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キスからの距離 (36)
しおりを挟むその言葉に嘘は無かった。
過去の事とはいえ、真実を知らされて傷付かなかったわけではない。裏切られていたという事実に対しては、確かにショックも受けていた。
けれど実際に面と向かって過去の過ちを謝罪する橘川の、これほど真摯な告白を聞くことが出来たということが、受けた痛みを和らげてくれる気がしたのだ。
「なあ智久――」
「ん?」
隠していた事も隠されていた事も、これで無くなった。続け様に聞かされた話はなかなかヘビーなものではあったけれど、おかげであれほど感じていた緊張感からも解き放たれて、気まずかった二人きりの空間も気にならなくなっていた。
無意識に張り詰めていた肩からの力が抜けて、ホッと息を吐く内海へと、未だ緊張を湛えたままの橘川から声が掛けられる。
「俺と、やり直してくれないか」
「……え」
ほんの僅かな逡巡の後、小さく息を飲み込んだ橘川が、真剣な瞳で内海を見つめながら告げた言葉。何を言われたのか、最初は理解出来なかった。
「虫が良過ぎる話だってのは分かってる。お前を散々傷付けた俺が、こんなことを言い出す資格なんて無いことも分かってる。俺の言葉なんて信じられないかもしれないけど……俺はお前と生きて行きたい」
戸惑う内海から視線を外すことなく、橘川が言い切る。
「悦郎――本気で、言ってるのか?」
言われた言葉の意味を理解すると共に、徐々に思考が戻って来る。内海の内に広がっていく歓喜と不安、異なる二つの感情が、返す声を震わせていた。
「冗談でこんな事言えるかよ」
「悦郎」
「出張から帰ってきたあの日な……もうすぐお前に会える、お前の待っててくれる部屋までもう少しだ、帰ったら出掛けに出来なかった分までお前を抱き締めて、思い切りキスして、抱き潰してやろうって、そんな事を考えてた」
内海を見つめる橘川の瞳に翳りが差した。切なく細められた目が、慈しむように内海だけを捕らえている。
「やり直すチャンスをもらえないか? もうこれ以上、お前がいない毎日を過ごしたくない。お前と一緒に、生きていきたい。智久がいない未来に、俺の幸せは無いんだ」
本当に、虫が良過ぎる話だ。そう思うのに、言葉には出せなかった。
橘川に初めてされた告白を、思い出してしまったから。
自分とは違って幸せな家庭を築けるのだからと告白を受けることを渋る内海に向かって、『そこにお前がいないなら、それは俺にとっての幸せじゃない』と、橘川は事も無げに言い放ったのだ。
その時交わした会話と、今目の前で言葉を紡ぐ橘川が、内海の中で重なり合っていく。
「……時間が欲しい」
「智久?」
「悦郎の気持ちは嬉しい……それは本当に、嘘じゃない。勝手に家を飛び出した俺のことを、ずっと想っててくれたことも嬉しかった」
「だったら」
「でも! でも、今のままじゃ駄目なんだ。今お前とよりを戻しても、俺は多分、また同じ事を繰り返すような気がする」
話しながら視界が曇っていくのを感じる。橘川からの言葉は嬉しくて、その腕の中に今すぐにでも飛び込んで行きたい。だけどそれと同じくらい不安なのだ。
「お前の言葉を信じたいけど……俺と一緒にいたら、きっといずれ重荷になる。世間に言えないような関係より、女の方が良くなるんじゃないかって脅えて暮らすのは、もう嫌なんだ」
内海の頬を涙が一筋滑り落ちる。
自分でもどうすれば良いのかが分からなかった。好きで、好きで、誰と身体を重ねても忘れることの出来なかった愛しい男が、こうして再び自分を求めて手を伸ばしてくれている。
それなのに素直にその手を取ることが出来なくて、それがとても苦しくて切なかった。
「はぁ……」
「えつ、ろ?」
ほんの僅かな時間ですら目を離せないと言わんばかりに、食い入るような視線を内海へと注いでいた橘川が俯くと同時に、その口から大きな溜息が飛び出す。
(もう、これで終わりなのか……俺が、はっきり決められないから)
後悔するくらいならその手を掴んでしまえと、弱い自分が内海に発破を掛ける。だけどそれでは本当の意味での幸せは掴めない。
