孤狼に愛の花束を

柚子季杏

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孤狼に愛の花束を (18)

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 俺が黙っていようがお構い無しに喋り続ける小太郎との賑やかな食事。
 爺さんが生きていた頃も二人で食卓を囲んではいたけれど、同じ家の中にいながら、この部屋がこんなに明るかったことを始めて知った。
 小さい身体で精一杯に人生を楽しみ、未来へと進もうとしている小太郎と、生きながらえた命を持て余しながら、日々を淡々と過ごして来た俺。
 対照的過ぎて、どうしたってその存在を自分の中から消し去ることが出来ない。
「小太郎」
「何? あ、もうあっちに戻る? ……何、これ?」
「これからも通って来るつもりなら持っていろ。冬場は陽が落ちるのが早いからな」
「……銀さん、ありがとうっ」
「ッ――良いから離れろ」
 弁当も食い終わり、ストーブの火を落としに立ち上がりながら、そういえばと差し出したのは小型の懐中電灯だった。
 早い時間に結界の確認をしに行く時や、夜通し窯の番をする時に重宝するかと、以前何でも百円で買えるという街の店で大量購入して来ていたものだった。
(こんな物で、そんなに喜ぶのか、コイツは……)
 受け取った小太郎に不意に抱き付かれて、思わず動揺してしまう。
 動揺を表に出さないようにと気を落ち着けながらその身体を引き剥がせば、自分の取った行動に気付いて照れ臭そうに微笑む小太郎の頭に、小さな三角の耳が飛び出していた。
視 線を下ろせば、ダボっとしたパンツの中、尻の辺りに不自然な膨らみが出来ていて、そこが微妙なリズムで揺れている。

「……くっ、くくっ」
「銀さん?」
 声を上げて笑うなんて、両親と死に別れて以来無かったのではないだろうか。そんな俺が、間の抜けた小太郎の様子が妙にツボに入ってしまって、笑いを堪える事が出来なかった。
「ふ、先に戻ってる。お前は耳と尻尾を引っ込めてから来い」
「へ? 嘘っ、出てた? 出てるっ!」
 頭の上に飛び出た耳ごと頭を掻き回せば、見た目よりも少し固い冬毛の感触がした。
 指摘を受けた小太郎はというと、尻に両手を回し、モコっと盛り上がった臀部を慌てて押さえ付けている。
「くくっ、全く――お前がいると飽きないな」
「ぁ、うぅ……えへへ」
 笑いを納め切れないまま語り掛ければ、小太郎は頬を赤くしたままふにゃりと笑った。
 いつもの笑みともどこか違う、少し大人びた幸せそうなその表情に、どきりとする。これまでの俺の生活の中では、感じたことの無い感情だった。
「……行ってるぞ。出る時はこれで鍵を閉めて来い」
「ごめんね、銀さん! オレもすぐに行くから!」
 先ほどまで尻を押さえていた両手を頭上へと移動させた小太郎の声に、頷きを返して母屋を出ながら首を傾げる。
 他人との接触がほとんど無い暮らしをしているからといって、それだけでは説明の付かない感情だった。俺は確かに、欲情の兆しを感じていたのだから。
(アイツは雌じゃなくて雄だぞ? それも、森で拾っただけの子供じゃないか)
 普段の小太郎にはドキリとさせられる要素など見当たりもしないのに、あの微笑を目にした瞬間、細い首元に噛み付きたい衝動に襲われたという事実に困惑する。

 狼という種族には、群れを増やすにも厄介な仕来たりがある。
 新しく自分の群れへ入り込もうとする輩には、敵意の無いことへの確認変わりに、その喉へと牙を立てるのだ。その間に反抗を示せば、そのまま牙を突き立て噛み殺してしまう。元からある群れを守るため、危険分子を群れに引き入れないための手段。
 だが逆を言えば、相手への忠誠を誓うためのその行為に耐え抜けば、その後は仲間として手厚く群れに迎え入れる。万が一仲間に危険が及べは、群れは一丸となり命を賭して戦う。

(俺は……アイツをどうしたいんだ……)
 俺の父親は、母と俺を守るために、自らの命を落した。母もまた、一人残された俺を救おうと、深い傷を負いながらも巣へと戻り、俺を安全な場所へと連れ出し息絶えた。
 そんな両親のように、俺は小太郎を守りたいと思っているのだろうか。
 群れの仲間として、番として迎え入れたいとでも思ったのだろうか。

 考えても答えは出ない。いままで出会って来た様々な雌を前にしても、その首に噛み付きたいなどと思ったことは無かったというのに、なぜ小太郎を前にしてそのような衝動に襲われたのかが分からない。
 街に出れば時折鼻の利く獣人の雌に見抜かれ、誘われることもある。中には男からの誘いを受けることも。
 そういった時にはこれ幸いとばかりに、欲を吐き出すための行為に及ぶことはあった。
 強い雄に惹かれるのは弱者としての本能なのだろう。けれど喉元を差し出して来られたとしても、わざとその場所は避けていた。俺には仲間に迎え入れるつもりも、自分の番にするつもりも無かったからだ。
 やるべきことだけ済ませれば、顔を覚えようとも思わない相手を置いてさっさと立ち去る。情を残すことも無いその場限りの関係だった。

