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キスからの距離 (15)
しおりを挟む普通であれば怒っても良い状況なのだろうけれど、それすらもしてはいけないと思っていた。
ノンケだった恋人が、こうして自分と暮らす道を選択してくれた。そんな負い目があるせいか、橘川との関係に対してどこか一線を引いていた自分に対し、橘川は気まぐれや好奇心などではなく、内海を心から愛しているのだと信じ込ませるかのように、情熱的に何度も抱き合って来てくれた。
橘川と共に過ごした数年間は、内海にとって宝物のような幸せな時間だったのだ。
付き合い始めた当初はいつまで一緒にいられるのだろうと、そんな事ばかり気になっていた。いつ別れを告げられても「幸せだった、ありがとう」と言える自分でいようと思っていたはずなのに、どんどん欲が湧いてきたのだ。
この恋を手放したくはない。
この先も橘川と一緒にいたい。
彼を、愛している。
そんな想いが溢れるほどに育ってしまっていたから、橘川から嫌われるのが怖くて、それ以上話を続けることは出来なかったのだ。
「また、キス……しそびれたな」
橘川の背中が玄関から消えれば、内海の顔には悲しみを乗せた苦笑いが浮かぶ。
そうして気付く、最近の触れ合いの少なさ。
互いに忙しいせいもあるのだろうけれど、ひとつのベッドで寝起きしているはずなのに、もう数週間は触れ合う行為もしていなかった。それどころか、キスを最後に交わしたのがいつなのか、それすら思い出せないほどになっていた。
橘川に悩みを打ち明けることすら出来ないまま、時間だけが無情に過ぎていく。一度振り絞った勇気をあっさりと砕かれた内海には、再び話を聞いてもらおうと決心をするのは難しかった。
季節は徐々に春の香りを運んで来ているというのに、内海には春を喜ぶ余裕も無いまま、決算期を迎えた仕事に忙殺される日々。
この月ばかりはどうにも身動きが取れない内海の分まで、商品の納品の殆どは元晴が一人でこなしていた。それでも届いた品物を検品し、それに加えて経理業務までとなれば時間は幾らあっても足りない位だった。
唯一救いだったのは、内海の前に経理関係を担当していた今はパートの女性と、顔を突き合わせて教わりながらの決算処理だったということだろう。
もちろんパートとしての勤務だけに、上がる時間きっちりに帰って行くし、教えることを目的としている為か手伝ってはくれない。常に傍らにいて、疑問点や不明点が出て来た時にだけ手を貸してくれるという感じではあったけれど、彼女が傍にいる限り元晴も迂闊なことは口にしなかった。
まして翌日までの宿題めいた処理を山のように置いていかれる状態だけに、女性が帰った後もあの日のような妙な雰囲気に持ち込めるほど、内海に余裕が無いことが感じ取れたのだろう。
元晴が声を掛けたがっている様子は伝わって来ていたけれど、表面上は何事も無いまま穏やかに過ごせていた。
「うん、オッケーじゃないかな? 今日の処理が終わったら、社長に決済もらって終了ね。お疲れさま」
「マジッすか……良かった……」
「何へばってんのよ、若いんだからシャッキっとしなさい!」
「はぁ……」
三月も最終日を向かえ、これまで準備してきたもろもろに、本日分のデータを加えれば決算も無事に終わる。このところ最後の追い込みが続き、内海にしては帰宅も遅い時間となっていた。とはいっても、相変わらず橘川の帰りの方が大分遅いのだけれど。
(家事も溜まってたよなあ……大物も洗濯したいし、掃除も適当に済ませてたし)
ようやく肩の荷が下りたとホッとしながら、誰もいなくなった事務所で最後のデータ入力を終える。メール添付で社長へ送信した他に、事務所での確認用にプリントアウトした書類も全て揃えた。
「今日はもう、弁当買って帰ろう……」
パソコンの電源も落とし、充足感と疲労とでぐったりしながら椅子に凭れ掛かる内海の耳に、事務所へと続く裏口のドアの開閉音が聞こえて来た。
「……っ」
「よう、お疲れさん」
「……お疲れさまです。忘れ物ですか?」
「んーまあ、そんな感じ?」
嫌な予感を抱えながら視線を向ければ、扉から姿を現したのは予想通り元晴だった。勘弁してくれと内心で舌を打つ。疲れ切った精神状態で彼の相手をしたくはない。
