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孤狼に愛の花束を (36)
しおりを挟む感じの良い笑顔を浮かべて頭を下げられてしまえば、案内はいらないとも言い難くなる。
「銀さんすごいねっ、特別待遇?」
「……さあな」
水芦と名乗った男に案内されて会場へと向かいながら、小太郎がコソコソと俺に囁きかける。きらきらとした瞳で見上げられると、調子が狂う。
初めて訪れる場所で初めて会った人間から、こんな対応をされることに、俺も内心では戸惑っていた。
「そうです、特別なんですよ。うちの澤田がずっと森下様にお会いしたがっていたんですが、なかなかおいで頂けなかったので……すぐに 呼んで参りますので、会場内を見学されながらお待ちください」
小太郎の声が聞こえたのだろう。水芦は茶目気交じりに片目を瞑ると、笑いを堪えながら俺達を会場内へと導き、あっという間に姿を消した。
「俺に会ったところで何があるわけでも無いのにな」
「そんなことないよっ! きっと銀さんに何か話があるんだよ、楽しみだね」
溜息とともに思わず零れ出た言葉に、小太郎が微笑む。こいつが隣で笑っていると、こんな俺でも幸せになれそうな気がしてしまうのだから不思議だ。
「あれ? 銀さん……もしかして、あれがそう?」
「――そう、みたいだな」
改めて会場を見回せば、円卓が数種類。それぞれ違う装飾をされて中央にセッティングされている。会場の壁に沿っては、長テーブルの上にクロスが敷かれ、引き出物や細々とした菓子や人形等が並べられていた。
そして、円卓の上にも壁沿いの展示スペースにも、予想以上に酷い状態の薔薇の花が置かれているのが目に飛び込んでくる。
「……色付いてない方が、断然いいね……」
しょんぼりとした小太郎の声が耳を素通りしていく。
写真では何度か目にしたこともあったけれど、それらは恐らく俺の目に触れることを想定して仕上げられていたのだろう。まさか実物が、これほど雑な仕上げにされているとは思ってもいなかった。
俺なりに花弁の一片の造形まで向き合って焼き上げた品に、毒々しいペンキのようなインクがべったりと塗りつけられ、手に取って見れば底部分の半端な塗り残しも目に付く。
カードを挟む為に後から取り付けられたワイヤーも、接着部分がかなり粗い仕上がりになっていた。
「……銀さん?」
「酷いな、これは――」
気遣わし気な小太郎の視線を感じるものの、口に出せた言葉はそのひと言だけだった。
あまりにも酷い仕上がり。これでは一生に一度の晴れ舞台の場に置くには、どう考えても相応しくはないだろう。
半ば呆然としつつも、完成品を見分していると、先ほどから感じていた匂いの大元が傍へと近づいて来ているのを感じた。
「おや、森下さんじゃないですか? 来るなら来ると言って下されば良かったのに……そちらの方は?」
気安いノリで声を掛けてきた男の楽しげな口調が、俺の苛立ちを募らせる。
俺が爺さん以外の誰かと一緒にいるところなど、コイツは見たことも無いはずだ。面白そうに俺と小太郎をじろじろと眺めるその視線に、怒気が沸き起こってくるのが自分で分かった。
「お前に紹介する義理は無い」
「やっと里に下りてきたと思ったら、相変わらずな態度ですね。知らない関係でも無いでしょうに、つれないったら……まあそんな貴方も素敵ですけど」
「……豊川、それ以上口を利くな」
「銀さんっ」
くすくすと笑う男の声に、思わず拳を握っていた。
俺と豊川を交互に見遣った小太郎が、小声で俺を呼びながら服の裾を引っ張る。その声に辛うじて自我を保ち、殴り掛かりたい衝動をギリギリで堪えた。
豊川の視線から小太郎を隠そういう機転も利かないほど、自分自身の怒りを押し殺すことに必死だった。
僅かに冷静になった思考で大丈夫だと小太郎の肩を叩き、そこでようやく小太郎を自分の背後へと隠す。今さら遅いことは分かっていたけれど、金輪際コイツと係わるつもりは無いだけに問題は無いだろう。
「豊川、新しい契約書は持って来なくて良い」
「は? ちょっと、突然どうしたんですか?」
睨み付けながら言い放った言葉に、さすがの豊川も表情を動かした。微笑みの型を作る唇の端がひくついているのが目に止まる。
「まさかこれほどとは……最悪だな――爺さんの時からの付き合いだからと思って、契約を更新し続けて来たが、金輪際お前のところとの仕事はしない」
「なっ……笑えない冗談はやめて下さい」
「俺が冗談なんて口にする男だと思うか? 幸いこの先の予定は、契約書が保留になっていた関係で決まってなかったしな」
辛うじて微笑みの型を浮かべていた豊川の顔から、一切の笑みが消えた。どす黒い色を乗せた瞳で俺の背後を睨む豊川が、一呼吸して口を開く。
「その坊やのせいですか?」
「お前には関係ない」
「森下さんっ! ああ、豊川さんもいらしたんですか? 初めまして、澤田です。本日はお会い出来て光栄です!」
一触即発の俺と豊川の間に、突然割って入って来た一人の男。隙の無い笑顔を浮かべながら、剣呑な空気を破り去ると、俺に向けて名刺を差し出して寄越す。
