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櫻花荘に吹く風~201号室の夢~ (4)
しおりを挟む初めて知る事の連続に驚くばかりの僕に、池上はいつも真剣に向き合ってくれた。
人数も少ない小劇団。大道具も小道具も衣装も、それぞれが役と兼務で作り上げていく忙しさの中、細々とした雑用以外は役にも立たない僕に構ってくれる。
せめてものお礼にと、居候をしている池上の部屋を掃除し、ついでだからと彼の分の洗濯もし、下手くそながら料理なんかもしてみたり。そんな毎日が楽しくて。
『昌樹が一緒に住んでくれて、俺すげえ幸せかも』
そんな風に言われる度に、何故だかドキドキと胸が高鳴った。何も出来ない自分が分かっていたから、そんな僕でも役に立っていると感じられる事が嬉しかったのかもしれない。
狭い部屋の中、寝返りを打てば至近距離にその存在がある生活。
いつの間にか僕の中で、池上成治という人間への憧れは恋へと変わっていた。その事に、自分自身でも気付いていなかったけれど。
「池上ー、昌樹にまで手ぇ出すなよ? お前も気をつけろよ? こいつ本当見境ねえから」
「うっわあ団長、それって偏見。俺は確かに女好きですけどー、こう見えて一途よ? サイクルが早いだけでさー」
「それを世間じゃ見境無いって言うんだよ!」
池上と団長との遣り取りに、ドッと場が沸き立つ。二人の間に挟まれて座る僕は、何て答えて良いものか分からず、ただ曖昧に笑みを浮かべる事しか出来ずにいた。
年が明け、年に四度ある公演の、冬公演が終わった打ち上げの席でのことだった。
新入りで発声もままならない僕には、当然役が付く事は無く、裏方で走り回る公演期間ではあったけれど、この輪の中に入れたのだという実感を、じんわりと噛み締めていた。
劇団の行きつけだという安い居酒屋で、値段と量を吟味しながら注文し、皆で公演が無事に終わった事を称え合う。勿論反省点も山にあったりするのだけれど、酒が入っての熱い議論となるそれらの話題も、初めて参加した僕には興味深くて。
「まあでも確かに、昌樹が相手なら舞台の上じゃなくてもキス位は平気かも?」
「え……ッ! ちょ、池上さっ」
「昌樹の唇は頂いた!」
不意に掠め取られた唇の柔らかな感触、微かに香ったアルコールの香り、周囲から湧き上がるはやかしの歓声。
真っ赤になった僕をからかう声が飛び交う中、得意気にグラスを掲げる池上の顔を、僕は直視出来なかった。鳴り止まない鼓動が、火照る顔の熱源が酔いのせいばかりではないことを伝えていた。
(僕、もしかして……池上さんの事が、好きなのか……?)
突然の行為によって気付かされた、淡い想い。
池上は酔うとキス魔になるから気にするなよ、と。災難だったと思って忘れろ、と。他の団員達から掛けられた励ましと思しき言葉にも、曖昧に微笑を返す事しか出来なかった。
一人高鳴る胸を抱えながら、その日僕は、眠れぬ一夜を過ごした。
良い気分に酔っ払って隣で熟睡している池上の顔を見つめながら、何かの間違いなんじゃないかと必死に考えた。
身長もさほど高いわけでもない中肉中背の僕だけど、地元にいた頃はお付合いをしていた女の子だっていた。経験値は低いけれど、男性としてリードする立場で、性交渉だって当時の彼女と経験済みだったし、男性を恋愛対象として見た事は、これまで一度も無かった。
けれど思い返してみれば、彼女を本気で好きなのかという疑問は、いつも傍らにあったように思う。
年頃の男子として、友人達と同じように彼女を作り、好奇心から抱き合って。初めて経験したセックスは、自慰なんかじゃ得られない気持ち良さを教えてくれたけれど、自ら積極的に彼女とエッチをしたいと思った事も無かった。
彼女の事は可愛いと思っていたし、好意は勿論あったけれど、それが「恋」だったのかと聞かれれば、素直にそうだとは答えられなかった。好きな気持ちはあったけれど、お互いに地元を離れての進学で、遠距離恋愛は無理だと告げられた別れも、あっさりと受け入れていた自分がいた。
僕はきっと、本当の意味での「恋愛」を、した事が無かったのだ。
気持ち良さそうに眠る池上を見ながら、胸が苦しくて仕方が無かった。いつからこんな風に、彼の事を意識していたのか……今となっては分からないけれど。
「池上さん――」
安物のカーテンを透けて入り込んでくる朝陽を浴びながら、心を決めた。抱いた想いは、隠し通そうと。
こんな感情を押し付けたところで、自ら女好きだと語っていた池上が、同性の僕に振り向いてくれる筈がない。それどころか、気持ちがばれたらきっと、池上は迷惑するだろう。
僕の勝手な想いひとつで、彼との関係をギクシャクしたものにはしたくなかったし、彼を振り回したりはしたくなかった。
新入りとしてこんなにも良くしてもらっている、それだけで十分じゃないかと、自分自身に言い聞かせて、僕は自分の想いに蓋をした。
それからひと月ほどは、何事も無く過ごしていた。
稽古場とバイトの弁当屋との往復の日々。池上との関係も、先輩と新入り、そのままで日々は流れた。
