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キスからの距離 (12)
しおりを挟む愛する人に話を聞いてもらって、気のせいだと笑い飛ばしてもらいたかった。実際にはまだ何か実害があったわけではないし、寄せられる視線にしても、内海の自意識過剰が感じさせるものかもしれないのだ。
橘川にひとこと気にするなと言ってもらえれば、考えすぎだと諌めてもらえれば、今抱えている不安な感情も消えるだろう。
「っ……ビビッた……メールか」
思っていたより考え込んでいた時間は長かったらしい。
リビングのローテーブルの上に置きっ放しにしていた携帯が、静かな空気を打ち破った。鳴り響くメールの着信を告げる音に我に返った内海は、くつくつと煮え滾っていた鍋にようやく気付き、慌ててコンロの火を止めた。
「……今日も遅いのか」
携帯の画面を確認した内海が、エプロンも着けたままの格好でソファへと倒れ込む。こんな文面も、もう幾度目にしただろうか。
『遅くなる。夕飯は無くても構わない』
知らずに零れ落ちる溜息とは裏腹に、内海は明るく返信を返す。
『分かった。あんまり無理するなよ? 早く老け込んじまうぞ! 今夜はシチュー作っちゃったし、帰って来て腹減ってたら温め直して食って。俺は先に寝てるかもしれないけど、寝てたら起こしていいからな』
短い橘川からのメールに対して、長過ぎる返信だろうかと悩みつつ、まあ良いかと送信ボタンを押す。暫らくその体勢のまま携帯を眺めてみるけれど、内海の返信に対する橘川からの再びのメールは届かない。
「――肉、冷凍にしとくか……」
しんと静まったままの部屋に耐え切れず、内海は手を伸ばしてテレビを点ける。途端に画面から響く明るいお笑い番組の声に、少しだけホッとした気分になりながら立ち上がった。
熱々の方が食べた時に美味いだろうと、鶏肉はまだ火を通していなかった。サラダもシチューの煮込みが終わってから作ろうと、材料はそのままの状態で残されている。
本当のことを言えば、もしかしたらこうなるかもしれないという予感があったから、シチュー以外の料理には手を付けていなかった。
そう、予感があったのだ。
今日のようなメールが届くのは、今日が初めての事では無い。
夏の終わり頃から徐々に届き始めた帰宅が遅い旨を告げる文面に、最初の頃は忙しくて大変だなと素直にそう思っていた。けれど最近頻繁になってきた同様のメール文が、少しずつ内海の心に影を落とし始めていた。
「ちぇっ、折角今日はシチューなのに。俺一人で食っちまうからなっ」
読んだ瞬間に食欲などどこかに行ってしまったけれど、明日も仕事があることを思えば少しでも何か口にした方がいいだろうと、内海はわざとらしく声を上げる。
忙しいのは本当なのだろう。実際朝も疲れが抜け切らない顔をして起きてくる。たまに休みが重なっても、ダラダラとしたまま一日が終わる事も多くなった。
「――それだけじゃないかも、しれないけど」
自嘲気味に笑いながらシチューを頬張れば、仄かな甘さが口に広がる。こんなに美味く出来たのに、出来立てを食べられないなんて可哀想にと嘯きながら、内海は機械的に手を動かし器を空にした。
「会う時間も無いんじゃ、相談どころの話じゃないか……」
視線を向けたテーブルの隅に置いたままの携帯に、橘川からの返事が来る事はないままだった。
結局橘川が帰って来たのは、終電も無くなったのではないかという時間だった。取引業者の人との宴席が盛り上がり過ぎてとは言っていたけれど、それも彼が言った言葉を信じればであって、本当かどうかは分からない。
起きて待っていようと思っていた内海だったけれど、眠気に抗うことは出来ず、一人先にベッドへと入ったところまでは覚えている。目覚めた時には既に、背後から橘川に抱きかかえられていた。
(大して酒の匂いもしないのに、な――)
内海よりも酒には強い橘川だから、飲むとなればそれ相応の量は飲んだはずなのにと、橘川の言い訳を聞きながら内海はただ笑って見せた。
「あっ……と、もう出ないと。行って来る」
「行ってらっしゃい」
橘川の態度がどこか余所余所しく感じるのは、内海の中に疑いの芽が育っているからなのだろうか。
