に入る。吹き抜けの広いリビングは開放感はあるが、プライバシーはない。
ソファに座った父と母に促され、私と姉もそれぞれの定位置に腰を下ろした。
「桃香。今日の見合いは……」
「いい人だった。結婚を前提にお話を進めたいって言われたから、お受けしてきた。来週、デートの予定」
私の答えに父が黙り、母が身を乗り出してきた。
「あちら、一ノ瀬グループの御曹司でしょう? あなたのどこをそんなに気に入ったの」
母は、いつものことだが娘に容赦がない。
「桃香ちゃんは可愛いでしょ⁉」
私の代わりに姉が抗議すると、母は溜息をついた。
「確かに顔は可愛い方だとは思うけれど、情緒がね……それに、身内贔屓というものがあるじゃない。あちらは誰が見ても綺麗な方だし」
「何故か、気に入ってくれたみたい。もちろん、この先破談になるかもしれないけど、少なくとも今のところは結婚前提」
まだ、負債の肩代わりやその他の資金援助については話さないことにした。あんな超一流グループの御曹司が、会ったその日にそこまでするほどの魅力は、私にはない。
「桃香。もし、会社のことで無理しているなら……」
言いかけて、父はもどかしそうに口ごもる。私は、父を安心させる為に笑ってみせた。
「してない。話してみたら思ったより気さくな人だったし、結婚してもいいかなって思ったの。あちらもそう。まだ、結婚するかもっていうだけで、決めたわけじゃないし。だからデートして、お互いの気持ちを確かめるの」
「本当に、無理はしてないんだな?」
「会社の為に好きでもない人と結婚しなくていいのよ、桃香」
両親も姉も、私を心配してくれる。嘘をつくのは心苦しいけれど、私は「身内への表情は百面相なのに、情緒が死んでいるから本心はわかりづらい」そうで、この時も複雑な心情は顔に出ることはなかった。ちなみに他人に対しては殆ど無表情らしいので、情緒面を心配されるのは仕方ないと思っている。
「大丈夫。それよりもし本当に結婚になったら、お姉ちゃんより先にお嫁に行くことになるけど、いいかな?」
「そんなの気にしない。でも、桃香ちゃん……」
本当に嫌じゃないの? そう不安げに問う姉は、とても過保護だ。
「もう、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも! 楓さんに失礼だよ」
わざと拗ねたように言ってみせると、両親と姉はやっと安心したのか、全身から緊張が解けた。その空気がまた「心配」に変わる前に、私は外出することにした。
「お着物、クリーニングに出してくるね。帰りにコンビニに寄るけど、何かいる?」
「父さんはいい」
「お母さんも特にないわ」
「私、チョコレート」
「わかった。ナッツのチョコね?」
姉の好きな種類を確認し、私は手を振りながら部屋を出た。
――めちゃくちゃ焦った……!