相変わらず池上は、他の劇団への飛び入りの仕事等も入っており、それなりに忙しい毎日を過ごしている。それが誇らしくもあり、寂しくもあった。
同じ部屋で寝起きしている事が幸せで、辛い毎日。
そんな中で僕にも、舞台デビューとなる春季公演での役が与えられた。台詞はほんのひと言で、出番も二シーンしかない端役だけれど、嬉しくて。
喜ぶ僕に、池上も良かったなと笑顔をくれた。その事が余計に嬉しかったのに。
「昌樹、あのな……申し訳無いんだけど、なるべく早めに、自分で部屋借りてもらえないかな?」
「え? あの……」
「うん、お前から貰ってる家賃分で、俺もかなり助かってる。だけど……団長にはまだ言うなよ? 実はさ――」
照れたように俯きながら、幸せが滲んだ声で告げられた言葉。
『彼女が妊娠してな、籍入れる事にしたんだ』
嫌だなんて、離れたくないなんて、言える筈が無かった。だって池上は、僕の気持ちなんて知らないのだから。
笑顔でおめでとうございますと、急いで住むとこ探して出て行きますからと、それ以外に何て言えば良かったのだろう。ありがとうと微笑む池上を前に、端役でも、もらえる程度には演技の幅が成長していた自分に、感謝した。
それまで僕は、池上に彼女がいる事すら知らずにいた。元は池上のファンだったという、会社勤めをしているOLの女性。
僕も女性だったなら、結果が少しは違っていたのだろうか。有り得もしない事を考えては、落ち込んだ。
鉛を飲み込んだような重苦しい気持ちを抱えながら、それでも毎日は過ぎていく。新しく部屋を借りれるような余裕なんて無い。時給の安いアルバイトひとつしかしていない僕には、どうすれば良いのか分からなくて気ばかりが焦る。
そんなに直ぐにじゃなくてもいいぞと池上は言ってくれたけれど、あの日からちょくちょくアパートに訪れるようになった彼女を、彼女と寄り添う池上を見ているのが辛くて。
資金礼金ゼロで借りれるアパートもある時代とはいえ、そういう部屋は大抵立地条件の良い所にある分、家賃も高い。
不動産屋を巡るにも、残金少ない財布の中身では、場所にあたりを付けることも出来ない。
稽古場への寝泊りは基本禁止されているから、どうにかして住居を探さねば無かった僕は、駄目もとで弁当屋の主人に頭を下げた。休憩用の小上がりに、少しの間だけでも寝泊りさせてはもらえないかと。
頭を下げた姿勢のまま、緊張して待つ僕の耳に届いたのは、意外な言葉だった。
「まあ、うん……バイト代、安くてすまないね」
「いいえ! ありがとうございます! これからも頑張ります!」
即答で断られると思っていただけに、了承の言葉をもらえた僕は、心底ご主人に感謝した。まさかその後に、あんな仕打ちが待っているなんて思ってもいなかったから。
喜色を浮かべた僕とは対照的に、どこか寂しそうな笑顔を浮かべていたご主人。バイト代が安い事を気に止んでくれているのだと、素直にそう思っていた。
そしてその日僕は、今までに無いくらいのお土産を、ご主人から頂いたのだ。住むところにも困っていた僕に対するご主人の気遣いなのだと思って、有り難く頂戴した。池上と二人じゃ食べ切れなくて、近くに住む団長の家にも持って行ったほどの量だった。
その日バイトから戻った僕は、池上に、翌日部屋を出る事を伝えた。
最後まで池上は優しくて、僕に申し訳ないと頭を下げてくれた。自分が引き受けると言ったのに、早々に追い出すような形になって悪かったと。これからも先輩として、いつでも頼ってくれと言ってくれた。その言葉だけで、僕は頑張って行ける。
手荷物を下げただけで劇団へとやって来た僕の荷物は、来た時とさほど変わりは無かった。置き場所に困るだろうから、取り敢えず必要な物だけ持って行けと言ってくれた池上に甘えて、トランクひとつ分の荷物は預かってもらう事にした。大き目のボストンバックひとつに当座の物を詰め込めば、出て行く準備は全て、終わってしまった。
給料日まであと数日。お給料が出たら、今度こそちゃんと、住む場所を探さなければ。
そんな風に改めて思いながら、池上と二人で過ごす夜を、静かに受け止めた。
最後だからと、池上の奢りで軽く酒を交わす。余りお酒に強くない僕は、ちびちびと啜る程度だったけれど、楽しそうに演劇論を語る池上を、こうして傍で見ていられるだけで、幸せだった。
明日からは、こんな小さな幸せも、味わう事は出来ない。
その事実が堪らなく、寂しかった。
アルコールが入ったせいもあるのだろう。
普段から寝付きが良い池上は、布団に寝転んだ途端寝息を立て始める。幸せそうに眠る彼に上掛けを掛けてやりながら、明日からこの役目も彼女のものになるのだと思うと、視界がぼやけた。
「最後だから……お願い、起きないで、下さい」
眠る池上の唇へ、ゆっくりと自分の唇を触れ合わせる。居酒屋で池上からされたものよりも、ずっとずっと軽いキス。羽根が触れ合う程度の、淡い接触だった。
「ごめんなさい、池上さん……僕は、貴方のことが、好きでした」
声になっていたのかさえ分からないほどの、小さな囁きは、古びたアパートの壁へと、溶け込んでいった。
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