キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (32)

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 聞き慣れない内海の呼び名に困惑する橘川など置いてけぼりのまま、男はポンとひとつ手を打つと、先ほどとは違った種類の飾り気の無い笑顔を向けて寄越す。
「なんだ、それならそうと言ってくれれば良いのに。不審者がうろついてるんじゃないかって、お客さんが怖がってたからさ。ついて来て、案内するよ」
「不審者……助かるよ、何処から入れば良いのか悩んでいたんだ」
「はははっ、確かにホストクラブに男一人じゃ入り難いよねえ。ってかウッチーも約束してんなら迎えに出て来てあげりゃいいのに。裏口から入るにしたって、勝手に入って良いか迷うじゃんね?」
 「俺の名前は北斗」と笑う男は、橘川を伴いながら店へと踵を返す。
 不審者呼ばわりはさすがに傷付くから止めて欲しいと苦笑しつつも、置いて行かれては大変だとばかりに慌てて後を追った橘川は、一歩足を踏み入れた世界の様子に目を丸くした。
「お兄さん名前は?」
「橘川です……すごいね、いつもこんな感じなのか?」
「そろそろ月末が近いからねえ、皆最後の追い込みに入ってるから普段より賑やかかも」
 何でも無いことのように言ってのける北斗に、そういうものなのかと感心してしまう。

 映像や雑誌で目にした事はあったけれど、実際自分の目で見た光景に圧倒されていた。
 そこかしこの席で着飾った女性を相手に盛り上がりを見せるホスト達。テーブルの上に並ぶボトルやシャンパン、ブラックライトに照らされた店内は異世界に迷い込んだ気にさせられる。
 この先に待つ内海との時間に対して緊張していたことすら忘れ、店内の様子に目を奪われながら、橘川は案内されるまま北斗の後ろについて店の奥へと進んだ。
「こっちがバックヤード。そこ真っ直ぐ行くと裏口だから、帰りはそっちから出て」
「ああ、分かった……ありがとう」
 店内の煌びやかな様相と反して、裏側は殺風景な剥き出しの壁があるだけだった。
 ホストクラブに内海が働いているということが現実としていまひとつ受け入れられずにいた橘川も、裏の様子を見てホッとする。表の華やかさとは違った一面を見た事で、仕事は真っ当なものなのだろうと理解したからだ。
「ウッチー? お客さんだよ、橘川さんだって」
『っ…はい、通して良いよ』
 北斗の呼び掛けに、扉の内から内海の声が返ってくる。
 忘れていた緊張がぶり返してくるようで、橘川は小さく息を吸い込みながら、北斗が開けてくれた扉からオーナー室と書かれた部屋の中へと入った。
「ウッチー、何か飲み物持って来る?」
「いや、良いよ。ありがとな、北斗」
 気を利かせた北斗の問い掛けに笑顔で答える内海から、視線を外すことが出来なかった。
 「ごゆっくり」と掛けられた言葉へ、ぎこちなく会釈を返した橘川は、そこでようやく部屋の中に内海の姿しか無いことに気が付いた。
「……今日は、内海さんはいないのか?」
「言ってなかったっけ? 今夜は予定が入ってて……あ、座って」
 促されて応接セットのソファへと腰を下ろしながら、壁際に置かれた小型の冷蔵庫へと向かう内海の後姿をじっと見つめる。
 先日とは違って多少砕けた口調ではあるけれど、先ほどから内海は橘川の瞳を見ようとはしていなかった。逸らされたままの眼差しに、橘川の心にチクリとした痛みが走る。
(……会えなかった時間を思えば、大したことじゃない)
 記憶の中にあった内海の姿より、少し痩せただろうか。そんな事を考えながら内海を目で追っていると、冷蔵庫から取り出した缶コーヒーを手にした内海が対面へと座った。
「悪い、普段打ち合わせとかって外だったり営業前の店の中でやるから、こんなもんしか用意してないんだ」
「いや……ありがとう、もらうよ」
 テーブルの上に置かれた缶は、当時から橘川が好んで飲んでいたメーカーの物だった。そんな些細なことで、痛かった胸の痛みさえも消えて行く。
(――偶然、だよな)
 たまたまだと思いつつも嬉しくて。
 視線の合わない内海の顔を見ようと缶から視線を移せば、その途中、同じ缶を手にした内海の手がほんの微かに震えているように見えた。
「……貸せよ」
「え? あ……あり、がと――」
 内海の手から半ば強引に缶を奪い取った橘川は、プルタブを起こして内海へと返す。
 何気無い遣り取りではあったけれど、それらは内海と橘川が二人で過ごして来た時間を、互いに忘れていない証明のようでもあった。
「……昔もよく、こうして開けてもらったよな」
「ああ、そうだな」
 ポツリと内海が呟きを漏らすのに合わせて、缶の中身をひと口啜る。
 賑やかな店の音が僅かに聞こえて来る他は、互いの息遣いだけが部屋の中に響く。

