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キスからの距離 (6)
しおりを挟むじゃあまた、と仕事に戻った内海は、緩みそうになる頬を必死に引き締めた。
これ以上欲を出しても仕方が無い。橘川からは同類の匂いはしないのだから、本気になれば自分が傷付くだけだということが分かっていたから。
そんな内海の予想はその後大きく外れる事になった。
自分がバイトをしていると知った以上、バイト先のスーパーにも顔を出さなくなるだろうと思っていた橘川は、その後も頻繁に現れるようになったのだ。
内海が気に掛けていたから目に付いただけなのかもしれない。
橘川にとっては深い意味など無いのだろう。
そう何度も言い聞かせてみたけれど、顔を見れば弾む心が、少しでも自分の良いようにと思考を運んでしまう。
「で、いつ飲みに行く? この先の居酒屋、飯系はまあまあだったぞ」
「え……あ、っと、俺はいつでも!」
まさか橘川の側から誘いを掛けてくれるなどとは思ってもいなかった。あの時頷いてくれたのは社交辞令であって、調子に乗ってはいけないと思っていたから、内海の側から誘いを掛けようなんて考えてもいなかったのだ。
「何だそうなのか。お前あれ以来誘って来ないから、本当はその気が無いのかと思ってたんだけど……だったら早く言えよ」
「ごめんごめんっ」
「んじゃ、バイト終わったらメールして。飯食わないで待ってるから」
「分かった。今日は17時で終わりだから、終わったら直ぐ連絡する」
にやけそうになる顔を堪えられるのか自信が無かった。だから内海は思い切り笑顔を作った。誘ってくれて嬉しいと表情に乗せるくらいは、友達としての関係であったとしてもおかしくは無いと思うから。
その日はバイトが終わるまでの時間が、内海にはとても長く感じられた。
単なる友達でいい、という思いから、もう少しだけ橘川の近くに行きたい。橘川と一緒にいたい。
そんな想いが育つのに、時間は掛からなかった。
そうして二人で飲みに行って以来、メールの遣り取りも普通に交わすようになっていった。初めてメールを送った時には指先が震えそうになるほど緊張したのに、今では内海の携帯の受送信メール履歴の中で、橘川の名前が一番多くなっている。他愛も無い内容のメールばかりだけれど、内海にとっては宝物だ。
メールばかりか、一緒に飯を食いに行ったり、互いの家に行き来したりもするようになって行った。
「悦郎、メールじゃね? 携帯鳴ってる、女だろ? モテる男は辛いなあ」
「チッ――」
「返信しねえの?」
「いい、面倒だ」
「面倒?」
ある日のことだ。
その日は橘川の家で、内海がバイト先から安く買い上げてきた惣菜をつまみに一杯やっていた。
二人でいる時に橘川の携帯が鳴らなかったことは、一緒にいるうちで僅かしかない。いつだって誰かしらからの誘いのメールや電話が入る。その多くが女性からのものであることも、取り立てて隠そうとはしない橘川の言動から教えられている。
この日も案の定鳴り出した携帯に少し心が痛かったけれど、内海はわざと茶化した口調でヘラリと笑って見せた。なのに橘川は、メール画面を一瞥したきり携帯を放り投げてしまった。
「あんまりしつこいからこの間一回寝てやったら、すっかり彼女気取りだよ……その気は無いって最初に言っておいたのに」
「うっわ、最低。お前そのうち刺されるんじゃね?」
深まった付き合いの中で、橘川がこういう男だということは理解した。けれどそれが自分の身に起こったらと考えれば、胸が痛む。
痛むのに、好いた相手に一度でも相手をしてもらえるなら、それでもいいから関係を持ちたいとも思ってしまうのだからどうしようもない。
「その時はその時だろ。っていうより、お前の方が危ないかもな」
「え? 俺? 何で?」
「俺が一番つるんでるのも、一番会ってるのも智久だし、恨まれてるかもしれないぞ?」
「うっわぁ、ますます最低!」
橘川の言葉にきょとんと首を傾げた内海に対し、ニヤリと笑って告げる橘川。その顔にムカついてわざと舌を出して見せれば、何がツボにはまったのか声を上げて笑われる。
女性からの連絡や、その遍歴を聞くことにショックを受けないわけではない。それでも内海が一番だと、そんな嬉しい言葉を掛けてくれるから。満面の笑顔で、自分といる時間が一番楽しいと言ってくれるから。橘川がノンケであることを理解している内海にとっては、それだけで十分過ぎるほど幸せな時間だったのだ。
それ以上の関係になりたいと望まなかったと言えば嘘になる。
内海だって年頃の男だ。目の前には自分が想いを寄せる相手がいて、内海の想いに気付いていない分、気軽にスキンシップも取って来られる。その度に跳ね上がる鼓動を必死で押さえ、欲望を解放する事も少なくはなかった。
