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櫻花荘に吹く風~201号室の夢~ (18)
しおりを挟むそれからというもの、池上に顔を会わせる度に『上手くいってるか?』等と軽口を叩かれる。池上に悪気は無いのだろう事は分かっていた。あんな事があったから、僕が彼に対して抱いていた気持ちを告げてしまったから、これまで以上に僕を気に掛けてくれているのだと分かってはいるのだけれど。
そうでなくても池上さんのひと言があったせいで、自分の中に芽生えつつある感情に戸惑っていると言うのに、そんな質問をされても困ってしまう。
「はぁ」
「ご飯だよ!」
「うわっ!」
「ぶっ……はははっ、まーくん驚き過ぎだから!」
「良、くん――――」
今日もまたからかわれてしまうのだろうかと思えば、溜息のひとつも吐きたくなる。暖かな日差しが降り注ぎ、そよぐ風に吹かれるウッドデッキには相応しく無い行為をした時だった。
突然目の前に現れた良くんの顔に驚いて、手にしていたカップを落とすところだった。
背後から僕を覗き込むように首を伸ばしていた良くんが、目を白黒させた僕の態度に笑い転げる。
「もう、びっくりさせないでよ……」
「ごめんごめん! だってまーくん何度呼んでも気付かないからさ」
自分でも大袈裟過ぎたとは思うけれど、今の今まで思い浮かべていた顔が突然目の前に飛び出して来たら、誰だって驚くと思うんだ。
カップを落とさずに済んで良かった。
良くんが、僕のために買ってくれた、大切なマグカップ。櫻花荘に早く馴染めるようにと気遣ってくれた、彼の優しい心が詰まっている品だから。
「味噌汁冷めるぜ? 早く行こう」
「あ、うん」
一頻り笑い終えた良くんが、目の端に浮かんだ涙を拭いながら、片手を差し伸べてくれる。その手に掴まって立ち上がれば、トクトクと時を刻む鼓動が、速さを増した気がする。
(駄目だ――もう、遅いかもしれない……)
立ち上がった僕を確認した彼は、軽い足取りで中へと戻って行く。彼の背を追いながら、確信した自分の胸中に、僕は小さく下唇を噛み締めた。
「まーくんはご飯普通で良い? 良くんは?」
「俺大盛りで!」
春ちゃんの問い掛けに首肯で答える僕とは対照的に、明るく元気な声がする。彼がそこにいるだけで、部屋の中にいるのに、まるで太陽の陽に照らされているような気がした。
「おはよう昌樹くん」
「おはようございます、由野さん……眠そうですね」
「うん……ご飯食べたら、少し眠るよ」
良くんに促されてテーブルへと向かえば、そこには既に由野さんが腰を下ろしていた。
朝の爽やかな空気には似つかわしくないような、隈の浮いた疲れた表情が目に付く。
「由野さん、夜はちゃんと寝た方がいいよ? 電気代掛かるし、夜にちゃんと寝ないと老けるんだってよ?」
「はは、そうだね、気を付けるよ」
「春ちゃん童顔だから、由野さんが老け込んだら親子に見られるぜ?」
「ちょっと良くん! 失礼過ぎ! お弁当あげないよ?」
「わー! 嘘っ、冗談! 二人はお似合いです! だから弁当頂戴!」
メガネをずらして眉間を揉み解しながら、由野さんが穏やかに微笑む。春ちゃんから山盛りによそられた茶碗を受け取った良くんがからかえば、春ちゃんが子供を叱るような態度で睨み付ける。
いつもの櫻花荘の、いつもの朝の風景。
幸せに満ち溢れた光景に、泣きたくなるほどの幸福感を感じながら箸を取る。
この幸せなひと時を壊したくは無いから。
彼にはもっと、幸せになって欲しいから。
さやえんどうの香りが漂う味噌汁が、少しだけ、いつもより塩辛く感じた。
【 春眠暁を覚えず 】(孟浩然の「春暁詩」から)
春の夜は短い上に、気候がよく寝心地がよいので
夜の明けたのも知らずに眠りこんで
なかなか目がさめないという意。
(日本国語大辞典)
寝ても寝ても眠くて朝起きたくない、と言ったら、由野さんが教えてくれた。昔の人は上手いことを言うもんだとしみじみ思う。
一度起きて動き出してしまえば何てことも無いのだけれど、布団から出るまでが毎日自分との戦いだ。