廊下に出た瞬間、笑顔を貼りつけていた顔が強張る。無理はしていないけれど、会社の為に結婚する気ではないかと言われた時は、ちょっと心臓が跳ねた。
今後は、私の演技力が試されることが増えそうだ。本音を表情に出さない、尚且つ不自然に思われない演技。私は感情の機微に疎いけれど、家族には百面相らしいから気をつけないと。
そう思いながら和室に向かい、畳紙に包んだ着物や長襦袢などの小物を紙袋に入れた。
翌週、私は勤務先でのランチを早めに終え、昼休みに就業規則を読んだ。楓さんとは仕事について詳しく話していないものの、確か私を第二秘書にするという話だった。今の仕事は退職してほしい、みたいなことも言われたし。
退職の規定を読むと、退職一ヶ月前までに上司に報告、有休消化も認めると書いてあってほっとした。
今週末、楓さんに会ったら退職のタイミングも相談しなくては。私は脳内のTo Doリストに記録して、就業規則のページを閉じる。
今の仕事――中堅の貿易会社の海外営業事務は自力で就活して選んだから、辞めるのは惜しい。でもこのままでは十億円以上の負債分を稼げるはずもないので、この点は楓さんの意見を通すしかない。
私は、取引先や仲介会社から届いていた未読のメールを確認し、フランス語を英語や日本語に翻訳して一日の勤務を終える。
定時で終われたので、通勤ラッシュに巻き込まれることを覚悟して駅に向かう。その途中、バッグの中のスマホがヴーッと鳴った。
道の端に寄ってスマホを見たら、昨日連絡先を交換したばかりの楓さんからのメッセージ着信だった。そのままメッセージを開くと、デートという名の打ち合わせについての連絡だ。
「――服装はドレスコードに違反しない程度で、ですか……」
思わず溜息をついた。つまり、ドレスコードがあるお店での食事ということだ。そういった作法は幼少期から身につけさせられてはいるけれど、ほぼ初対面の男性と二人で食事というのはあまり楽しくない。
……返事は、帰ってからにしよう。既読はついてしまったけど、即返信しろなんてことはおそらく言われないだろう。言われたら、できない場合もあると主張すればいいだけだし。
負債の肩代わりという点で多大な恩を受ける予定ではあるものの、楓さんも必要に迫られての契約結婚だ。対等かどうかはわからないけど、私は卑屈になるつもりはない。
手帳タイプのスマホケースをぱたんと閉じ、私は足早に駅へと急いだ。
四月とはいえ、夜は冷える。桜は満開なので、これは花冷えというものだろうか。
父と姉は残業だったので、母と二人の夕食を終える。その後は少し長めに入浴し、部屋に戻ってドライヤーで髪を乾かした。胸元まである髪の毛先が傷まないよう、ヘアトリートメントを付けておく。
その時になって、私は楓さんへの返事がまだだったことに気がついた。時計を見たら二十時。今から返信しても失礼な時間ではない。
「わかりました。ワンピースで行きます。――送信、と」
オフホワイトのチュール生地にピンクベージュのレースと刺繍をあしらった、ロング丈のワンピースは、この春買ったばかりで一度も着ていない。それにシルバーのレースパンプスなら、お食事には問題ない……と思う。
ただ、そういうファッションだとバッグは小さめにしなくてはいけない。契約の打ち合わせにタブレットを持ち込みたかったけれど、USBにするしかなさそうだ。
クローゼットの中を眺めてそう考えていたら、メッセージアプリの着信音が鳴る。
『食事の好みは?』
素っ気ない問いかけに、私も端的に返信した。
「好き嫌いもアレルギーもありません」
少しして、更に返信が届く。
『フランス料理を予約しておく』
了解です、とスタンプを送って、私はベッドに寝転んだ。
私が望んだ契約結婚。それを知らない家族の疑念はなかなか解けない。誤魔化し続けるのも気詰まりなので、いっそのこと早く結婚したいと言ったら、楓さんはどんな反応をするだろう。
「まずは退職の相談からだけど」
呟いた後、私は体を起こしてスマホを取り、秘書の仕事について検索した。何冊かお勧めの書籍も紹介されていたので、購入する。
――こういうところが生真面目で融通が利かないって言われるんだけど、性分だものね。
