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キスからの距離 (38)
しおりを挟む目元や口元に多少年齢を感じさせるものはあるけれど、どちらかと言えばあの頃よりも引き締まったようにさえ見えるスマートな体型。落ち着きを備えるようになった物腰からは、大人の魅力を感じさせられる。
「智久っ、こっちだ」
足を止めて見入っていた内海に気付いたのだろう。立ち尽くす内海を見て、雑踏の中で自分がいることに気付いていないと感じたのだろうか。橘川が顔を綻ばせながら、軽く手を挙げて内海を呼ぶ。
「悪い、待たせたな」
「遅いから連絡入れようか迷ってたところだ」
近寄った内海に携帯の画面を見せながら、橘川が軽く肩を竦める。覗き込めば確かに、内海宛に打たれたトークアプリのメッセージ画面に、送信を待つだけになっている文章が表示されていた。
あの頃主流だったメールという連絡手段が、今やこんなアプリで手軽に行われるようになっている。それだけの時間が、二人の間に流れていた。
電話番号もメアドも変わっていないと言っていた橘川へ、アプリのアカウントを教えたのは、まだ夏の暑さが残っていた季節。身を着る風に肩を竦めるようになったということは、その間ずっと、内海は橘川への返答を待ってもらっているということになる。
「さすがに夜は冷えるなあ。どうする? いつもの居酒屋でいいか?」
「ああ、お前に任せるよ」
「すげえ腹減った。今日は昼飯麺で軽く済ませちまったからさあ」
他愛も無い会話を交わしながら、拳ひとつ分の距離を保って夜の街を歩く。
昔と変わったのは、互いにスーツを身に纏っていることと、会話の内容に健康の話題が出るようになったことくらいだろうか。
肉体的な接触はもちろん無く、友人として接していた時間の延長のような、楽しくて少し切なさを感じさせる、橘川との時間。それは内海にとって居心地の良い時間だった。
(俺がもし断れば、こんな時間も無くなってしまうんだよな)
橘川の瞳の奥にちらつく焦燥の色には気付いている。
欲を秘めた熱さを感じることもある。
それを分かっていながら知らないふりをしている自分に苛立ちも覚えるのに、色好い返事をするにはまだ、躊躇いを捨て切れずにいるのだから質が悪い。
「準備は順調に進んでるのか?」
「ああ……納期にバタついて悪かったな」
「智久のところなんてマシなもんだよ。中には半年も一年も待たされたまま結局キャンセル食らって、在庫抱えさせられることだってあるんだぜ」
「はは、そりゃ災難だな。もうすぐ内装も仕上がるし、そうしたら研修とメニューの最終調整が始まる。康兄が昼も営業するって言い出したから、対応に追われて大変だよ」
「そんなこと言いながら、お前結構楽しんでるだろ? 表情が生き生きしてるし」
こんな風に仕事の話を出来ているなんて、昔と比べれば考えられないことだった。
あの頃は内海も橘川も、なるべく家の中では仕事の話はしないようにと、いつの間にか気を使っていたのかもしれない。
話したところで分かるはずもないのだから、つまらない話をすることで変に気を揉ませたくは無い。
それは思い遣りに似た傲慢な考えだったと、今だからこそ分かる。会話の少なさが擦れ違いを呼び、隠そうとしたせいで大切なものを見落としてしまったのだと。
「――あの部屋、一月一杯で引き払おうと思ってる」
「っ、一月……」
「急かすつもりは無いから、変な心配するなよ? たださ、そろそろ物件探しに動き始めないといけないかとは思ってるんだ。俺としては、今のところと同程度の広さにしたい」
「悦郎」
「それだけ、頭の片隅にでも置いておいてもらえると嬉しい……っと、グラス空じゃん、同じので良いか? すいませーん!」
世間話のひとつと間違えてしまいそうなほど、軽く言われた言葉。話は終わりと逸らされる話題に、内海は返す言葉を詰まらせながら頷くのが精一杯だった。
(悦郎はちゃんと、俺との未来を考えてくれようとしてるんだな)
そんな何気ない主張を見せられて、その後はもう、橘川の口からその話題が上ることも無いまま、楽しいのに切ないという複雑な時間だけが流れていく。
きっと内海が口にしなければ、橘川から口にする事は無いのだろう。内海が結論を出すのを、ただ黙って待つのだろう。
「なあ悦郎」