8年前、あの時に逃げ出さずに向き合っていれば、これほどの怖さは無かったのかもしれない。長い時間を空けて、こうしてまた橘川の近くへと来れたのに。結局は、自分から離れてしまおうとしている。
俯く橘川を見ているだけで、頬を濡らしながら落ちていく涙の筋が増えていく。けれど嗚咽を堪える内海の耳に届いたのは、予想とは掛け離れた言葉だった。
「良かった……」
「良かっ……た?」
どういう意味だと首を傾げる内海へと向き直った橘川は、安堵の笑みを浮かべていた。昔から、内海の前でだけ見せてくれていた飾り気の無い表情で、首を縦に振って見せる。
「嬉しいって、信じたいって言ってくれたってことは、チャンスをもらえたって事だろ?」
「チャンス……」
「もう二度と、仕事以外で話しかけるなって言われるかと思ってた。もう俺との事は大昔の過去のことだからって」
そう言って微笑む橘川は、とても優しい、穏やかな顔をしていた。
呆然と目を瞠る内海の濡れた頬に、少しの躊躇いを見せた後、橘川の腕が伸ばされる。
そっと頬へと添えられた手が、少しがさついた指先が、涙の痕を拭き去る動きで柔らかく内海の頬を撫でていく。
身体を震わせたのは一瞬だった。肩を跳ねさせた内海へと、恐る恐る触れた橘川の手も震えている。
(ああ……悦郎の、手だ――)
忘れようとしても消えてくれなかった橘川の感触に、思わず擦り寄る仕草を見せた内海を目にして、苦笑する気配が伝わってくる。
「8年待ったんだ……待つよ、お前の気持ちが固まるまで。だからそれまでは、昔みたいに一緒にどっか飲みに行ったり、買い物行ったりしてくれないか? お前が頷いてくれるまで、キスもしないって誓う。だから俺の隣で笑って、今の俺を、見て欲しい」
「悦郎……でもそれじゃ、そんなんじゃ」
内海を見つめる瞳の奥に、燻る焔が見える。それを押し殺してでも傍にいたいと、橘川がゆっくり言葉を区切りながら伝えてくれる。言葉だけじゃなく心を伝えようと、愛おしげに内海の頬を撫でながら。
「うん……本当は今すぐにでもお前を抱き締めたい。キスも、それ以上の事もしたい。でもそれじゃお前が納得出来ないんだろ? だったら待つ」
「――いいのか? 俺ばっかり、我儘言って」
離れなくて良いというのなら、どんなに嬉しいだろう。
今すぐ恋人という関係に戻ることには躊躇いがあるけれど、その前段階……もう一度最初から、友達からやり直せるというのなら、内海に否がある筈も無かった。
「じゃあ、一個だけ……俺にも我儘言わせてくれよ」
「何?」
自分が目の前の男に縋り付くような視線を送っていることに、内海は気付いていない。揺れる内海の感情を受け止めて、橘川は少しだけ苦い笑いを口元に刻んだ。
「あの部屋、年が明けたら出なくちゃいけないんだ……だからそれまでに、結論をもらえるか?」
「智久、例の件どうなってる?」
「予定通り進んでますよ。オーナーのせいで遅れてた内装関係も順調に進んでます」
「うわぁ、厳しいね、お前」
「普通です」
週にニ度、このところ週末金曜日と週明けの月曜日に、内海は【 knight 】へと顔を出すようになっていた。時折イレギュラーはあるものの、今は大概そのスケジュールで動いている。
無表情を装う内海を前にした康之がわざとおどけて見せるのに、こうして素っ気無く返すことも、このところの恒例になっていた。
「まあ、順調なら何よりだ。この調子なら年末のかき入れ時までには、問題なくオープン出来そうだな」
「そうですね……突然昼間も営業するって言い出した時には驚きましたけど」
「リサーチ結果見ると、昼間もあの辺りは結構客が入りそうだったしな。だったら費用回収を早める為にも、開けといた方がお得だろう?」
「おかげで俺の仕事は増えましたけど」
仏頂面を作る内海へ、康之は「そう言うなって」と肩を竦める。
今二人が話しているのは、夏の終わり頃にようやく改装工事に着手した例の店の件だった。
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