私はスマホをテーブルの上に置いて、今度こそ眠る為にベッドに潜り込んだ。
***
先日お見合いしたホテルまでタクシーに乗り、料金を支払ったタイミングでドアマンがさりげなく近づいてくる。待ち合わせですと告げると、既に楓さんは到着しているらしく、その席まで案内される。
お見合いの時と違うのは、その席がどちらかというと入り口に近いこと、それから楓さんのスーツが少しカジュアルにドレスダウンしていることだ。プルシャンブルーのスリーピーススーツにベビーピンクのシャツ、ネクタイは深いローズマダー色で、桜の花型のラペルピンが綺麗だった。
男性が着こなすのは難しそうな華のある組み合わせだけど、彼の為だけに誂えたように似合っている。それに、私のワンピースとは図らずしもリンクコーデになってしまった。
私に気づいて、楓さんが手を挙げる。その向かいに座ると、すぐにウェイターが来たので、アイスティーを注文した。
「どこか行きたい場所はある?」
さほど興味なさげに訊かれ、私は首を横に振った。
「いいえ、特にありません」
「そうか。――反応しないで聞いてほしいんだが」
「はい?」
「このラウンジに一組、うちの両親が手配した興信所の人間がいる」
何気ない口調で言われた内容に、飲み物を口にしていなくてよかったと思う。思わず咽せるところだった。
「君との見合いの後、すぐに話を進めたいと言ったのを不審がっているみたいだな」
「私も疑われましたけど……さすがに興信所はつけられてませんよ?」
「俺も、好ましく思ったとしか言ってない。残念ながら、両親の信用は得られていないらしい」
楓さんが淡々と告げた直後、私の前にアイスティーが置かれた。ミルクだけ入れてストローを差し、一口飲んで気持ちを落ち着かせる。
「それで……?」
「楽しげに会話しているのを見せるか、デートの様子を見張らせれば納得するだろう。今日は契約の細部を打ち合わせしたかったが、初回のデートでホテルの部屋に入るのは君の印象を悪くする」
「でしょうね」
私はその意見に頷いた。身持ちの悪い女だと思われては困る。この先、二十年か三十年は楓さんの妻として生きるのだから、ご両親に悪印象は持たれたくない。
「買い物にでも行くか」
「何を買うんです? 初回から男性にプレゼントしてもらう女というのも、あまりいいイメージはありませんが」
「それもそうか」
楓さんも納得したが、そうなると本当に行き先が決まらない。私はアイスティーを、楓さんはコーヒーを堪能しながら、お互いしばらく無言で考える。
映画は、興信所の人たちに見張らせるのが難しいから却下。遊園地も、今日の私たちはそんなカジュアルなファッションではない。
会話が少なくて、でもそこそこ楽しそうに見える場所……水族館? それとも美術館?
「水族館か美術館でどうでしょう」
「水族館は行ったことがない」
「楓さんが興味ないなら、美術館でもいいですよ。会話しなくていいですし。楽しそうに笑う演技くらいは私にもできます」
私が答えると、楓さんはスマホを取り出して何か検索し始めた。都内の美術館の展示内容を調べているらしい。
「今なら、至高のジュエリー展というのが人気らしい」
「私は興味ありませんが、女性人気は高そうですね」
「そこは妥協してくれ。刀剣展示もあるが……日本刀ならうちにも何本かあるしな。俺がわざわざ観に行くほどの関心がないことは、親は知っている」
それはつまり、一ノ瀬家は国宝レベルの刀剣を個人所有しているということだろうか。しかも複数。
「水族館……か」
そう呟いた楓さんの表情が、少しだけやわらかくなっていることに気づいた。やわらかいというか、わくわくしているように見える。
これは――もしかしなくても、水族館に行きたいのではないだろうか。
「……楓さん。水族館に行ってみたいんですか?」
私の言葉に、楓さんは一瞬にして無表情になった。図星だったらしい。意外とわかりやすい人なのかもしれない。ちょっと可愛いと思ってしまった。
「水族館に行きましょう。大丈夫です、楽しい会話でなくても笑顔をキープしますから」
