キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (45)

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 十二月初旬。街には赤や緑の飾り付けがちらほらと見られるようになって来た頃。
 大きな通りから一本裏通りに入ったところにある古いビルの入口脇には開店祝いの花が飾られ、外装・内装共に新しく造り変えられた店の中では、活気に溢れた声が飛び交っていた。
「それでは今日も、よろしくお願いします!」
 冬独特の乾いた空気、肌を刺す冷たい風から逃れて中へと足を踏み入れると、暖かな室内の温度に内海はホッと息を吐いた。

 食事処としての新店舗がオープンして一週間が経とうとしている。
 店内には昼の部の責任者に抜擢された、以前の店での源氏名レイジこと濱田の元気な声が響いていた。
「お疲れさま」
「あ、内海さんっ」
「オープン前に悪い。今日で一週間だけど、どんな感じだ? 売上げ的には予想してたよりも順調そうだけど」
 一週間分のレシートや伝票をまとめつつ訪ねる内海に、少し疲れた顔をした濱田が苦笑を浮かべる。
「何ていうか、人をまとめる立場って大変っすよねえ……北斗さんの下にいた頃が懐かしいですよ――でも、楽しんでます」
「そう、なら良かった」
 オーナーである康之の意向に従って、店の勤務体制は二部制になっている。
 店で出す料理の仕込みは主に昼営業を15時で終えた昼の部の仕事とし、18時の退勤までの3時間を使って夜の部と翌日昼の準備を行う。もちろん昼の分全ての仕込みにまでは手が回らないため、持て余す時間のある夜の部の閑散時間を使用し、残っている翌昼営業の準備をするという、持ちつ持たれつな業務内容である。
 それぞれの時間帯に責任者を置き、その下にチーフを宛がい、それらを統括する立場にあるのが康之ということになっている。昼と夜では当然売り上げの目標も違ってくるし、客層も変わるため、様子を見ながら調整をかけていかねばならない。
 この一週間の様子を見る分には、順調な滑り出し。SNS等の口コミでも、昼も夜も評判は上々のようだった。
「あれ? そういえば内海さんて土日休みですよね、どうかしたんですか?」
「出掛ける用事があったから、ちょっと顔出してみただけだよ。じゃあ頑張って」
 厨房も見ながら店内をサポートする形の濱田は、体力的にも相当大変だろうと内海は思う。それでも楽しいと笑う顔を見れば、【knight】で働いていた時に見せていた顔よりもずっといい表情をしているように思えた。



「外……寒っ」
 濱田に見送られて店を後にし、事務所を兼ねている康之のマンションへと向かう。伝票類を一旦置いてから向かえば、待ち合わせの時間には丁度良い。
「……やばいな俺、緊張し過ぎだって」
 この店が開店するまで、本当の意味で恋人同士の関係に戻るということを、橘川には待ってもらっていた。
 店がオープンして一週間が経ち、開店当初の慌ただしさも少し落ち着きを取り戻した今日、内海は8年ぶりに昔暮らしていたあの部屋を訪れることになっている。
 今は橘川が一人で暮らす部屋。良い思い出も悪い思い出も詰まっている部屋。

『ちょっと付き合って欲しいところもあるし、どうせなら外で待ち合わせてデートしようぜ。で、夕飯食ってから帰ろう』
 内海の緊張を察したのだろう。「がっついてるって思われたくねえし」と苦笑しながら、橘川からそんな提案をされたのは数日前。
「付き合って欲しい場所って、どこだろ……」
 家にいても落ち着いていられず、だったら仕事でもして気を紛らわそうと早々に出て来てしまったけれど、伝票整理をしていても気が急いて集中など出来なかった。
 何度となく目で追ってしまう時計の針は、間も無く待ち合わせ場所に向かわなければならない時間になろうとしている。
「――行こう」
 ドキドキと不規則に跳ねる鼓動を感じながら、想い人が待つ場所を目指す。心地好い緊張感が、恋愛をしているのだと実感させてくれて、ほんの少し心が擽ったい。
 少しも嫌では無い緊張感。それは内海がどれだけ橘川を好きなのかということを、教えてくれているような気がした。



