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出会い編
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エリアストの部屋に着くと、扉が閉められた。アリスはギョッとする。通常未婚の男女が二人きりになることはない。やむを得ない場合でも、必ず扉は開けられている。それなのに。
「あの、公爵令息様」
「学園祭は毎年来ていたのか」
突然の話に、アリスは扉のことを言い出せなくなった。
「は、はい。兄が入学してから、伺っております。今年で最後」
「毎年誰かにぶつかっていたのか」
エリアストはアリスの言葉を聞かずに質問を続ける。
「いいえ、その節は大変申しわ」
「謝罪は既に受け取っている。何度も繰り返すな。時間の無駄だ」
アリスはキュッと口を結ぶ。エリアストの辛辣な物言いに、自然とアリスの視線が下に落ちる。
「どこを見ている。私を見ろ」
頭一つ分背の高いエリアストを、恐る恐る見上げる。冷たい瞳がジッと見下ろしている。温度を感じない視線が怖い。アリスの体が小さく震える。
「座れ」
エリアストはそう言うと、自分は本棚へ向かった。アリスは大人三人が余裕で座れるほどのソファの端に、申し訳程度にちょこんと座った。何故か不機嫌な彼を、これ以上不機嫌にさせるわけにはいかない。いかないのだが、不機嫌な理由がわからないため、アリスは息を潜めるようにじっとしているしかなかった。
ややあって、本を手に戻ったエリアストは、躊躇いもなくアリスのすぐ隣に座った。アリスの喉がヒクリと動く。夫婦や家族のような距離に焦りが募る。しかしここで何か言おうものなら、またどんな言葉を返されるかわからない。
ひたすら無言の時間が過ぎる。
何時間も経っているように感じるが、実際は十五分も経っていない。柱時計の時を刻む音だけが聞こえる。アリスはゆっくり細く細く息をついた。
エリアストは何がしたいのだろう。
引きずるように部屋に連れてきたというのに、何か見せたいものがある様子もなく、話したいことがあるようにも見えない。二人きりの閉じられた空間というのも、アリスの不安を掻き立てる。固く小さく縮こまっていると、ふと、視界の端にうつったものに少し心が癒やされる。花瓶に生けられた白い花。小さな花がぼんぼりのように密集して咲いているのがとても愛らしい。知らず顔を綻ばせた。
「何がおまえにそんな顔をさせている」
いつの間にかこちらを見ていたエリアストは、先程までの不機嫌さが不機嫌ではなかったとわかるほどに、不機嫌だった。
「あ、の、花、が」
引きつる喉を懸命に動かす。
「花」
エリアストはそう言うと花瓶に目を向けた。
「私といるのに私以外に興味を示すのか」
なあ、アリス。片手で両頬を容赦なく掴まれると、痛みにアリスは目を瞑る。そうすると更にエリアストの手に力が入る。
「目を閉じるな。私を見ろ」
痛みと恐怖に薄く涙の滲む目を開く。
美しい夜明け色の双眸に、エリアストは知らず引き込まれる。苛立ちが霧散する。瞬きを忘れてジッと見つめた。
先程までの不機嫌さがなくなっていることに、アリスは訳がわからなかった。
しばらくそうしていると、ようやく手を離してくれたので、少しだけ乱れた髪を耳にかけた。
その時だった。
「これはなんだ」
突然髪をかけた左手を掴まれ、驚きすぎてアリスはソファから落ちた。
こうしてエリアストはアリスの左手小指の付け根側面の小さな傷を見つけた。
*~*~*~*~*
酸欠状態から意識が回復してきたアリスは、自分の置かれている状況がわからなかった。
「ここ、は」
「目覚めたか」
背後から聞こえる声に、アリスはビクリと体を揺らす。
「あ、公爵令息様、申し」
自分が寄りかかっていたものが何なのか理解すると、アリスは慌てて体を起こそうとした。しかし、エリアストの腕がガッチリ抱えて離さない。
「動くな」
エリアストの左手が、アリスの顎を掴んで首を左に傾けさせると、右の露わになった首筋に、エリアストは噛みついた。
「いっ、つ、ぁ」
「ああ、血が出た」
エリアストは当然のように傷口を舐める。
アリスの目から涙がこぼれた。痛みのためか、悔しさのせいか。なぜこんなことをされなくてはならないのか。気に入らないならかかわらなければいいのに。
「私の名を呼べ、と言っている。頭の悪いおまえに覚えさせる罰だ」
覚えたか、とエリアストはアリスの頬を撫でた。アリスはコクコクと頷くと、今度は涙を舐められた。
「おまえはどこもかしこも甘いな。どうなっているんだ」
そう言って再び唇を塞がれる。アリスの頭の中はぐちゃぐちゃだった。エリアストは一体何がしたいのだろう。
「こ、公しゃ、える、エル様、は」
苦しい息の元、アリスは頑張って言葉を紡ぐ。
「わたくし、を、どう、なさりたいの、です、か」
エリアストは唇を離す。
「おまえは私のものだと言っただろう」
おまえもそれに応えた、とエリアストは初めてその瞳に感情を、負の感情ではなく、確かに愉悦を滲ませていた。アリスは言い知れぬ不安を覚えた。いつ、そんな約束をしたのだろう。アリスは無意識下でのことだ。覚えているはずがない。しかしここで否定することなど出来なかった。この人はおかしい。自分の世界でしか物事を見られない。
恐怖と同時に、別の感情が湧き出していた。
なんて哀れな人だろう。
「そうだな。おまえが私のものだという証拠をもらおう」
「え?」
言うや否や、側に置いてあった剣を掴むと、アリスの背後で音がした。