私はハイジュエリーには興味がないし、水族館も久しぶりだ。どちらでもいいので、楓さんの行きたい方に合わせることにした。私も楓さんも、水族館デートにしては少し浮きそうなファッションだけど、そこは仕方ない。
「ありがとう」
小さく笑いながら礼を言って、楓さんが立ち上がる。途端、ラウンジ内の女性たちが静かにざわめいた。
「あ、私、払います」
「このくらいは奢らせてくれないか」
そう言われたら、食い下がることもできない。だけど、夕食だけは絶対に割り勘にしてもらおうと心に誓う。
「それから、桃香さん」
「はい?」
「その服、君に似合っている」
さらっと言って、楓さんは伝票を持ってレセプションに向かった。……褒められ慣れていない私の頬が熱くなったのは、仕方ないと思う。何というか、女性の扱いが自然体でスマートな人なんだなと感心した。
どうせ水族館に行くなら、行ってみたいところがあったのでそこをお願いしてみた。水族館未体験の楓さんにとってはどこでもいいらしく、すんなりOKしてくれる。
タクシーに乗って目的地に着いた後、楓さんがチケットを買ってくれた。自然に会計しているから、私はお財布を出すタイミングを失ってしまう。
「……奢られてばかりです」
私たちは恋愛関係じゃないから、奢られるのは気が引ける。いや、恋愛関係だとしても奢られっ放しというのは、私は嫌だ。まして、私と楓さんは契約結婚する「取引相手」だ。奢られる道理はないと思う。
そう思って不満を口にすると、楓さんが小さく首を傾げる。
「デートは男が払うものじゃないのか?」
「そういう場合もあるとは思いますが、私は自分の分は払いたいんです」
私の答えに、楓さんは頷いた。
「わかった。なら、中のカフェでは個別に払おう」
妥協したように言われたけれど、私が気になってしまうのは夕食の方だ。
「ディナーは俺に格好をつけさせてほしい」
先手を打たれてしまった。でも、万単位――ワインを入れたら十万単位のお食事をご馳走になるのは気が引ける。
そう思っていると、楓さんは諭すように言葉を重ねた。
「俺にも世間体というものがある」
「世間体?」
「馴染みの店を予約したから。――女性と一緒なのに支払いは別というのは、少し困るんだ」
楓さんが「馴染み」というほどのお店なら、従業員教育はしっかりしているだろうから、空気を読んでくれると思うんだけど。
でも、そういう懸念はわからなくもない。一応、私の意見も提案してみた。
「じゃあ、お店を出た後で精算するというのは?」
「それはそれで気が進まない。君の厚意だけ受け取っておく」
そんな会話を、私たちは興信所の調査員にどう見られるか意識し、微笑みを貼りつけてこなしている。楓さんがチケットを渡しながら少し身を屈め、私の耳元に唇を寄せた。
「――俺の後ろ、黒のシャツにジーンズの男と、花柄のプリントドレスの女。それが興信所」
声を潜めた囁きは、ぞくっとするほど甘く響いた。楓さんは顔立ちだけでなく骨格も綺麗なので、声も良い。その艶やかな声に、彼は男の人なんだと強く意識させられた。
「わ、かりました」
思わず返答に詰まった私を不思議そうに見つめて、楓さんが離れる。そこそこの人混みの中だから目立たなかったとは思うけれど、綺麗すぎる顔のアップと色気のある声のダブルパンチは心臓に悪い。
「は、入りましょう」
やや挙動不審な自分に気づかれないよう、私は楓さんに先を促した。
春ということで、水族館内は桜をテーマにした演出がされているらしい。
舞い散る桜吹雪や満開の桜を、彩り豊かなグラデーションで演出した空間。そこに配置された透明な円柱型の水槽の中で、煌めく光にライトアップされた魚たちはとても美しかった。写真を撮っている人たちもいる。私は記録ではなく記憶するタイプなので、とにかく観賞した。
「綺麗ですね」
「そうだな。クラゲがこんなに綺麗だとは思わなかった」
微笑む楓さんの横顔も綺麗だ。幻想的な空間を抜けて先に進むと、今度は海中トンネルのような場所に出る。
「わあ……」
水の中にいるような不思議な感覚に囚われ、私は思わず見惚れていた。その時、隣にいたカップルの女性にぶつかりそうになってしまう。
「危ない」
