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キスからの距離 (35)
しおりを挟むどこかぼんやりとした表情で遠くを見つめる内海の横で、橘川の組み合わせていた拳を握る手に力が籠もる。
「本当は押しかけて行って、そいつのことを怒鳴りつけて、殴り飛ばしてやりたかった」
「っ、お前……」
物騒な言葉に驚いて橘川に向き直った内海は、悔しそうに唇を噛む橘川の姿を目にして、掛ける言葉に詰まった。
「してないから安心しろ――俺には、そう出来るような権利すら無かったからな」
内海が自分を見ていることを感じているのだろう。緩慢に首を横に振った橘川の唇が、自嘲の形に歪んだ。
「そいつより誰より、俺が一番、お前を傷付けた。殴られるのも怒鳴られるのも、そうされるべき人間は俺自身だったから」
「悦郎? お前、何言って……」
戸惑いを隠せない内海の声に、橘川は顔を上げてその視線を正面から受け止めた。
内海の目に映るのは、今にも泣き出すんじゃないかと心配になってしまうほど、哀しい笑顔を浮かべる橘川の姿だけだ。
「後になって気付いた。あの頃お前は、何度も俺にその話をしようとしてくれていたんだろう?」
「そ、れは……」
返す言葉に詰まる。そんな内海を前にして、橘川は小さく息を吐き出した。
「社長から聞いた話じゃ、息子からのセクハラは結構前からだったはずだ。お前は何度も俺に、話がしたいって言ってたよな? それなのに俺は、何だかんだ理由を付けて……自分の事ばっかりで、お前の話を聞こうともしなかった」
「えつ……ろ……」
「智久が作ってくれてる居心地の良さの上に胡座を掻いて、甘えきって……お前を好きな気持ちには嘘は無かったし、お前も俺を好きでいてくれてるってことを、いつの間にか当然だと思っていたんだ」
「悦郎のせいだけじゃ、ない。俺だって、逃げてたんだ。本気で聞いて欲しいなら、話すチャンスは幾らだって作れたのに」
「違うだろ……言えなくしてたのは俺だ。お前がいなくなって、初めてその事に思い至ったなんて、遅過ぎもいいところだ」
気付いてくれていた。
あの頃には伝わらなかった内海の気持ちは、皮肉にも8年と言う長い年月の間に、しっかり橘川へと届いていた。自分がただ逃げ続けていた時間の中で、橘川は独り過去に向き合い、考えてくれていたのだ。
(……自分の事ばっかりなのは、俺の方だ……)
自分が傷付くのが嫌だったから、正面から橘川に向き合う事を避け続けた。無理して笑顔で振舞って、その結果疲れ切って逃げ出して。
後に一人残される橘川が、訳も分からずに放り出された彼が、何をどう思うのか。そんな事すら考えられなくなっていた。
「それが、ひとつ目の謝罪だ」
「ひとつ目……もうひとつは、何だよ」
胸が痛かった。傷付いたのは自分だけだと思っていたことが情けなくて、真摯に自分へと言葉を紡いでくれる橘川の顔が、見ていられなかった。
「ふたつ目は……」
「ふたつ目、は?」
言い掛けた橘川が、不意に言葉に詰まる。
どうかしたのかと視線を戻した内海に、橘川が「情けねえ」と呟きを漏らす。震える小さな声に眉根を寄せれば、目の前の男の顔も、再び苦しげな表情に変わる。
「……この後に及んで、お前にいい格好したいとか。これ以上嫌われたくないとか、どんだけだよ、ってな」
「嫌われ、って」
「そんなことは無い、自分はずっと橘川が恋しかった」その言葉を素直に口に出来たら、どれだけ幸せなことだろうと思う。
けれど今の内海には、まだその言葉を告げる事は出来なかった。
「あの頃……お前が悩んでるのにさえ気付かないで、俺は――浮気してた」
消え入りそうな声音での橘川の告白。
齎された言葉の意味を理解するのに、数秒が掛かった。
「――ぇ……」
言葉の意味が理解出来た瞬間に、内海の身体に小波のような震えが走る。心の中に嵐が吹き荒れているような、荒波の上に突如放り出されたかのような衝撃だった。
(そうか……だから――)
『お前にとっては聞きたくも無い話かもしれない……それでも、聞いてくれるか?』