ハラリ、髪が顔にかかる。
「これでおまえは私以外に嫁ぐことなど出来ん」
目の前に掲げられた黒く艶やかな、星空色の髪。
アリスは気を失った。
*つづく*
「あの、公爵令息様」
「学園祭は毎年来ていたのか」
突然の話に、アリスは扉のことを言い出せなくなった。
「は、はい。兄が入学してから、伺っております。今年で最後」
「毎年誰かにぶつかっていたのか」
エリアストはアリスの言葉を聞かずに質問を続ける。
「いいえ、その節は大変申しわ」
「謝罪は既に受け取っている。何度も繰り返すな。時間の無駄だ」
アリスはキュッと口を結ぶ。エリアストの辛辣な物言いに、自然とアリスの視線が下に落ちる。
「どこを見ている。私を見ろ」
頭一つ分背の高いエリアストを、恐る恐る見上げる。冷たい瞳がジッと見下ろしている。温度を感じない視線が怖い。アリスの体が小さく震える。
「座れ」
エリアストはそう言うと、自分は本棚へ向かった。アリスは大人三人が余裕で座れるほどのソファの端に、申し訳程度にちょこんと座った。何故か不機嫌な彼を、これ以上不機嫌にさせるわけにはいかない。いかないのだが、不機嫌な理由がわからないため、アリスは息を潜めるようにじっとしているしかなかった。
ややあって、本を手に戻ったエリアストは、躊躇いもなくアリスのすぐ隣に座った。アリスの喉がヒクリと動く。夫婦や家族のような距離に焦りが募る。しかしここで何か言おうものなら、またどんな言葉を返されるかわからない。
ひたすら無言の時間が過ぎる。
何時間も経っているように感じるが、実際は十五分も経っていない。柱時計の時を刻む音だけが聞こえる。アリスはゆっくり細く細く息をついた。
エリアストは何がしたいのだろう。
引きずるように部屋に連れてきたというのに、何か見せたいものがある様子もなく、話したいことがあるようにも見えない。二人きりの閉じられた空間というのも、アリスの不安を掻き立てる。固く小さく縮こまっていると、ふと、視界の端にうつったものに少し心が癒やされる。花瓶に生けられた白い花。小さな花がぼんぼりのように密集して咲いているのがとても愛らしい。知らず顔を綻ばせた。
「何がおまえにそんな顔をさせている」
いつの間にかこちらを見ていたエリアストは、先程までの不機嫌さが不機嫌ではなかったとわかるほどに、不機嫌だった。
「あ、の、花、が」
引きつる喉を懸命に動かす。
「花」
エリアストはそう言うと花瓶に目を向けた。
「私といるのに私以外に興味を示すのか」
なあ、アリス。片手で両頬を容赦なく掴まれると、痛みにアリスは目を瞑る。そうすると更にエリアストの手に力が入る。
「目を閉じるな。私を見ろ」
痛みと恐怖に薄く涙の滲む目を開く。
美しい夜明け色の双眸に、エリアストは知らず引き込まれる。苛立ちが霧散する。瞬きを忘れてジッと見つめた。
先程までの不機嫌さがなくなっていることに、アリスは訳がわからなかった。
しばらくそうしていると、ようやく手を離してくれたので、少しだけ乱れた髪を耳にかけた。
その時だった。
「これはなんだ」
突然髪をかけた左手を掴まれ、驚きすぎてアリスはソファから落ちた。
こうしてエリアストはアリスの左手小指の付け根側面の小さな傷を見つけた。
*~*~*~*~*
酸欠状態から意識が回復してきたアリスは、自分の置かれている状況がわからなかった。
「ここ、は」
「目覚めたか」
背後から聞こえる声に、アリスはビクリと体を揺らす。
「あ、公爵令息様、申し」
自分が寄りかかっていたものが何なのか理解すると、アリスは慌てて体を起こそうとした。しかし、エリアストの腕がガッチリ抱えて離さない。
「動くな」
エリアストの左手が、アリスの顎を掴んで首を左に傾けさせると、右の露わになった首筋に、エリアストは噛みついた。
「いっ、つ、ぁ」
「ああ、血が出た」
エリアストは当然のように傷口を舐める。
アリスの目から涙がこぼれた。痛みのためか、悔しさのせいか。なぜこんなことをされなくてはならないのか。気に入らないならかかわらなければいいのに。
「私の名を呼べ、と言っている。頭の悪いおまえに覚えさせる罰だ」
覚えたか、とエリアストはアリスの頬を撫でた。アリスはコクコクと頷くと、今度は涙を舐められた。
「おまえはどこもかしこも甘いな。どうなっているんだ」
そう言って再び唇を塞がれる。アリスの頭の中はぐちゃぐちゃだった。エリアストは一体何がしたいのだろう。
「こ、公しゃ、える、エル様、は」
苦しい息の元、アリスは頑張って言葉を紡ぐ。
「わたくし、を、どう、なさりたいの、です、か」
エリアストは唇を離す。
「おまえは私のものだと言っただろう」
おまえもそれに応えた、とエリアストは初めてその瞳に感情を、負の感情ではなく、確かに愉悦を滲ませていた。アリスは言い知れぬ不安を覚えた。いつ、そんな約束をしたのだろう。アリスは無意識下でのことだ。覚えているはずがない。しかしここで否定することなど出来なかった。この人はおかしい。自分の世界でしか物事を見られない。
恐怖と同時に、別の感情が湧き出していた。
なんて哀れな人だろう。
「そうだな。おまえが私のものだという証拠をもらおう」
「え?」
言うや否や、側に置いてあった剣を掴むと、アリスの背後で音がした。
ハラリ、髪が顔にかかる。
「これでおまえは私以外に嫁ぐことなど出来ん」
目の前に掲げられた黒く艶やかな、星空色の髪。
アリスは気を失った。
*つづく*
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