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キスからの距離 (31)
しおりを挟む橘川との偶然の再会から数日が過ぎ、月末に向けての歩合集計に忙しくなり始めると、内海も自然と事務所に詰めるようになってくる。
間違いがあってはならない立場での仕事中だというのに、気付けば手が止まってしまう。このままじゃミスをしてしまうと頭を振り、思い切って休憩を取ることにした内海は、コーヒーを片手に応接スペースに置かれたソファに身を沈めた。
頭の中を占めるのは、再会した彼の事ばかり。
あの頃よりも歳を重ねた分見た目は少し変わったけれど、考え事をする時に上下の唇をほんの少し内側に引き込む癖は、昔と同じだった。回す事はしないけれど、人差し指と中指で挟んだペンを、リズムを取るように親指に軽く打ちつける仕草も変わっていなかった。
「悦郎……」
手の中の携帯を弄ってアドレス帳を呼び出す。あれから幾度も機種変更を重ねた携帯は、折りたたみ式だったものからタブレッド型へと様式を変えた。必要最低限の連絡先しか移行しなかったはずなのに、その少ない連絡先の中に残る橘川の名前。
今時メールでの遣り取りなんて企業メールばかりだというのに、その中に橘川からのメールが紛れていないかと探してしまう。着信があれば橘川からもしれないと、一瞬でもどきりとしてしまう。そんな日々を8年、過ごして来た。
連絡手段を断ったのは内海なのだから、そんなことがあるはずもないのに。
「俺、どうしたいんだろう」
会いたい気持ちも、今でも好きな気持ちも嘘じゃない。あの頃のように彼の隣で過ごす時間を取り戻したいとも思う。
けれどやっぱり怖くて。
あの頃橘川の影に見え隠れしていた女性の姿。自分がゲイだということで、橘川にも迷惑を掛けてしまうかもしれない恐怖。襲われ掛けた自分の情けなさ。
それら全てを明らかにすることから逃げ出すことを選んだ自分が、再び橘川とよりを戻せたとしても、またいずれ同じ事を繰り返すんじゃないかと。そう思う自分が辛かった。
「押せば、繋がるのか――」
逡巡しながら見つめるだけの番号。携帯の番号は変わっていないと、橘川は確かに別れ際にそう言っていた。その言葉をどう解釈すればよいのだろうか。
突然の再会に驚いて、懐かしさに話をしたいと思ってくれているだけかもしれない。
8年もの歳月が流れているのだ。左手の指に輝く物はなかったけれど、パートナーだっているだろう。
浮かれ気分で自分に都合の良いように捕らえて連絡をしたが最後、行方をくらますというやり方しか出来なかった自分の行動を責め詰られたら、立ち直れなくなりそうだった。
「っ、びっくり、した……お待たせしました」
『菱和の橘川と言います、ご担当の内海さんをお願いしたいのですが』
突然鳴り出した事務所の固定電話にビクリと身を竦ませた内海は、慌ててデスク上に置かれた電話へと手を伸ばし、そのまま動けなくなってしまう。受話器越しに聞こえて来たのは、今の今まで脳裏に浮かべていたその人だった。
『もしもし?』
「あ……」
『……智久か?』
「……う、ん……俺が、窓口って事になってる」
突然の電話に驚いて言葉に詰まる内海の漏らした僅かな声を、橘川は聞き漏らすことなく捕らえたらしい。少し緊張を孕んだ、それでいてどこか安堵を感じさせる声音が問い掛けて来る。
『電話……ああ、いや……まずは仕事だな。見積もりが仕上がったから、アポイントを取りたいんだけど、今日は無理か?』
「――構わないよ」
連絡を待っていたと言い掛けたのだろうか。内海が言葉を返すよりも先に、橘川に話題を変えられ若干拍子抜けする。
まだ二人きりで向き合うことへの不安は拭えていなかったけれど、夜に【knight】で落ち合う約束を交わす。月末に向けてのドリンク類の補充伝票が、そろそろ上がっているだろうから、店に顔を出すついでにそれらをまとめて持ち帰ろう。
アポイントの時間を決めながらそんなことを考えていた内海は、続いた橘川の言葉への反応を返せなかった。
『終わったら少し、話がしたい……それじゃあ、夜に』
「……あ」
耳に届いた橘川からの言葉を理解した頃には、既に受話器からは無機質な電子音が聞こえて来るだけだった。
「往生際が悪いよな、俺も……」
ずるずると引き延ばしていても、いずれはきちんと向き合わなければならないのだ。