「何だ? 食いもん追加するか?」
思い切って口を開けば、橘川は見当違いにもメニュー表を差し出してくる。それに違うと首を振りながら、内海は薄いレモンハイをぐびりと煽った。
「本当にずっと、あそこに住んでんのか? 通勤考えたら、不便なんじゃないのか?」
まさか内海の方から話を戻してくるとは思っていなかったのだろう。橘川は少しばかり驚いた風に目を瞠った。
「住んでるよ……家具の配置も、お前と暮らしてた時のままだ。智久が置いて行った荷物も、そのまま残してある」
暫らく内海の顔をまじまじと見ていた橘川が、僅かに視線を落として寂しく微笑む。自嘲するかのような笑みを口元に浮かべながら、グラスの底に沈んでいた梅をかき混ぜる。
(昔は、焼酎のお湯割なんてジジイの飲むもんだって言ってたのに)
自分がした質問への答えから逃げたかったのか、内海の思考はそんなどうでもいいことばかりを思い出す。
「引いたか? まあ、気持ち悪いよな。でもお前の痕跡が消えたら二度と会えないような気がして……智久と暮らした生活全てが、夢になっちまう気がして」
「どうしても捨てられなかった」と呟きながらグラスを口へ運び、「すっぱ!」と僅かに眉を寄せる橘川を見た内海も、少しだけ口元を緩めた。
「……もし俺が、お前の望む答えを出せなくても、こうして飲んだり出来るか?」
深く考えての言葉ではなかった。橘川を見ているうちに、するりと唇から溢れた言葉。
問い掛けた自分自身でも驚いていた。こんなことを聞くつもりじゃなかったのに……自分が傷付くのが怖いから、居心地のいい今の関係のままいたいなんて。あまりにも甘えた考えに、あの頃から何も変わっていない自分の弱さに嫌気が差す。
「あ……っと、ごめん! 今の無し、忘れてくれ!」
「智久――」
「いやだから、何でもないんだ。本当、気にしないで」
動きを止めた橘川の様子に、内海は慌てて言い募る。首と手を一斉に横に振り動かしながら、質問自体が間違いだったのだと。
そう言って笑顔を浮かべたつもりだったのに、顔が引き攣っているのが自分でも分かった。
「悪いけど……それは無理だ、智久」
「っ、えつろ――」
「男としてそこまで枯れちゃいないし、仙人にもなれないからな……お前が望むんならそうしてやりたいっても思うけど、惚れたヤツを相手に一生友達面して隣で笑ってられるほど、人間が出来てないんだ」
分かっていた答えだったからこそ、聞きたくなかった。それでも橘川は真剣に考えて、言葉を区切りながら答えをくれる。
言い切ったからには本気だろう。
内海がノーと返せば、二度とこうして、橘川と過ごす時間は持てなくなる。
「……変なこと聞いて悪かった。ちゃんと考えてる……答えも出すから、もう少しだけ待ってくれるか? お前がどうこうっていうんじゃなくて、多分これは、俺の中での問題なだけだと思うんだ」
今度こそ自分も真剣に、答えを出すために頭を悩まそうと誓う内海に、橘川は「分かってる」とひと言、微笑みと共に返してくれた。
「そろそろ出るか? もう終電近いな」
「えっ、もうそんな時間なのか?」
時を操る神様は意地悪だと内海は思う。一人で過ごして来た8年という長い時間は、時が流れているのかどうかさえ実感として持てない日々だった。それなのに、楽しい時間、想う相手と過ごす時間は、どうしてあっという間に過ぎて行ってしまうのだろう。
10分のつもりが実際は一時間経っていたりするのだから、時計が壊れているのかと目を疑うこともある。
(こんな風に感じるのも、随分久し振りの感覚だけど)
伝票を持って席を立つ橘川の後に従いながら、物足りなさを感じてしまう自分の強欲さに呆れる。
抱き締められたい。
キスだってしたい。
できるなら、それ以上の事だって。
それらの願いが叶わないのは自分のせいだと分かっているのに、望みは尽きない。せめてもう少しだけでも二人でいたいと考えて、ああそうかと納得する。
(物足りないからまた会いたくなって、また会いたいと思うから想いが膨らむ。会えない時間もその相手の事を想うから、想う時間の分が積み重なって、会っている時間が早く過ぎて行く気がするのか)
愛を育てるために、そして愛を試すために、時間は流れているのかもしれない。
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