瞬間、少しだけ強く楓さんに抱き寄せられる。すんでのところで、衝突を避けることができた。相手の女性と謝罪の会釈をし合って、私は楓さんの胸元から離れた。
「すみません……」
「いや。俺こそ、乱暴に扱ってしまった」
謝罪したら逆に反省されてしまったので、私は表現を変えた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「……ああ」
今度は、楓さんも少し微笑んだ。気遣いに気遣いで返してくれる人は、いい人だと思う。
「手を繋ぐか」
「そこまで子どもじゃありません」
「さっきの二人は腕を組んでいたから。俺たちも、デートらしく見えるように」
そう言って差し出された楓さんの手に、私は躊躇いながら指を絡めた。私の手を包み込むくらい大きな手は、爪の形まで綺麗だった。
私たちが海中トンネルのような通路を抜けた頃には、周りの人も少し減った。もっとゆっくり堪能するものなのかもしれないけれど、私は繋いだ手が恥ずかしくてそんな余裕がない。
「イルカのショーがあるみたいだ」
見ていくか? と問われ、頷く。少なくとも、座ったら手を繋ぐことは終わるはずだ。
プールを囲む観客席はまだ余裕があったので、真ん中くらいの場所に並んで座る。休日なのにスーツ姿の楓さん、フォーマルなワンピースの私は、周囲からはやはり少し浮いていた。
「私たち、浮いてますね」
「そうか?」
いつもこんな感じだと言って、楓さんはステージになるプールを眺めている。この浮世離れした綺麗な人は、周囲の視線は気にならないらしい。若い女性連れが何組もこちらをチラチラ見ているのに。
「イルカだけじゃなく、ペンギンもショーをするのか」
プールサイドにペンギンの群れが現れたのを見て、楓さんは感嘆したように呟く。本当に水族館は初めてなんだなあと思うけれど、私もそんなに詳しいわけではない。
飼育員の女性が現れ、挨拶した後でショーが始まった。ここにも桜の映像が投影され、光と音で更に華やかになっている。
プールの中の女性に指示され、舞うように高くジャンプするイルカ。飼育係の手から餌を食べ、もっととねだるペンギン。器用なその様子に、私はずっと拍手していた。隣を見ると、楓さんも楽しそうだ。
「――そろそろ終わりか?」
ショーが終盤になった時、腕時計を見て楓さんは私の肩に軽く触れた。
「出よう。カフェが混みそうだ」
「はい」
可愛いイルカが名残惜しくて振り返りながら通路に戻っていると、楓さんがくすっと笑った。
「イルカのぬいぐるみなら、買わせてもらうが」
「……自分で買います」
顔を合わせたのは今日で二回目。なのに、私たちはそんな軽口が叩ける程度に打ち解けていた。
水族館の中のカフェは、海をイメージした水槽があり、深い青と白い壁のコントラストが綺麗な空間だ。私は座り心地のいいソファ側を勧められ、楓さんが向かいの椅子に腰を下ろす。
時間的にお昼を食べてもいいのだけれど、私は夕食が「ディナー」になる場合は、昼食を抜くようにしている。でないと、コースの最後まで入らなくて、お店に失礼になってしまう。
だから軽くパンケーキと桜のアイスラテにしておく。楓さんはラテアートが気になったらしく、カフェラテとクラブハウスサンドイッチを選んだ。
少し待って、運ばれてきた料理をそれぞれ口にする。店内の雰囲気からしてお洒落優先かと思っていたけれど、かなりおいしい。
「あの、相談しておきたいことがあるんです」
「今?」
「早い方がいいんですが……ここだと内密にとはいきませんね」
「例のことに関わる内容なら、夕食の時に聞く。個室だから」
楓さんの答えに、私はほっとして頷いた。退職についての相談は、週明けには上司に相談できるよう、今日のうちに済ませたい。
そんな私に、楓さんが少し困った顔で問いかけてきた。アーモンド形の綺麗な目は、手元のマグカップを見つめている。
「……これは、どうやって飲めばいい?」
「ラテアートですよね。私は一通り見たらそのまま飲みます」
「そのまま? そういう作法なのか?」
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