橘川にしてみても、過去を清算しないままでは居心地も悪いだろう。仕事相手になるかもしれないと思えば尚更、割り切るだけのものが欲しいのかもしれない。
切れた受話器を元の場所へと戻した内海は、自分自身へと言い聞かせる。何を言われても毅然としていようと。
人が行き交う繁華街……とはいえ、いわゆる風俗街と呼ばれる一角。
普通の飲み屋もあることはあるけれど、目に付く看板の多くは露出過多なお姉ちゃんの映る看板や、煌びやかなネオンが大部分を占めている。
「……ここ、か?」
打ち合わせの際に貰った名刺の裏面に書かれている住所の中、アポイント先に提示されたのは【knight】という店だった。店の入口を目にして、橘川は困惑気に眉を寄せる。
「分かっちゃいたけど、ここってやっぱ、ホストクラブか……」
数日前の初顔合わせの際に、きっちりとスーツを着込んでいた内海の隣、オーナーだと名乗った内海康之の姿が思い出された。
ラフな装いに見える格好だったけれど、身に付けていた品はどれも高級そうな清潔感が窺えた。そんな装いを気負いもせずに着こなし、気取った仕草で内海を引き寄せていたシーンまで思い出してしまって。
自分へ向けられた挑発的な視線の意味も分からないまま、ただ嫉妬に駆られた。
手を伸ばせば届く距離にいる彼に触れることが出来ずにいた自分。その前で親密そうな態度を取られて、一瞬仕事相手である事も忘れてカッとしてしまった。
店の看板から足元へと視線を移した橘川は小さく舌を打ち鳴らす。
でかでかと飾られる男性の写真、店へと入って行く女性客の姿に、場違いな感が否めない。
「あいつ、まさかオーナーに囲われてるとか……いや、まさかな」
頭に浮かんだ考えを自嘲しながら笑い飛ばす。
自分と対等でありたいからと、アルバイトをしてでも生活に掛かる費用は折半すると言って聞かなかった彼が、そんな生活を過ごしているはずはないと懸念を追い払った。
(同じ苗字、だったな……)
現在の日本において、男性同士のカップルの場合、籍を入れるとなれば養子縁組を行なうしか手段は無い。その場合必然的に年長者の籍に入る事になる。
見た目はかなり若く見えたオーナーではあったけれど、自分や内海よりも年下ということは考えられなかった。そう思えば、兄弟や親戚と考える方が妥当だろうと自分を諌めた。
あの日店の入口へと目を向けた時、橘川は自分がまだ今朝方見ていた夢の中にいるのだろうかと思った。瞬きをしたら目の前から消えてしまいそうで、それが怖くて暫らくの間瞬きすらも出来ずにいた。
(智久――)
緊張した面持ちで斜め向かいの席へと腰を下ろした彼を見て、ようやく現実なのだと実感出来た。彼の消息も掴めないまま過ごして来た橘川の錆び付いたセピア色の時間が、再び針を刻み出した瞬間だった。
「どっから入りゃ良いんだよ」
電池を入れ直したばかりの古びた時計で時間を確認すれば、約束した時間まであと少しとなっていた。それでも、この入口から中へと入り込むには躊躇いがあった。
橘川の人生にはこれまで縁も無かった場所だ。
内海にしたってそうだろうと思う。
経理を担当していると言っていた事を思えば、ホストとして接客に付く事は無いのだろうけれど、橘川の中にある内海のイメージと夜の街が結び付かない。
「……電話、してみた方が良いのか?」
眉を寄せながら顔を上げ、再び店の看板へと視線を向けた時だった。
「もっしもーし、お兄さん、うちの店に用事?」
「え……ああ、えっと、内海さん……内海智久さんと、約束しているんだが」
店の中から出て来た一人の男が、にっこりと笑顔を浮かべながら橘川の元へと近付いて来る。少し長めの茶髪にちゃらちゃらとした装飾品、細身の洒落たスーツを身に付けた男性の後ろ、飾られた大きな写真の中で笑顔を浮かべる同じ顔が目に入った。
写真と似通った人目を惹き付けるような笑顔を浮かべている割には、その瞳は橘川を隙無く観察している風で居心地が悪い。
それでも伊達に営業畑で十年も鍛えられて来たわけじゃないと、橘川も返す瞳に力を籠めて、目の前に立つ男の瞳を見つめ返した。
「内海……って、ああ、ウッチーのことか! 何だ、お兄さんウッチーの知り合いなの?」
「う、ウッチー?」
得体の知れない迫力さえ感じさせていた男の瞳が、内海の名前を耳にした途端に和らいだものへと変わった。
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