キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (37)

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 康之がやろうとしている店のコンセプト。
 それは、彼曰く【ご飯屋】だそうだ。

 元々は真夜中から明け方に終わる仕事をしている、いわゆる水商売で働く客層を狙った店になるはずだった。酒は瓶ビールしか置かないし、一人に付き注文できる本数は1本までの制限あり。
 その他のドリンクはドリンクバーを中心としたソフトドリンク程度。お茶と水は専用サーバーからご自由にお取り頂く。もちろんそれらはセルフサービス、無駄に人員を配置はしない。
 店の売り物のメインにしたいのはあくまでも【料理】。それも高級食材をふんだんに使用した料亭の味では無く、目指すのは家庭の味だと聞いた時には、内海も耳を疑った。

『俺もな、ホスト時代は仕事終わって食う場所探すのに苦労したんだよ。時間的にファミレスか牛丼屋、若しくはラーメン屋くらいしか開いてねえだろ? それが嫌ならコンビニ飯だ。仕事して疲れて、一日の最後に口に入れるものなんだから、ホッと出来る飯が食いたいって何度思ったか』

 それが店を開こうとした一番の理由だと計画段階で聞かされて、なるほどそれは少し分かるかもしれないと納得した。
 居酒屋のメニューではなく、どちらかと言えば定食屋を目指したい。和食を中心に、懐かしのおふくろの味っぽいものを提供したい。そう言って笑う康之は、少し寂しそうで。

『こういう世界にいるやつらってのは、多かれ少なかれ、家族とは距離のある連中が多いんだ。だからさ、そういうほっこりするもんに憧れを抱いてたりするんだよな』

 それを聞いて、康之自身が親戚の中でも浮いていた存在であったことを思い出した。
 内海に対しては優しくて頼り甲斐がある従兄で、幼い頃から可愛がってもらっていたけれど、親族の集まる席ではいつも所在無さ気な態度でいた康之の姿を思い出す。
 大人達のひそひそと話す不穏な空気を、内海も何となく肌で感じたことがあった。

『うん、良いんじゃない? オーナーは康兄なんだから、やりたいようにやれば良いよ。俺も出来るだけサポートするし、口出しもさせてもらうけどね』

 そう同意して始まった計画の最中、まさかメーカーの担当営業として現れるのが橘川だとは、微塵も思っていなかった。
 何社かの見積もりを検討した結果として、贔屓目は無しに、橘川の勤めるメーカーへと、換気と給湯設備を発注することに決まった。
 最初こそ牽制オーラを剥き出しにしていた橘川も、今ではすっかり康之とも打ち解けている。
 康之の方はといえば、これまた楽しげに……本人曰く愛情を持って、内海達の事を見守ってくれているということなのだけれど。
「ああ、それでぷりぷりしんてのか? デートの時間がねえって?」
「デ、ッ……そんなんじゃないから!」
「照れるな照れるな、今日もどうせこの後は待ち合わせしてんだろ? キューピッドになってやったお兄さんに対して、もっと盛大に感謝しても良いんだぞ?」
「だからっ! 飲みに行くだけだって!」
 ニヤニヤと笑みを浮かべながらからかわれ、毎度のことだと思いつつカッとしてしまう。

 あの日……橘川とじっくりと話し合ってからというもの、少なくとも週に一度は橘川と一緒の時間を過ごすようになっていた。
(年末、か――)
 橘川から告げられている期限が、徐々に足音を忍ばせながら近付いて来ている。
 店のオープンは十二月の頭だ。

『あの部屋、年が明けたら出なくちゃいけないんだ……それまでに、結論をもらえるか?』

 あれから数ヶ月が過ぎたというのに、内海はまだ、結論を出せずにいる。橘川も返事を迫りたいだろうに、何も言わず内海の心が決まるのを待っていてくれていた。
(そろそろ決めなきゃ)
 部屋の退去日の事を詳しく聞いたわけでは無いけれど、今の関係を崩してしまうことは躊躇われて、どうしてもあと一歩を踏み出せずにいる。
「お前がそう言うならそれでもいいさ」
「っ、康兄……」
 康之の声にハッとして視線を戻せば、そこにはからかいの色を消して内海を見つめる、優しい眼差しがあった。
「覇気の無い世捨て人みたいな顔してるより、今のお前の方がずっといいよ」
「世捨て人って、言い過ぎじゃない?」
 にっこりと微笑まれてしまえば、照れ隠しに視線を逸らすより他無くて。ぶっきら棒な言葉を吐く内海に向かい、康之はそれでも優しく微笑む。
「まあそれ以上は言わないでおいてやるけど、お前自身が後悔しない道を選べよ」
「後悔、しない道」
 康之には後悔するような何かがあったのだろうか。
 優しく自分を見る従兄の瞳の奥に、ほんの少しの寂しさと、消し切れていない燻りが見えた気がした。
「大事な従弟だからなあ、幸せになって欲しいと思うわけだよ、お兄ちゃんとしては」
「……ありがと、康兄――」
「よぉし、んじゃあまあ、新店舗のスタッフ面接始めるか」
「あ、うん…じゃない、はい」
 最後には茶化すように肩を竦め、内海が重く受け止めずに済むようにしてくれる。そんな康之の心遣いに、内海も今度は素直に言葉を返せたのだった。




