キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (9)

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 衝動的に部屋を出て来たは良いものの、職を失った内海にはアパートひとつ借りるのも大変なことだった。当面はホテル住まいをしながら職を探そうと思っていた内海だったけれど、住む場所が決まっていない状態では履歴書すら書くことが難しい。堂々巡りで埒が明かなかった。
 実家に戻る事も考えなかったわけではないけれど、どうしても、橘川との想い出の詰まったこの場所を離れられなくて。自ら彼の元を去って来たというのに何て女々しいのだろうと自嘲しながら、それでもこの街に留まることしか考えられなかったのだ。

「――まだ忘れられないのか?」
「っ、ヤだな……何言ってんの康兄……集中集中っ」
「まあ、お前が何も言いたくないなら聞かねえけど」
 内海が初めて自分の悩みを打ち明けた十代の頃と変わらず、康之は今も内海の中に深くは切り込まず、外側からやんわりと見守ってくれる。その優しさに甘えている自覚はあるけれど、自分を心配してくれる存在があると思えるだけで、内海はかなり支えられていた。
「もう8年経つのか。まさかお前と夜の街で再会するなんて思ってもいなかったな」
「……自分があの店紹介したくせに」
 苦笑を浮かべる康之に内海が肩を竦めて見せれば、康之は「まあな」と答え、立ち上げたパソコン画面に意識を向けてしまった。
 内海もまた手元のノートパソコンへと再び向き合いながら、康之に気付かれないようにそっと溜息を漏らした。



 あの日、仕事も住む場所もなかなか決まらず、かといって橘川の元へと帰れるはずもなかった内海は、橘川と付き合うようになってから遠退いていた店へと足を運んだ。
 安いビジネスホテルの狭い部屋の中で、一人悶々と塞ぎ込んでしまう夜に耐えられなくなったのだ。
 まだ橘川以外の男に抱かれようとは思えなかったけれど、酒を飲んで誰かと会話を交わすだけでも、少しは気が紛れるような気がした。

 橘川と付き合い始めてからの数年訪れていなかった街は、所々店構えが変わっていても、けれど以前のままの雰囲気でもって内海を迎えてくれた。
「あらトモ! 随分ご無沙汰だったじゃない、元気にしてたの?」
 少しの緊張を携えながら行きつけだったゲイバーの扉を開けば、カウンター越しに変わらないママの笑顔が内海を出迎えてくれた。
「へへ、久し振り」
「ちょっと何よ、覇気の無い顔しちゃって!」
「色々あって傷心なの、ママ慰めてくれる?」
「――仕方ないわねえ、最初の一杯だけ奢ってあげる」
 懐かしい顔が自分を心配してくれる様子に、堪えていたものが込み上げて来る。
 わざとらしくおちゃらけた返答を返した内海を僅かの間見つめていたママが、苦笑を浮かべてカウンターの隅へと呼び寄せてくれた。
 橘川の元を離れ、住む場所も職も失くしてしまったけれど、こうやって自分を気に掛けてくれる人もいるのだということに救われる気がした。
(悦郎……心配してるかな――――)
 久々に顔を出した智久に、以前からの顔見知りが何人か声を掛けて来たけれど、愛想笑いで適度に相槌を交わしながらも頭を占めるのは残してきた橘川の事ばかりだった。
「何があったかは聞かないけど、恋を忘れるなら新しい恋をするのが一番の特効薬よ? 使い古された言葉だけどね」
「ママ……うん、そうかも」
 ウィンクつきのそんな言葉を掛けられて、内海は寂しげに微笑を浮かべた。
 新しい恋なんて、もう出来そうに無いと思うから。ひとつの恋にケジメをつける事もせずに逃げ出してきた自分には、そんな資格も無いだろうと。
「ありがとママ、今日は帰る。また来るね」
 一杯のカクテルをゆっくり味わいながら飲み干して、内海はカウンターのスツールから腰を上げた。
「あらもう? 奢りの一杯で帰っちゃうなんて失礼な子」
「そう言わないでよ、俺今無職なんだ」
「それじゃあ無理強い出来ないわね。ちゃんと稼ぐようになったらまたいらっしゃい」
「あはは、そうする。その時は売上げに貢献するからさ」
「期待しないで待ってるわ」
 狭いホテルの一室に籠もって、一人鬱々としていた気分が少し和らいだように思う。ママなりの激励の言葉を受け取って、店から出た時だった。
「何だよトモ、久々に来たのにもう帰るのか?」
「ああ、またな」
「金に困ってるなら、久々にどう? 少しくらい融通してやるよ?」
「……そういう気分じゃない」
「良いじゃないか、知らない仲でも無いんだし……お前とは相性良かったし」
 店から出る内海に気付いた顔見知りの一人が、数歩進んだ先で内海の前に立ちはだかった。

