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キスからの距離 (34)
しおりを挟む橘川の顔から一瞬笑みが消え去り、それを誤魔化すように再び微笑を浮かべようとするけれど、上手く表情を作ることが出来ずに歪んだものになる。
「智久がいなくなってすぐは、どこか楽観的に構えてた。だけど、お前が仕事も辞めてた事を知って、仕事も何も手に付かなくなった」
「え……でも、今も同じところに勤めてるんだよな?」
「ああ。数日間ゾンビみたいな生活して、これじゃいけないって……お前が戻って来た時に、こんな情けない姿を見せたんじゃ怒られるって、気持ちを入れ替えた。飲みに行くのも控えて、ちゃんと自炊もして――だから仕事だけは順調、肩書きまで付いちまった」
「使う充ても無いから貯金も貯まったぞ」と橘川がほんの少しおどけて見せる。
仕事は真面目に続けていた。心配していた家の事も、何とかやっていたらしいと分かって、内海も少しホッとした。そしてそれと同じく、少しだけ悔しくも思った。
自分がいなくなったところで、橘川は大して困ることも無く、社会人としてごく普通に毎日を過ごせていたのだという事実が、少しだけそんな風に思わせた。
橘川も学生時代には一人暮らしを経験しているのだから、内海が消えたところで不自由なく暮らせるのは当然だろう。なのに何だか、自分は必要の無い存在なのだと言われたような気がしたのだ。
「仕事は順調だったけど、毎日が味気無くて……生きるために食べて、暮らすために働いて。お前と一緒にいた日々が、どれだけ俺にとって掛け替えの無いものだったのか、それを実感するだけの時間だった」
「悦郎――結婚は、してないのか? お前もともとノーマルだったし、女からの人気だってあったし……」
勝手をしたことを謝らなければと。あの頃抱えていた想いを、きちんと口にしなければと思うのに、つい言葉を飲み込んでしまう。
代わりに口を突いて出てくるのは、肯定されれば落ち込むだけの質問ばかりで。
「結婚はしてない。8年っていう時間の中で、お前を忘れた方が良いんだろうって、女と付き合ってみたことが無いとは言わない。だけど、どんな人が相手でも……結局はお前じゃないんだよな」
「え? 俺?」
「智久以外の相手とは、先の人生を考えられない。お前とじゃなきゃ駄目なんだって思い知らされるばっかりで。それからはもう、ずっと独りだよ……お前は? 今、付き合っている相手はいるのか?」
一旦言葉を区切った橘川が、緊張の面持ちで内海を見る。その真剣な表情に、彼の言葉に嘘が無いことを理解した。
「付き合ってる相手は、いない。お前と一緒で……いや、お前より性質が悪いかもしれないけど、俺も、何も無かったとは言えないけどな」
「――そう、か」
橘川が真実を告げていることが分かったからこそ、内海も本当のことを答える。
互いに詳しくは語らないけれど、それだけで悟るものはあったのだろう。橘川の瞳の中に、僅かな時間嫉妬の色が浮かび上がった。それでも橘川はそれ以上何も言わなかった。いや、言えなかったのだろうと内海は思う。
『8年』と口にしてしまえば簡単だけれど、口で言うよりも長い時間が流れているのだ。
何も無かったなんて、お互いに思ってはいなかったし、そんな事を言われても信じる事など出来なかっただろうと思う。
「智久……俺は、お前に謝らなきゃならない事が、2つある」
二人の間の会話が途切れ、視線だけが絡み合う。言葉を探す居心地の悪い空気を断ち切ったのは、ゆっくりと瞬きをした橘川だった。
「謝るって、それは俺の台詞だろう? 黙って悦郎の前から消えて、連絡のひとつも入れないまま、8年だ……悪かった」
「違う、そうじゃないっ」
口火を切られたことで、先に謝罪の言葉を口にしたのは内海からだった。
この後に及んで逃げ腰だったというのに、素直な気持ちがすらりと零れ出たのだ。仕事からも橘川からも逃げ続けてきた、自分自身の心からも逃げていた自分が情けなくて。