独り虚しく自身を慰めるだけでは足りず、夜の街に一夜の相手を探しに出掛けた事もある。それは決して幸せな時間などではなく、身体の熱が去った後には、より虚しさを募らせるばかりの行為だった。
最初は単純に、同じ悩みを持つ人と話しがしてみたい、それだけの理由で通うようになった一軒のバー。
自分が同性に対してしか恋心を抱けないという事に悩み、思い詰めていた頃に、仕事柄他人の変化には目敏かった従兄弟から呼び出された。法事で久し振りに会った時の内海の様子がおかしかったことが、気に掛かっていたのだと。
親戚筋の中では特殊な職業に就いていた彼は、どことなく周りから距離を置かれる存在だった。
けれど内海はその従兄弟には幼い頃から懐いていたし、従兄弟もまた内海を可愛がってくれていた。そんな彼から『悩みがあるなら言ってみろ』と促され、内海は初めて自分の悩みを他人へと打ち明けたのだった。
震える口調でポツポツと語る内海を従兄弟は貶すこともなく、『まあ、色んなヤツがいるからな』と笑って受け止めてくれた。
自分では上手く相談には乗れないけれどその代わりに、と言って紹介された店が、その後内海の行きつけとなるゲイバーだった。
寂しさに打ちのめされそうになった時には、そこで誰かと話をするだけで元気になれた。一人では持て余すほどの欲求を覚えた時には、そこで相手を探して熱を分け合うことも覚えた。
ゲイであるということだけで、パートナーを見付けることの難しさも、恋愛に対する厳しさも、内海はその店に通う内に教わって来た。
ノンケばかり好きになる自分には、多分この先一生を共に過ごせる相手とは巡り会えないのだろうと。
だから内海は、いつも恋心を押し殺して生きてきたのだ。
嫌われて遠ざけられてしまうくらいなら、友達のまま傍にいることを望んで来た。橘川との関係も、きっとそうなるのだろうと思っていた。だからこそ橘川からの突然の言葉に驚いたのだ。
「俺さ、智久の事が好きっぽいんだけど」
「は?」
「いやだから、お前に惚れてる……みたいなんだよ」
空耳かと思った。
その日は内海の部屋で二人で鍋を囲み、通常よりも酒が進んだ。そのせいで聞き間違えたのかと思ったのだけれど、常には見せない橘川の照れた様子が、今の言葉が真実なのだという事を告げていた。
「……ぽい、とか……みたい、とか言われても――ってか、俺、男だけど?」
「んなこと分かってる。俺もずっと何かの間違いだろうって考えてたんだけどな……今こうして智久と一緒にいて、お前を抱きたいって思うってことは、やっぱり、好きだからだと思うんだ」
そんな都合のいいことが起こるはずはない。
自分の好きな相手が、自分の事を好きになってくれるなんて……まして相手は性的ノーマルな人間だというのに。
内海の心臓が煩いくらいに音を刻む。ぐるぐると忙しなく動く鈍った思考の中で、導き出された答えはひとつだった。
「――お前、俺のことからかってる? ってか、誰かから何か聞いたのか?」
自分がゲイだという事は隠して来たつもりだったけれど、どこかからそれがバレたのかもしれないと。もしかしたら行きつけのバーに出入りしている姿を、知り合いに見られていたのかもしれないと。
内海と橘川の仲が良いことを知った誰かが、もしかしたら賭けでも持ち掛けたんじゃないか。そうでなければ橘川が内海を好きだなんて言う理由は見当たらない。
「からかう? 冗談でこんな話が出来るわけないだろ。第一誰から何を聞くってんだ」
血の気をなくした内海が自嘲気味に口を開けば、目の前の橘川の表情が一変した。
不機嫌そうに寄せられた眉、内海へ対する口調のキツさが彼の憤りを表していて、思わず顔を上げた内海の目に飛び込んで来たのは、悔しそうに顔を歪めた橘川の姿だった。
そんな顔をさせたいわけじゃなかった。
内海にとって橘川の言葉を受け入れるという事は、とてつもない勇気を必要としたのだ。気持ちを隠すことで保ち、培って来た二人の関係が崩れることが怖かった。
「ごめん……」
「……それは、俺の告白に対する返事か?」
「そっ、そうじゃなくて! お前が噂話とか気にするような奴じゃないのを分かってて、変なこと言ってごめん、って」
先ほどまでの和んだ空気が嘘のように、一変して張り詰めた室内の雰囲気に、内海の口から謝罪の言葉が漏れる。
低く返された橘川の声に内海が慌てた素振りを見せれば、橘川はただ黙って、言葉の続きを待ってくれた。
「俺――ゲイだから……」
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