 電卓やテンキーを打つ指の動きが狂うのを嫌って、内海はいつも橘川からみると深爪だと思うほど、短く爪を切り揃えていた。飲み物は大抵ペットボトルを購入していた内海。爪が短いせいで上手くプルタブを引き起こすことが出来ないのだ。
 それでも飲みたいと思うドリンクが全てペットボトルで販売されているわけではない。そんな時には、プルタブを起こすのに苦労する内海の分の缶も、橘川が開けて渡していた。
 いつの間にかそうなっていた、二人の間での暗黙のルール。
「智久」
「っ、見積もり、持って来たんだろ? もらえるか?」
「あ、ああ……悪い」
 沈黙に耐え兼ねた橘川が身を乗り出そうとした瞬間に、内海から待ったが掛かる。性急過ぎた自身の態度にグッと息を飲み込んで、橘川は冷静さを欠く自分を諌めた。
(仕事、放り出してんじゃねえよ…話は全部、その後だろ)
 変なところで真面目で頑固な内海のことだ。仕事をそっちのけにして話を進めても、聞いてはくれないだろう。そんなことは分かっているのに、目の前に探し続け、求め続けていた彼の姿があることに、どうしても意識が持って行かれそうになってしまう。
「先日拝見した店舗を元に、大まかですが試算を出してみました。床暖房を含めた給湯システムを交えた際のものと、空調のみの見積もりの二種類になります」
「……拝見します」
「正確な設計図を頂いていないので、今回の見積もりはあくまでも参考程度にお考え頂くようにお伝え頂ければ助かります」
「分かりました。オーナーへはそのように伝えておきます……先日頂戴したものとは大分変わりますね」
 ビジネス口調で会話をしながら、そういえば内海が仕事をしている姿を見るのは初めてだと、橘川は新鮮な気持ちで書類へ目を落とす内海を見つめる。
 真剣な表情をしている内海は、当時よりも大人の艶を帯びていて、睫毛を揺らす仕草の中には憂いすら感じさせられた。
「ではこちらはお預かりして、検討の上ご連絡差し上げ……そんなにじろじろ見るなよ」
「っ、ごめん、つい……ああっと、連絡は、いつ頃になりますか? 着工日等に合わせて取り敢えず商品の方も押さえを掛けておきますので」
 書面を追っていた内海の視線が上がれば、自然彼を見つめていた橘川と眼差しが絡み合う。
 慌てたように逸らされてしまった内海からの視線を残念に感じつつ、仄かに眦が赤くなっていることに気付いて、橘川は心の中でいるのかいないのかも分からない神に感謝した。

 番号は変わっていないと告げたにもかかわらず、あの後一度も鳴る事は無かった携帯。
 その事実が、内海にとってはこの再会が喜ばしいものでは無かったと言われているようで、話すら聞いてもらえないという最悪の事態も想定していたのだ。
 けれどここを訪れてからの内海の反応のひとつひとつを思い返せば、まだ自分には謝罪するチャンス位はもらえそうだと、橘川は少しだけ安堵した。
 気がおかしくなりそうなほどの長い時間を待ち続け、やっと再会出来たのだ。その事を思えば、込み上げて来る感情が抑えられなくなりそうだった。


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