土下座した橘川から問われた言葉の裏に潜んでいた真実、それがようやく分かった。
元晴から受けていた数々の事柄も、内海にとっては忘れてしまいたい過去だった。しかしそれ以上に、知りたくなかった真実を突きつけられたのだ。
(言い淀んでいたのも、そのせいだったのか……)
判決を待つ罪人のように、橘川は懺悔の姿勢を保ったまま固く瞳を閉じていた。その表情から、細かく震えを刻む背中から、彼の後悔が伝わってくる気がする。
「言い訳はしない……お前が俺を好きでいてくれることに安心し切って、裏切り行為だとかお前を傷付けるとか……そういうマイナス面を、見ないふりをしていたんだ」
「悦郎……」
「自分に良いように言い訳をしながら、能天気に……相手に対しての愛情は無いとか、割り切った付き合いだったとか、そんな御託を幾ら並べたところで……俺がしでかした最悪な行為を肯定することなんて出来ないって分かってる」
橘川の声も、震えていた。嗚咽を堪えるかのようなか細い声は、これまで内海が聞いた事の無いものだった。
「大事にしたいのも、愛しているのも……智久だけだったのに――あの頃の俺は、そんな単純なことさえ忘れて、お前からの想いを当然のものだなんて、傲慢に受け流してたんだ」
全身に後悔の色を滲ませながら、途切れ途切れに続く言葉。
「こうやってお前に謝るのも、自分が楽になりたいっていう、自己満足に受け取られるんだろうって思ってる。だけど、どうしても、無かったことには出来ないから」
ショックはあった。
橘川から語られた真実は、内海にとって確かに聞きたくも無いことばかりだった。
「すまなかった。お前を守るどころか、俺が一番お前のことを傷付けていたんだ……本当に、ごめん」
部屋の中に沈黙が落ちる。店の喧騒が、微かに聞こえて来るだけの、静かな空間。俯く橘川の背を見つめながら、独白のような懺悔を聞いていた内海の口から、細く長い溜息が吐き出された。
「反省、してるんだよな?」
「っ……勿論……死ぬほど後悔して、山のように反省した……お前に謝りたくても、もうお前は俺の傍にはいなくて――何も出来ない自分に腹が立って仕方なかった」
ポツリと零れ落ちた内海からの問い掛けに、橘川が弾かれたように伏せていた顔を起こす。歪んだ表情の中で、赤くなった瞳が揺れながら内海の姿を映し出していた。
「……気付いてた」
「え?」
「お前に、俺以外の相手がいるんだろうなって…そんな気はしてた」
橘川を見つめる内海の表情に、苦笑が浮かぶ。思っていたよりも落ち着いた声音が出たことには内心驚いているけれど、心のどこかで予想していた分だけ冷静でいられたのかもしれない。
「時々さ、お前の服から女物の香水の匂いがしてたんだ。それと、家で使ってたのとは違うシャンプーの香りもな」
「智久……」
「疑う気持ちはあったけど、信じたくて……悦郎は元々ノーマルだし、問い詰めて別れることになったらって考えたら……お前を問い詰めることも出来なかった」
驚愕に目を瞠る橘川に、内海は苦笑を浮かべたまま淡々とその当時の心境を語った。
そう、気が付いていたのだ。
橘川の心が自分以外の存在に向いていることに。
それを認めてしまうことが悔しくて、捨てられてしまうのではないかという恐怖から、見て見ぬふりを決め込んでいた。
弱い自分が楽な方へ楽な方へと内海の目を向かわせていたのだ。
ぶつかり合うことからも、真実を見ることからも逃げて、挙句の果てに疑心暗鬼に駆られたまま、一番大切なものすら手放す結果になってしまった。
「そう、か……悪かった……何度謝ったところで、過去を取り戻すことが出来ないことも、あの頃には戻れないことも分かってるけど、それでも――ごめんな」
「もういいよ。ショックはショックだったけど、ようやくすっきりした気がする」
沈痛な面持ちで謝罪を繰り返す橘川に、内海は柔らかく微笑んで見せた。
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