『早起きは三文の徳、って諺もあるんだよ。僕はなかなか実行出来ないけどね』
これも由野さんが教えてくれた。簡単に、尚且つ今風に言うなら、早起きをすると健康にも良いし、何かと良いことがあるという意味。昔学校でも習った気がするけど、早く起きたからって良いことがあった例なんて一度も無かったから、すっかり記憶から抜けていた。
だけど今日は、ちょっとだけその意味が理解出来た気がする。
「春ちゃんおっはよー」
「おはよう良くん。すぐご飯にするから、まーくん呼んできてくれる?」
「まーくん?」
「うん、多分ウッドデッキにいると思う」
今日の現場はちょっと遠いって事で、いつもよりも早めの起床。
眠い目を擦りながら顔を出した台所で、ミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出した俺に、忙しそうに動き回る春ちゃんから指令が飛んで来た。
春ちゃんの言葉に窓へと視線を向ければ、ウッドデッキにぼんやりと腰掛けたまーくんの姿が目に入る。
「まーくん早起きだね」
「今日は朝から出掛けるんだって言ってたよ。あ、良くんついでにこれ、テーブルに運んでおいて」
「はいはーい」
「ハイは一回!」
「はぁーい」
手渡された春キャベツのお浸しをテーブルへと置き、あくびを噛み殺しつつデッキへと向う。開けてある窓から入り込んでくるそよ風が、春の匂いを運んで来る。
「まーくん、おはよー。飯だって……まーくん?」
掛けた声に反応を示さないまーくんの様子が、何となく気になる。
再び名前を呼び掛けながら一歩デッキへと踏み出したところで、足が止まった。
「ぅ、わ……」
自分がまだ寝惚けているのかと頬を抓ってみても痛いだけ。俺の目がおかしいのかと擦ってみても、見える姿は変わらない。
この一瞬を、写真に撮って残したい。
柄にも無くそんな事を思ってしまったくらい、そよぐ風に吹かれて桜の木を見上げるまーくんが、すごく綺麗に見えた。
それはまるで初めて彼に会った瞬間を思い出させるような、儚げで凛とした、不思議な美しさだった。
「……やばいだろ」
唐突に心臓が跳ねた。早まる脈拍に慌てて深呼吸をしてみても、頬が熱を持つのを止められない。短く刈り込んだ髪をガシガシと掻き回しながら、冷静になれと言い聞かす。
それでも、まーくんの姿から目を逸らす事が出来なかった。
「早起きしてよかった、のか?」
多分まーくんのこういう印象は、俺しか感じていないのだと思う。初めて会ったあの時も、そして今のこの瞬間も、まーくんの纏うこの空気は、俺だけしか見ていないから。
声を掛ける事で、この不思議な空気を消してしまう事が惜しい気がした。このままずっと見つめていたいような気もするし、俺以外の誰かの目に留まる前にこの空気を蹴散らしてしまいたい気もする。
俺だけが知っているまーくんの姿を、独り占めしたいと、そんな馬鹿げた事を思ってしまっている自分に苦笑が浮かぶ。
こんな事を思っていると知られたら、絶対に気味悪がられるだろう。
もしも自分がその辺の男に同じような事を思われていたら。考えるだけでぞっとする。
まーくんが櫻花荘にやって来てひと月半。
あの強烈な出会いの印象も冷め遣らないまま、俺は自分が彼に惹かれているという事実に戸惑っていた。
これまで誰かと恋愛と呼べるような付き合いをして来たか、と聞かれれば答えに困るけれど、性的な魅力を感じたのは全て女性だった。高校時代に童貞を捨てた相手も女の先輩だったし、今までそういう行為に及んだ相手も全て女性ばかり。
男に対して『恋愛』という意味で、ましてや『欲望』の対象として興味を抱いた事なんて、これまで一度だって無かった。
(俺も他の皆に毒された? いやいや、俺は男で、まーくんも男っ!)
何度と無く言い聞かせてきた言葉を思い浮かべ、小さく深呼吸をしてみる。
ぼんやりと桜の木を見つめるまーくんは、どこか憂い顔で。俺が直ぐ傍にいて声を掛けている事など、気付いてもいないみたいだった。
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