「あんたは……このホテルの?」
「ええ、ブライダルの担当営業をさせて頂いている澤田朋啓と申します。お話中申し訳ありませんが、少しお時間頂けませんか? 良いですよね、豊川さん?」
ふっと霧散した空気に呆気に取られながら、差し出された名刺を受け取れば、澤田と名乗った男はニッコリと微笑み豊川へと頭を下げた。
俺達の緊迫した雰囲気が、周囲にも伝わっていたのだろう。賑やかだった会場内から、人の気配が少なくなっていた。
僅かに残る人間たちも、遠巻きにこちらの状況を見守っているようだった。
「……ふんっ、後悔しても知りませんよ。うちとの契約を切って、どうやって生活していくつもりなんだか。後から泣いて縋って来るのをお待ちしてます――失礼っ」
見栄っ張りな豊川にとっては、変に注目を集めているこの状況は屈辱的だったのだろう。捨て台詞を残して去って行くその後ろ姿に、会場内の空気が和んだ。
会場入口でまさに今室内へ入って来ようとしていた、先ほど俺達を案内してくれた水芦という男を押し退けて出て行く豊川を、目線で追っていた澤田の眉がピクリと動く。
表情には笑顔を貼り付けているけれど、獣人である俺には彼の感情の起伏が感じ取れた。
「澤田さん、個室、何とか押さえました」
「そうか……大丈夫だったか?」
「何が?」
「今、思いっ切りぶつかられてただろ」
「はは、平気だよ。そんなにヤワじゃないし。心配ありがと、朋さん」
近寄って来た水芦と澤田が小声で交わす会話の中身も、残念ながら俺の耳には全てはっきり聞き取れてしまう。なるほど、澤田の機嫌が下降したのは、どうやら豊川がこの男に危害を加えたかららしい。
分かりやすいその態度には、人間と云えど好感が持てた。
「すみませんでした、お話の邪魔をしてしまって悪かったかな」
「……いや、助かった。それであんたの話っていうのは?」
「ここじゃなんですから、場所を移しませんか? そちらのお連れ様もご一緒に」
水芦との会話を終えた澤田が、貼り付けていた笑顔を感じの良い笑みへと変えて、俺と小太郎を誘う。ちらりと小太郎へ視線を送れば、不安そうにしながらも頷きが返される。
「分かった、案内してくれ」
「ではこちらへどうぞ」
俺と豊川との遣り取りを気にしているのだろう。耳も尻尾も頑張って隠している小太郎の、見えないはずのそれらが項垂れている様が想像出来てしまう。
「お前が気にすることじゃ無い」
「っ、だけど……あんなこと言っちゃって、良かったの?」
「ああ。知らなかったとはいえ、あんな仕上がりでエンドユーザーに提供されていたとはな――これは俺のプライドの問題だ」
だから気にするなと言い聞かせながら、澤田の案内に従ってホテル内を歩く。
俺達の会話が聞こえているのかいないのか、澤田はだんまりを通したままだった。
「どうぞ」
「……うわぁ、すごい! 銀さん見てっ、街が綺麗! 山があんな遠くに見えるよ!」
「ははは、気に入っていただけて嬉しいです。標高的には然程じゃないんですけど、夜は夜景も素敵なんですよ」
通されたこじんまりとした個室は、壁の一角が総ガラス張りになっていた。そこから見渡す風景に、しょんぼりしていたはずの小太郎の瞳が輝きを取り戻す。
「掛けてお待ちください。今何かお飲み物をお持ちしますね」
澤田の言葉に従い俺が腰を下ろすも、小太郎は窓にへばりついたままだ。
気持ちの切り替えの早いこういう部分も、俺を惹き付ける要因なのだろう。ころころと変わる表情も、感情の動きも、目を離すことが惜しく感じさせる。
「お待たせしました。どうぞ……ええと、あちらの方は……」
「気の済むまであのままにしてやってくれ」
「そうですか――」
トレイを手に戻って来た澤田に気付いているのかいないのか、一向に席に着く様子の無い小太郎に苦笑しつつ、澤田が俺の向かいへと腰を下ろした。
「さっきはすまなかった。会場の空気に水を注してしまったな……あんたが止めに入ってくれなければ、手が出ていたかもしれない」
「ああ、いえいえ。会場にいらしたお客様も、多分すぐに忘れますよ。ご自分達の幸せに忙しい方々ばかりですから」
手が出るどころか、ここが人の集まる空間じゃなければ、噛み殺していたかもしれないと思うくらいに、俺の苛立ちは膨らんでいた。小太郎がいたからこそ堪えていたけれど。
それでも場違いな行動を取ったことには変わりないと頭を下げれば、澤田が苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「ここだけの話……私も彼は苦手なんですよ。何かこう癖があるというか、裏を感じさせるというか――ああ、内緒にしてくださいね。ホテルマン失格の発言ですから」
「いや、アンタの感覚は正しいさ。アイツは詐欺師も同然の輩だからな」
「そう仰って頂けてほっとしました。ご相談というのは、そのことにも関係するのですが……お話、聞いていただけますか?」
ウンザリとした気分で吐き捨てた俺の言葉に、言質を取ったとばかりに澤田の瞳が煌いた。
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