「……今日は、今のでラストです」
「レイジ――悪くねえな」
 新規店舗の営業は二部構成に分かれる。この辺りは観月のカフェのやり方を参考にさせてもらった。
 午前10時~午後3時までのランチ営業と、深夜23時から朝方7時まで。当然スタッフも入れ替え制となり、昼は9時出勤の18時退勤。夜は22時半出勤の早朝7時半退勤となり、基本的に調理の仕込みは昼スタッフが営業を終えて退勤するまでの間に行う。サービス業だけにシフト制での休みではあるけれど、週休二日に福利厚生もしっかりとさせてのホワイトな店になる予定だ。
 昼と夜それぞれには、店長という名の責任者を立てて店舗を見させることにもなっている。

 今二人が面接を行なったのは、昼の部の店長候補の面接だった。
 夜の部の面接を行なう際にこちらから声を掛けた北斗からの推薦で、彼の下についている売上げは今ひとつのレイジという源氏名の男の面接を行なった。
 実子ではないけれど、子供を引き取って育てているという話は聞いていた。子供のためにも昼の仕事に移れるならと、意欲的に面接に臨んでいた彼ならば、そうそう無責任な行動も起さないだろうし、信頼も出来そうだというのが二人の見解だった。
「ま、でもこれで理由も分かったな」
「理由?」
「時々ペナルティ食らっても、早退したり休んだりしてたのが、ここ最近減った理由だよ。それが恋人のおかげってのには笑ったけど……幸せなのは良いことだ。な、智久?」
 最後は内海自身に向けられた言葉なのだろう。言外に内海にも幸せになれと言ってくれている言葉に、否と言えるはずもなければ、言うつもりも無かった。
 借金を抱えていると言う話も、ホストとしての面接の際に聞いていた。それも今では大分額が減ったのだと語った彼を見て、正直に言えば内海も安堵に胸を撫で下ろしたのだ。
 新店舗はもちろん赤字でいいとは言わないけれど、康之の思いを実現化させた遊び心のある店だ。
 真面目に勤め、お客様を満足させるだけの仕事さえしてくれれば、店長としてそれなりの給与も保障される。スタッフが育てば、今よりも休みだって取り易くなるに違いない。
「そりゃあまあ……子供のためにも、アイツは昼の仕事の方が良いでしょうね」
「んじゃあ決まりでいいな? こいつを昼に持ってくる……ってことで、後は明日でいいぞ、待ってんだろ?」
「じゃあ、続きは明日ということで……お先します」
「楽しんで来いよ」
 ニヤついた康之の笑みは気に触るけれど、待ち合わせの時間を過ぎていることに、本心では少し焦っていた。橘川との事は、どうせ知られている関係なのだ。だったら変に隠し立てする必要も無いと、素直にその言葉に従うのだった。


 待ち合わせた繁華街に程近い地下鉄駅の前、手持ち無沙汰に携帯を弄る男の姿が内海の目に飛び込んで来る。
 金曜の夜ということもあって混み合っている人混みの中、少しだけネクタイを緩めた状態で立つスーツ姿に、駆け寄ろうとしていた足が止まった。
(やっぱり、カッコイイよな)
 惚れた者の弱みと言われても構わない。内海にとっては周囲を行き交う誰よりも、心を惹き付けて止まない人物。
 本人に言えば「気のせいだ」と軽く返されてしまう事が分かっていても、通り過ぎる女性の視線の多くが、橘川のことを見ていくような気さえしてしまう。

 8年も経っているのだ。見た目も変わっていると思っていた。中年太りが始まっていてもおかしくは無い年齢になっているし、髪の生え際が後退している同年代もよく目にする。
 けれど再会した橘川は、少しもあの頃と変わっていなかった。


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