キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (25)

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 耳に当てた携帯から聞こえて来る言葉を理解することが、出来なかった。

「え……今、何て……?」
『ですから、社長のところに内海からの退職願が届いたんですよ。確認を取ろうにも携帯も繋がらなくて――あの、聞こえてますか?』
「あ、はい……そうですか……ご迷惑お掛けしてすみません」

 内海が消えた翌朝、橘川は彼の勤めていた会社に電話を入れた。その際は出勤していないという答えが返って来ただけであった。
 期待していたものとは違う答えに愕然としながらも、何か連絡があれば橘川にも連絡をもらえるように頼み込んで電話を切った。そうして迎えた週明け、智久が仕事を辞めた旨の連絡に、橘川は今度こそ言葉を失った。
 二~三日の間は、ひょっこり帰って来るかもしれないと思っていた。帰ってきたら、心配掛けやがってと怒ってやろうと思っていた。けれど内海が戻って来る気配は一向に無いまま週末は過ぎてしまった。
 部屋から荷物の全てが無くなっていた訳ではないことも、橘川に事実を受け入れることを躊躇わせていた要因のひとつだった。残されている荷物の多さを見れば、内海が本気で出て行ったとは考えたくは無かったし、考えられなかったのだ。

 そんな橘川に、現実を突き付ける電話越しの声は無情だった。
『そういうわけですので、こちらも困っておりまして……連絡がありましたら、一度会社宛に電話を入れるようにとお伝え頂けますか?』
「分かりました……」
 問い合わせた際に同居をしていると告げたせいなのか、電話口の若い女性は軽く厭味めいたことも口にしていた気がするけど、呆然とする橘川の耳には届かなかった。
 形式的な礼を述べて電話を切った橘川は、その後の事をよく覚えていない。気付けば真っ暗なままの部屋に一人、静かな空間の片隅に立ち尽くしていた。


「……本当に、出て行ったのか? 智久……」
 現実味の無い事実だけが、その場に残されていた。
 自分が何かしたのだろうかと、混乱しながらも必死に考えた。
出張に出る日の朝には、抱き締めてキスをしてくれと強請ってくれた恋人が、帰宅したらいなくなっていたなんて、どうしても理解出来なくて。
「キス……あ、れ……そういえば、俺達、どの位――あいつ、あの時どんな顔してた?」
 あの小さな我儘を叶えてやらなかったことが原因なのかと眉を寄せた時に、ふいに気付いた。内海と同じ部屋に寝起きしていながら、このところまともに顔を見た覚えが無いということに。
 まして、最後に肌を合わせたのは何ヶ月も前だということに、初めて気が付いた。キスですらも、交わした日が思い出せないほど過去になっていることに愕然とした。
「俺のせいだ……」
 惚れていた。大事にしようと、思っていた。
 振り向いて欲しくて、必死になった相手。

 それなのに自分は、一緒にいる毎日があまりにも普通になり過ぎていて、内海に対して甘えてばかりいたのではないだろうか。
 家事も任せ切り、休みが合わないという理由で、顔を見て話すことも最近では面倒がってしていなかった。一緒に暮らし始めた頃には、合わない時間でも何とか合わせて、二人で過ごす時間を取ろうと努力していたというのに。
 そして後悔は、それだけでは無かった。
「……ばれてたのかも、しれないな……」
 ただでさえ人付き合いの多い業界にいて、取引業者の社長のキャバクラ好きに付き合わされる日々が、昨年から続いていた。
 お気に入りだという店に連れて行かれるうちに、店の女の子の一人が、自分に対して好意を抱いていることに気が付いた。

 もともとセクシャリティ的にはゲイではなかった橘川だ。
 内海と出会ってからずっと、男の身体しか抱いてこなかった橘川にとって、柔らかで甘い匂いのする女の子がやけに魅力的に見えた。