昨夜のシチューを温め直したものを大急ぎで口に入れた橘川が、時計を見て慌てて玄関へと向かう。行って来ると頭を軽く撫で付けられはしたものの、以前ならば欠かさず交わしていたキスは無いままだ。
「……気のせいだよ、な……ちゃんとセックスだってしてるし」
目の前で閉じられた玄関扉をぼんやりと見つめながら、内海は記憶を辿る。
このところ帰りの遅い日が多い橘川だけれど、彼との肉体的な関係が丸きり無くなったわけではない。互いの休みが重なった日の前夜には、以前と変わらずに愛を確認し合う行為もある。
「俺の体調を考えてくれてんだ。付き合い立てってわけでもないんだし……きっとそうだよ……さぁて、洗濯しちゃおう!」
彼と暮らし始めた当初は、時間さえあれば甘い時間を過ごしていた。それだけに、受け入れる側の内海とすれば、やはり大変なこともそれなりに多かったのだ。
痛む身体を騙しながら仕事をするのは辛さもあったし、そのことで橘川を詰ったこともあった。それでも結局は宥め梳かされて、再び事に及んでしまう事も度々あったのだけれど。
自分に言い聞かせるように言葉を発した内海は、悪い予感を振り切るように頭を振った。共に生きようと言ってくれた恋人を信じられなくてどうするのだと、繰り返し呟きながら。
「あとどの位だ?」
「一往復ずつすれば終わると思います」
プライベートがどうであれ、仕事は待ってくれない。
昨日大量に準備した荷物をぎっしりとバンに積み込み、まずは婚礼ギフトの納品に出向く。忙しそうに動き回るホテルの社員達に混じりながら、内海も数回に渡って会場と車との往復をこなした。
冬も間近に迫り、冷たい風を肌で感じる季節になっていたけれど、体力仕事で汗を掻けばそれも気持ちよく感じる。
「お疲れさん、ほら」
「あ、元晴さんも、お疲れ様でした」
無事に納めも終わり、車に凭れ掛かるようにして空を仰いでいた内海の前に、コーヒーの缶が差し出された。
「営業の澤田さんにもらった――ってか、ワイロだな」
「ワイロ?」
「トラックの手配ミスがあったらしいんだ。荷物を引き取って来て欲しいって頼まれた」
「え……今からですか?」
「婚礼自体は明日の分だからな。ただ今日中に会場を作るから、荷は必要なんだと」
促されてバンに乗り込みながら告げられた言葉に軽く眩暈を覚える。
内海たちの会社が任されるギフト品の他にも、チャーターで届けられる引き出物も多くある。今回は偶然にも、集積所となる倉庫が内海たちの利用している場所と同じだったらしい。
荷物はその場で止まったままなのだと、内海も顔馴染みの営業マンから頭を下げられたというのだ。
「もちろんその分の料金は頂く事で話はつけた」
「はあ……そうですか」
内海が気に掛けているのは、別に代金のことなどでは無かった。
やっと気詰まりな視線から解放されると思っていた分、更なる時間を二人きりで過ごさなくてはならないということに溜息が漏れそうだったのだ。
もちろん社会人として表情に出す事はしなかったけれど、車内での会話が途切れがちになるのは仕方の無いことだろう。
「疲れたのか?」
「ああ、いや、大丈夫です」
カーラジオの掛かる中、口を開いたのは元晴だった。
飲み掛けの缶コーヒーを手中で弄んでいた内海は、掛けられた声に慌てて愛想笑いを浮かべて見せた。
「何だ。元気無いから、てっきり昨夜も恋人と盛り上がったのかと思ったら」
「ははは……何言ってんですか」
明け透けな物言いに内心で舌を出しながら否定した内海だったけれど、続いた言葉には瞬時に言葉を返すことが出来なかった。
「半年くらい前まではしょっ中だるそうにしてたろ? チラチラ見えてたぞ、キスマーク」
「ぇ……」
「妙な色気振り撒いてて、お前が男なのは分かってんのに、お前が相手ならイケルかも? とか思ったもんだよ」
「……またぁ、冗談は止めて下さい」
「いやマジで。随分積極的な彼女だなって羨ましかったんだけど――」
浮かべた作り笑いが引き攣る。口元をニヤニヤさせながらそんな事を言われても、気味が悪いばかりだ。
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