「ああ、じゃあ俺、帰るんで……戸締りお願いしま――」
にやにやとした笑みを浮かべながら近付いて来る元晴から逃げようと、内海が立ち上がった時だった。
「仕事終わったんだろ? 最近お前忙しそうだったから、寂しかったんだぜ? 少しくらい付き合えよ」
「……何すか、この体勢……近いんですけど」
元晴に背を向けたのは失敗だった。机に両手を付き、その腕の中に内海を閉じ込めるような格好で、背後から元晴の声が掛かる。
密着こそしていないものの、僅か数センチの距離から耳元に掛かる煙草臭い息と、背中に微妙に感じる生温い体温が気持ち悪い。
「どいて下さいよ、俺、帰りたいんで」
不快な気持ちから掠れそうになる声を堪え、内海は意識して突き放すようなキツイ態度を取った。
元晴の腕の囲いから逃れようと身を捩る内海に、彼は僅かにあった隙間さえ埋めるように身体を寄せてくる。
「お前さあ、ゲイなんだろ?」
「っ、な…何言って……」
密着する男を突き放しても良いものかと、彼が上司であるという思いから躊躇いを捨て切れずにいた内海は、囁きに緊張を走らせた。そんな単語が元晴の口から出てくるとは予想もしていなかっただけに、返す言葉に一瞬の遅れが生じる。
「知ってんだよ。この目で見たし?」
「――見た?」
動きを止めた内海に対し、元晴が含んだ笑いと共に追い討ちを掛けてくる。
「見たって……何を、見たって言うんですか? 見間違いでしょ? 俺は別にそんなんじゃ――」
「男と一緒にホテルから出て来たのに?」
「ホ……はあ?」
紡がれた台詞に必死で記憶を辿る。
橘川と付き合い出してもう数年の月日が流れているけれど、二人の付き合いに関しては注意を払ってきたつもりだった。
人目のある場所での密着は勿論、ホテルにだって行ったことは無い。学生時代は互いのアパートがあったし、卒業後は一緒に住んでいるのだから、そんな場所に行く必要も無かった。
人目の無いところでならば、外でも多少の触れ合いもあったかもしれないけれど、その際も周囲には気を配っていたはずだった。
まだまだマイノリティに対する視線の厳しい日本において、少しでも平穏に、下手な綻びが出ないようにと気を遣ったのは、橘川との関係が大切だったからこそだ。
「やっぱり見間違いですって、俺そんなの記憶に無いですから」
「四、五年前のことだからなあ……俺もまさかと思ってたんだけど」
「四、五年前――」
絶対に有り得ないとほんの少し気を抜いた内海に、元晴から続けられたのは意外な言葉だった。
「結婚前だからその位は前だな。俺は実家暮らしだったし、飲んだ後に良い雰囲気になりゃ当然行く場所は決まってんだろ? 入り口で男同士が出てきた時にはビックリしたけど」
四、五年前といえば、橘川との友人関係を壊したくなくて、それでも好きになっていく想いに苦しんで、身体の熱を持て余していた頃に違いなかった。
行きつけのバーに足を運び、気の合う相手に巡り会えた時には、そういう場所を利用したこともあった。
男同士が断られるようなホテルではなかったけれど、だからといってゲイカップルだけを受け入れているホテルではないだけに、時折男女のカップルと擦れ違う事もあったような気がする。
(まさか……)
内海が知らないだけかもしれないけれど、彼が男もいけるという話は聞いた事がない。元晴には奥さんもいるし、可愛い盛りの子供もいる。そればかりか奥さんのお腹には、確か二人目の赤ちゃんがいるはずだ。
ゲイでは無いとするならば、擦れ違ったことのある人達の中に元晴もいたという事なのだろうか。
それともやっぱり元晴はバイセクシャルで、男女ともに性的欲求を抱ける人なのだろうか。
気に掛けるべきはそこじゃないとは思いつつ、混乱した頭の中ではどうでも良いことばかりが駆け巡る。
「お前が入社してきて、どっかで見たことがあると思って考えたんだよ。で、思い当たったのがその時のことでさあ……」
「俺じゃないと思います、けど――」
「いや、間違いないな。何度か探ってみたけど、お前の周りにゃ女の影も無いしよ。男同士なんて見たの初めてだったから、記憶にバッチリ残ってんだ」
首筋に寄席られた鼻先が、内海の匂いを嗅いでいる気配がした。
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