『遊びで良いんです、私からは絶対お電話もメールもしませんから…一回だけでも』

 恋人がいるからと牽制していた橘川に対して、その子の甘え方はツボを突いて来たのだ。
 恋人にばれるような真似は決してしない。この店に足を運んでくれた時に、アフターの予定が入っていない時だけで良い。橘川の連絡先を知りたいとも言わないからと、上目遣いに見つめられ、絡ませられた腕に豊満な胸を寄せられて、悪い虫が騒いでしまった。
 その子の言葉を全て鵜呑みにしたわけではないけれど、ばれたとしても内海なら許してくれると思ってしまった。甘い考えを抱いてしまった。
 最初こそ橘川からのアプローチで始まった関係ではあっても、内海も自分を好きでいてくれたということは、後から聞いて知っていた。
 そして今ではまるで夫婦のように共に暮らし、自分の方が彼から惚れられていると、そんな驕りを抱いていたのだ。もしも内海と喧嘩になっても、宥めれば済む話だと、どこかでそんな風に。

 そういった驕りも手伝って、一度だけ……そう思って関係を持った。
 柔らかな身体も、濡れる姿態も、内海を抱く時とは違った快感を前に、結局は数度身体を重ねてしまっていた。
 約束通り彼女からの連絡は一切無かったし、帰宅する頃には内海は大抵寝ている時間だったから、ばれる筈が無いと高を括っていたのだ。
 罪悪感から内海と顔を合わせて会話をする時間も徐々に減っていき、今となってはキスを交わした記憶すら遠い過去になっている始末だ。
 内海は自分だけを見ていてくれたというのに、自分の仕出かしたことを今更ながら後悔する。帰って来てくれたなら、二度とこんな過ちは犯さない。
 けれど、そう誓いたくても、謝りたくても、肝心な相手が目の前にはいない。

「……智久……」

 打ちのめされるまま夜が過ぎ朝日が昇っても、橘川は座り込んだ場所から動けずにいた。
 内海の実家にも連絡を入れてみたけれど、帰って来てはいないといわれた。本当に帰っていないのか、内海が橘川からの連絡を取り次がないようにと頼んでいるのかは定かじゃなかったけれど、多分前者だろうと思う。
 会社へ行く気にもなれず、ぼんやりとしながらお昼を迎えた頃だった。部屋のチャイムが、来訪を知らす音を奏でる。
「っ……はいっ!」
 もしかしたら帰って来たのかもしれない。
 足を縺れさせながらインターフォンへと飛び付いた橘川は、モニターに映る知らない男性の姿に眉を寄せた。

『ギフトショップ白木の白木と申します。突然申し訳ありません、内海くんはご在宅でしょうか?』
「……いえ、あ、今開けますので、お待ち下さい」
 モニターに映っていたのは、橘川の父親と大差無さそうな歳の、白髪頭の男性だった。
 神妙な表情で立つ男の姿に首を捻りつつも、名前からして多分内海の勤める会社の社長だろうと見当を付け、慌ただしく玄関へと向かう。
「えっと、内海は出てるんですが……取り敢えず、中にどうぞ」
「――すみません、では、お邪魔させて頂きます」
 社長が直々に家まで訪れるだなんて、橘川の勤める会社であれば考えられない事だ。けれど内海から社長も含め数名で回している小さな会社だと聞いていただけに、何かあれば社長が動く会社なのかもしれないと軽い気持ちで中へと通した。

 リビング代わりに使用しているスペースに通し、お湯を沸かしてコーヒーを淹れる。
 インスタントではあるけれど、この際我慢してもらう。
 台所は殆ど内海に任せっぱなしになっていたけれど、それでも橘川にも分かりやすく整理されているその場所に、内海の気配が残っている気がして。橘川にはどうしても、内海が本当に家を出て行ったのだとは思いたくなかった。



「お待たせしました……どうぞ」
「ああ……申し訳ないです」
 人の良さそうな顔をした男性と対峙すれば、モニター越しに見た時以上に、憔悴した顔付きをしている事に気付く。
(まあ……俺も似たようなもんか)
 ぼんやりとしたまま朝を迎え、さすがにいつまでもスーツでいるわけにはいかないと、服を部屋着に着替えたところまでは覚えている。
 髭も剃らないままだった。一睡も出来ずにいた自分の顔も、きっと疲れきって見えているのだろうと、内心で自嘲しながらコーヒーを啜った。
「あの、内海から連絡があったんでしょうか? 昨日電話した時に、退職届が届いたと聞いたんですが……」
 先に口を開いたのは橘川だった。


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