 待ち合わせ場所のカフェに向かえば、通りに面したガラスの中、人待ち顔でコーヒーを啜る橘川がいた。二人が再会を果たしたこの場所から、新しい二人の関係が始まろうとしている。

 北斗の想い人でもあるこの店のオーナーに軽く手を上げ、待ち合わせだからと橘川の待つ席へ真っ直ぐに向かう。
 内海が入ってきたことに気が付いていたのだろう、視線を上げた橘川が、柔らかな笑みを浮かべて迎えてくれる。再会したあの日には、まともに視線を交わすことも出来ずに終わってしまったのに。
「悪い、待たせたな」
「俺もさっき来たばっかだ。ここで昼飯食っちまうか?」
「そうだな……どうした?」
 内海を見つめる視線を外そうとしない橘川に首を傾げて見せれば、慌てた風に何でも無いと首を振る。そのくせ嬉しそうに口元が緩みそうになっているから、見られる内海は気恥ずかしい。
 学生時代に付き合っていた頃も、同棲をしていた頃ですら、こんなに甘い眼差しで見つめられた事は無かったように思う。
 面映さを感じられるのも、8年前と変わらず逃げようとした内海を、橘川がしっかりと捕まえてくれたからこそだ。弱かった内海が強くなろうと思えたのも、全ては橘川の存在があったからこそ。
 もう何があっても逃げ出すということだけは、決してすることはないだろうと思いながら、内海は橘川と微笑みを交わした。



「ホント! マジで! お前は何も変わってない!」
「何回その話してんだよ、耳タコだっつうの」
 夕食代わりに居酒屋に足を運んだのは、店がオープンするかしないかの早い時間。
 突然の橘川からの提案に引っ張り回されるまま歩いた内海が、いつも以上に早いペースで酒を口に運ぶのを、橘川はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべたまま見守っていた。
 酔いが回るにつれて絡み酒になっていった自覚は、内海にもあった。それでもグラスを置くことが出来ない内海の、内に抱えた緊張に気付いていたのだろう。
 店を出る頃にはほろ酔い以上の足取りになっていた内海を抱きかかえるようにしながら、橘川がタクシーに乗り込んだのは少し前の話。
「ほら、苦情が来る前に中に入れ」
「ん……お邪魔し……」
 片腕で内海を抱えた橘川が空いている片手で器用に鍵を開ける。開かれた扉に一瞬躊躇した内海が、ぼそぼそと呟いた瞬間だった。
「おかえり」
「っ――」
 玄関の内へと内海を迎え入れた橘川が、静かに掛けてくれたひと言。
「お帰り、智久……」
「悦郎――ただい、ま……ただいま、んっ」
 どんな表情をしようとか、どんな言葉を返そうかとか、そんな計算なんて全てが吹き飛んだ。込み上げて来る感情のまま、潤む視界で見上げた橘川に唇を重ね取られる。
「ずっと、こうしたかった……ずっとだ、智久」
「……俺も」
 啄ばむようなくちづけの合間に囁かれ、力強い腕に抱き留められれば、たったそれだけのことで背筋に震えが走った。
 8年越しのくちづけ。遠く離れてしまった時間も距離も、この一瞬のためにあったのかもしれないとさえ思うほど、甘く蕩けていく。
 背筋を這った震えは、深くなっていくくちづけの激しさにつられるように、内海の腰を重くしていく。
 橘川の舌に唇の隙間を割られて内へ入り込まれる。長く離れていた時間など感じさせないくらい、橘川は内海を忘れてはいなかった。そして内海もまた、橘川が与えてくれるこの感覚を忘れていなかった。
(ああ、そっか――これじゃ、駄目だったはずだ……)
 新しい恋をしよう。橘川を忘れよう。そう思いながらも出来なかった8年という時間。
 それが何故なのか、こうしてキスを交わしただけで謎が解ける。くちづけひとつにしても、少しも忘れられていなかったというのに、橘川への想いの全てを捨て去ることなんて出来るはずがなかったのだ。

 舌先が自在に咥内を動き回る。内海の弱みを暴くように擽りながら巧みに動く舌の動きに息が上がる。気付けば下肢は張り詰めて、身体の中を這い回る熱に腰が揺れていた。


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