「悦郎? ちょ……やめろよっ、何やって――」
「許してくれ智久っ、すまなかった……悪いのは全部、俺だ」
頭を下げた内海の言葉を打ち消すほどの大きな声に目を瞠った次の瞬間、内海の視界から橘川の姿が消えた。呆気に取られる内海の前、気付いた時にはソファの脇で、床に額を擦り付ける勢いで土下座をする男の姿があった。
「何言って…良いから、顔を上げてくれよ」
慌てて立ち上がり、橘川の傍らに膝を付く。躊躇ったのはほんの僅かな時間だけだった。頭を下げ続ける橘川の肩に手を添え、促すように声を掛ける。
「お前にとっては聞きたくも無い話かもしれない……それでも、聞いてくれるか?」
頑なに頭を上げようとしない橘川が、苦しげに内海へと問い掛けて寄越す。記憶の中ではいつも自信に溢れていた橘川のこんな姿は見ていたくなくて、顔を上げてくれるのならと、内海は躊躇いつつも頷きを返した。
「分かった。ちゃんと聞く、聞くから、な?」
「……ありがとう」
ようやく顔を見せてくれた橘川に安堵しながら、先ほどまで座っていたソファへと橘川を座らせると、内海は迷いながらもその隣へと腰を下ろした。
どうしても忘れられなかった男の体温が、服越しにも伝わってきそうな距離。内海が隣に座ったことで、強張っていた橘川の表情が、微かに落ち着きを取り戻したような気がした。
「――あの頃の俺は、最低だったよな……男としてだけじゃなく、人間としても」
何度か唇を震わせて、やっと吐き出された最初の言葉。訝しげに眉を寄せる内海へとちらりと視線を走らせた橘川が、先ほどと同じく膝の上で組んだ手に額を寄せて、懺悔をしているような姿勢を取った。
「お前がいなくなった数日後に、智久が勤めてた会社の社長が、家を訪ねて来たんだ」
「っ、社長が?」
思いも寄らなかった話に驚愕し、思わず橘川の顔を凝視してしまう。
8年前、辞表に同封した手紙通りに実家へ届いた会社からの荷物を、康之に居候させてもらっていた部屋に送ってもらった記憶はある。
社長の字で『新しい君の人生に、輝く未来がある事を祈っている』といった言葉が書き添えられていた。本来ならまだ出るはずの無かった退職金も、僅かながら振り込まれていたけれど、二人で暮らしていたあの部屋を訪ねたという話はひと言も書いていなかった。
「社長の息子って野郎に、その……」
「……社長が、言ってたのか?」
言い難そうに言葉を濁す橘川の態度に、あの日の事を言われているのだと瞬時に悟る。内海が部屋を飛び出す切っ掛けとなった、忌まわしい記憶。
けれどなぜ社長が知っていたのかと疑問が生じる。息子であるあの元晴が、自らの行いを悔いて知らせたとは思えなかったからだ。
そんな内海の疑問が伝わったのだろう。橘川が小さく頷いて、言葉を引き取ってくれる。
「防犯カメラの映像をチェックしたんだそうだ……すまなかったと、土下座して謝ってた」
「防犯カメラ――あれ、動いてたのか」
遠い記憶の片隅、店の数箇所に設置されていたカメラの存在をぼんやりと思い出す。あそこで働いていた従業員の誰もが、カメラが起動しているとは思っていなかったはずだ。
「息子を勘当することが、せめても誠意だと思って欲しいって……お前が帰って来たら伝えてくれって頼まれた」
言葉を選びながら、橘川は社長と交わしたという会話を、思い返しながら語った。
何も知らずにいた内海には驚きが大き過ぎて。だがそれでようやく腑に落ちたこともあった。あの退職金も、社長の祈りを籠めたメッセージも。
「息子は最悪だったけど……社長は、本当に、いい人だったんだ……俺を信頼して経理まで任せてくれた社長を裏切った形になったのが、ずっと心苦しかったんだ」
視線を揺らしながら、「そうか、知られていたのか」と呟きを漏らした内海の声は、どこか呆然とした力の無いものだった。
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