「銀さんお待た……せっ、とと……ぅわっ」
「……何も無いところで転ぶというのは、お前の特技か?」
「長い足が絡まったんだよ!」
 建て付けの悪い作業小屋の扉を力任せに抉じ開けた小太郎が、転がるように小屋の中へと入ってくる。呆れながら振り返れば、ムキになって反論する小太郎からは、先ほどのドキリとするような色気は微塵も感じ無かった。

 母屋から作業小屋までの短い距離でもしっかりコートを着込んでいた小太郎が、再び身軽な格好になる。
「引っ込んだのか」
「引っ込めたの!」
 頭に目をやりポツリと零せば、小太郎は僅かにムッとした顔をする。
 ぴょんと出ていた耳も、パンツの下でもこもことしていた尻尾も、軽装になった小太郎には見当たらなかった。
 結界の外側にあるこの場所では仕方の無いこととはいえ、当人の性格を表して賑やかに動く耳と尻尾が見られないことを、少し残念に思う。
「銀さんが引っ込めるまで来るなって言ったんじゃないか」
「そうだったか?」
「……まあいっか。あと三時間、頑張るよ!」
「ほどほどにな」
 素知らぬふりをする俺に向かって諦めた風の息をひとつ吐き、小太郎は着ていたパーカーの袖を捲くり上げた。
 持参して来たらしい雑巾を鞄を漁って取り出し、パタパタ動いたかと思えば、流しの下から発掘したと見えるバケツに水を入れ抱えて戻って来る。
「気合だ、気合……頑張れオレっ」
「……何がだ?」
「ここの流しって水しか出ないでしょ? 気合入れないと手突っ込めないよ」
 土間に下ろしたバケツを前に、何やらぶつぶつと何かを呟いていると思えば。
 本当に、俺には無い思考を持っているものだと、呆れを通り越して感心すらしてしまう。
「どいていろ」
「え? あっ、うわっ! ありがと、銀さん!」
 ストーブ前で薪をくべていた俺が立ち上がり、上に乗せていたヤカンの湯をバケツへと注いでやれば、小太郎はまた嬉しそうに笑顔を見せる。
 放っておけば良いと思いながらも放っておけない俺もどうかしているのだろう。それでも小太郎の笑顔を見れば、胸の辺りに温かなものが満ちてくるような気がして。
「よぉしっ、頑張ろうっと」
 先ほどから続いている俺の動揺にも気付かずに、小太郎は鼻歌混じりに雑巾を手に取ると、今度は躊躇うことも無く湯気の立つバケツへと両手を突っ込んだ。
 ばれないようと苦笑しつつ、掃除に取り掛かる小太郎の姿を目で追えば、ちょこまかと楽しそうにしているその姿を、ずっと見ているのも悪くは無いと思ってしまう。
 俺も自分のやるべきことをこなさなければと作業台へ向き直ったけれど、同じ空間で動き回る小太郎の存在を感じるだけで、胸に満ちた温かさが持続する。

 他人と過ごすこと、他人に係わることを毛嫌いしていたこの俺がだ。
 小太郎と過ごす時間はやはり、俺にとって他のやつらとは違う何かをもたらすようだ。


「お、終わったぁ……」
 聞こえて来た声にハッとして視線を向ければ、いつの間にか綺麗になった板張りのスペースに寝転がる小太郎の姿があった。
「……随分片付いたな」
「でしょ? オレ頑張ったもん! 外に大量のゴミがあるから銀さんが捨ててね」
「ああ」
 午前中に仕分けしていた物を、掃除し終えた場所へと位置を決めて再び置き直された空間は、ギチギチだった棚にも余裕が出来て、見た目もすこぶる良くなっていた。どうやらあれもこれもと、余分な物を詰め込み過ぎていたらしい。
「そのままだと風邪を引くぞ」
「わぷっ、あ、ありがと……」
 額に薄っすら汗を浮かべた小太郎に、首に巻いていたタオルを投げてやると、顔面で受け止めた小太郎が起き上がりながら汗を拭う。
「銀さんの匂い、オレ、好きだなあ……って…無しっ! 今の無し! 何でもないから!」
 自分の口にした言葉に慌てる小太郎だったけれど、その一瞬前、タオルに頬を押し付けた小太郎の表情に、内心では俺の方が慌てていた。
 母屋で感じた感情の揺れが輪をかけて襲ってくる。
 否定の言葉を口にする小太郎からは、微塵も感じ取れないその空気。
 そこだけが周囲の空気とは異なって、まるでシャボンの泡にでも包まれているように感じる不思議な温かさ。そのシャボンが消えてしまう前にと、思わず手を差し伸べたくなってしまう儚さすら感じさせられる。
 パチンと弾けて消えないように、早くこの両手の中に閉じ込めなければと、変に心がざわつくのだ。


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