 以前一度だけ、ベッドを共にしたことのある相手だ。自分勝手なセックスをして一人盛り上がって終わるような、最低な一夜だった事を思い出す。
 下卑た笑顔で腰へと手を回してこようとする男に、内海は内心で嘆息した。
(俺にはアンタとのセックスは最悪だったよ)
 喉元まで出掛かった言葉を飲み下しながら、どうやって断ろうかと逡巡する。
 行きつけのバーの目と鼻の先だ。万が一騒ぎになってしまって、あの店迷惑をかけてしまったらと思うと、内海には無碍にその手を振り払うことも出来なかった。
 バーに通うのは比較的紳士的な連中が多いけれど、中にはこういう勘違いしたやつもいないわけではない。それを見抜けず関係を持ってしまった過去の自分に舌を打ち鳴らしたくなる。
「俺のもんに手出さないでくれる?」
「あ? ってぇ! 痛ぇって、離せよ!」
「え……あっ――」
「何だよ、相手いるのかよ……じゃあな、トモ。オレ修羅場はごめんなんだ」
 穏便にこの場を切り抜けるにはどうしたら良いのかと、悩む内海の腰に回されていた不快な腕の感触が消えると同時に、聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
 振り向けばいかにも水商売風の格好をした男性が、男の腕を捻り上げながらにこやかに微笑んでいた。
「あらら、逃げちゃった」
「そりゃ逃げるでしょ、目が笑ってなかったもん」
 捻り上げられた腕を擦りながら逃げて行く男の後姿を目で追いながら、着飾った男性が面白そうに片眉を上げる。表情に見合った声音で楽しそうに告げる言葉に、内海は苦笑で応えた。
「余計な世話だったか?」
「――ううん、助かった……ありがとう、康兄」
 内海の言葉に、本名で呼ばれた男性が肩を竦めた。
 そう、内海が思いあぐねていた窮地を救ってくれたのは、身近でただ一人内海の抱える事情を知る従兄弟、内海康之だった。
「飲んで来たのか?」
「うん、一杯だけママの奢りで……」
「――飲み足り無そうだな、付いて来い」
「え? あ、康兄?」
 僅かに視線を逸らしながら頷く内海に背を向けると、康之は躊躇うことなく煌びやかな照明に照らされる一軒の店へと歩を進めた。
 考えるまでも無く何の店かは想像が付く店舗に内海は一瞬怯んだけれど、後に続くのは当然とばかりに緩まない康之の歩調に、渋々ながら従ったのだった。


「飲めよ」
「ありがと……」
 これまでの人生の中では遭遇するはずも無かった世界が、扉の内側には広がっていた。
 康之は慣れた仕草で裏口へと周り、内海を店の奥のこじんまりとした一室へと誘った。事務所のような仕様になっているその部屋に来るまでの間に見せられた店内は、ブラックライトに照らされ大きな音量の音楽が鳴り響いていた。
 男性は皆お洒落なスーツに身を包んでいるけれど、決して昼の仕事の人が着るようなスーツではなく、ネクタイもせずに胸元を開けている人もいた。
 女性は若そうな子から多少歳を重ねているような人まで様々で、一様に楽しげに微笑みながら、傍らに座る男性に寄り添うように甘えている。
(これが、ホストクラブってやつなのか――テレビの中だけの世界じゃないんだ)
 活気溢れる店の様子に唖然とする内海を事務所へと案内した康之は、一旦部屋から出るとビールの入ったグラスを手に戻って来た。
「鳩が豆鉄砲食らったような顔してるなあ」
「そりゃ……こういうとこ来たの、初めてだし……っていうか、俺がこんなとこいていいの? ここ、偉い人用の部屋なんじゃないの?」
「それは気にするな。ここで俺より偉い人間はいないから」
 ドアを閉めた部屋の中は、店の喧騒が薄っすらと聞こえてくる程度。
 勧められた応接セットに腰を下ろした内海が、康之の言葉にますますポカンと口を開く。
「は? え、今何て?」
「だから、俺の店なんだって」
 呆気に取られる内海に対し、康之は笑いながら淡々と事実を告げていく。
「まだオープンして半年程度だけどな、やっとここまで来れた」
「康兄、すごいね……俺とは大違いだよ」
 内海が悩みを打ち明けた頃には、自分の店を出すという目標を持って稼いでいたのだと。数年間別の店で雇われ店長を経験し、その間にこの店を開くための準備に走り回ったのだと、康之が嬉しそうに口にした。


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